心臓に、消えない痣を〜男装の処刑人と女装スパイ、“生き直し”の逃避行〜

四十川

第1話 終わりの始まり

 潮の匂いが染みついた港町で、エルは今日もコーヒーを淹れてる。

 返り血の代わりに、今は焙煎の香りを浴びながら、無表情でカップを磨いてる。


 あの“黒喪ネグラモルタ”が、だ。


 誰もが背を向けたあの処刑人が、今じゃエプロンなんか着て、豆の選別に真剣だ。

 笑えるんだよ、ほんとに。


 ――でもな、そうなるまでが、長かった。


 逃げて、殺して、死んだことにして。

 そうして生き延びた俺たちは、今この港町で“ふつう”を演じてる。

 あの処刑人が、だ。

 黒喪ネグラモルタ。組織に飼われていた、感情の死んだ殺し屋。

 でも今は、潮の匂いとコーヒー豆に囲まれて、白いエプロンつけてる。なあ、笑えるだろ?


 ……けど最初に出会った夜は、冗談抜きで“殺されかけた”。。


 ──そう、あれは――。

 月が、まるで誰かの死を祝うように、でかく、青白く笑ってた夜のことだ。 

 所謂〝狼月〟ってやつで、ビルの狭間に浮かぶ蒼白い輪郭が、チラつく雪を青白く染めていた。


「ったく、なんでオレがあの〝黒喪ネグラモルタ〟のバディなんかやらなきゃなんねェんだよ」


 誰にってわけでもなく、唇から漏れた独り言は、静かに雪の中へ消えた。足元に広がる血の匂いがまだ消えていない。静寂の中、喉を一突きされた死体が一つ。抵抗の跡もなく、まるで何があったのかわからないと言いたげなその顔。聞いた話の通りの仕事ぶり。――この現場に、“黒喪ネグラモルタ”がいたってことだ。

 組織の連中は、目を合わせるな、話しかけるな、背を見せるな、って口を揃えて言ってた。


 黒喪ネグラモルタは命令しか聞かない、機械みてぇな“死神”だって。


 見たこともないくせに、背筋が冷えるのは、きっと身体の方が先に理解してる。

 感情を殺して生きてる人間なんざ、嘘だと思ってた。でも――本当にいるんだとしたら、それは人間じゃない。悪魔だ。

 この雪より冷たい、絶対零度の誰か。それが、それこそが、黒喪ネグラモルタ。らしいが……。


「……ま、どうせ名前だけが独り歩きしてんだろ」


 たとえそれがどんな素性をしていれど、冷徹な仕事ぶりがもはや伝説と言えても、相手は人間、であるはず。

 

 ならば、騙せるだろう。“オレと同じ”でさえなければ。 

 

 冷える背筋を無視して、現場に残る血の跡を辿る。指令によればここで落ち合う手筈だ。まさか殺しの現場に呼ばれているとは思わなかったが。とりあえず、この返り血と思しき跡をたどれば当の本人がいる、と思う。なんとなく。勘。

 徐々に薄くなる跡を辿って路地裏を幾ばくか歩いた頃、曲がり角の先で、小さな悲鳴が聞こえた。誰かが争っているかのような物音が耳に入り、直感で黒喪ネグラモルタが居ると悟る。


 そっと、曲がり角から顔をのぞかせる。目線の先には壁際に追い込まれている一人の男と、その前に立つ漆黒の誰か。百八十は有に超えている。どこからどう見ても、完璧に“男”のシルエットだった。

 ……ただ、背中から漂ってくる香水みたいな甘い匂いが、どこか妙に心に引っかかった。

 

「た、助けてくれ……」


 壁際の男が、震える声で懇願している。漆黒の誰か――黒喪ネグラモルタ(恐らく)に縋り付きながら、涙を流して。はたしてあの男は揺らぐのだろうか。

 ひゅっ、と風を切る音がして。縋り付いていた男の首筋に、大振りなサバイバルナイフが吸い込まれるように振り下ろされた。

 鈍く重たい音を立てて、男が地面に倒れる。命乞いに何一つ揺らがず、言葉を返すこともなく男を仕留めた彼――黒喪ネグラモルタが、倒れた男の首筋に埋まるナイフを引き抜くと、ゆったりとした手つきで耳元に手をやり、何かのスイッチを入れたであろう軽い電子音が響く。恐らく組織に連絡する用の無線端末だろう。

 

「――完了クリア

 

 かすれた、低くハスキーな声がその場に響く。どう聞いても男の声、と言いたいところだが、どこか中性的な音だった。

 無線端末を切ったのか、また電子音が鳴り、ややあって黒喪ネグラモルタがまたゆったりと懐から煙草を取り出した。ジッポの金属音がその場に反響し、火を付ける。


「……いつまでそこに居るつもりだ」

 

 ぎくりと体が強張る。バレている。足跡か気配か、まさか気まぐれか。だが、もう誤魔化すのは無理だ。

 なにひとつ揺らがず、泣きつく標的に声すらかけなかったあの男に、多少の気後れはある。が、オレとて組織からの指令で来ている。殺されることはないだろう。

 意を決し、足を踏み出す。


「こ、こんばんは」

 

 よそ行き用の女声と、微笑。どこからどう見ても守ってあげたい女。このままこいつ落とせたら楽なんだが。

 背を向けていた黒喪ネグラモルタが、ゆっくりとこちらを振り返る。オレの足元から、舐めるように視線を上げたそいつと、まっすぐにぶつかる。

 夜の帳を下ろしたような長い髪を襟足で結いて、一房流れる前髪から覗く、涼やかな切れ長の、満月の瞳。陶器のごとく白く透き通る肌。すっと通った鼻筋に薄く形の良い唇。

 ――誰だよ、ムキムキのいい年した親父とか、世界大戦生き残ったジジイとか言ってたやつ。めちゃくちゃ美形の若い男出てきたじゃん。多分いいとこ二十後半だぞ。

 ……けど、あの目の奥にある光だけは、なぜか“男の目”じゃなかった。

 

「……お前が組織の言ってたやつか」

 

 煙草の煙を吐き出しながら、眉間にシワを寄せて、オレをじとりと睨む。

 

「使い物にならなきゃ殺せ、そう通達されている。意味はわかるな」


 どう聞いても歓迎しているとは言い難い、ひどく無感情な声音に、笑みを浮かべていた自分の眉がピクリと歪むのが感覚でわかった。なんだこいつ。名乗らせてもくれねえのか。そもそも使い物にならなきゃ殺すだと? なるに決まってんだろうが舐めやがって。

 

「ええと、あなたが黒喪ネグラモルタ……?」


 オレが言葉を発し終えた瞬間、風を切る音がして。ついで背後の壁に何かが刺さる音。そして、頬にかすかな痛みが走る。

 なにごとかと振り返れば、壁に刺さっているのは細身のスローイングナイフ。頬に血が伝う感触。そしてあいつは――まるで何かを試すように、片腕をゆるやかに持ち上げていた。肩のあたりで止まったその手は、まるで「次もある」と告げる針のよう。その顔には、怒りも愉悦もない。感情の欠片すら見つからなかった。


「その名を好いた覚えはない」


 こいつ――こいつ。ただその名が、黒喪ネグラモルタの名が気に入らないからってオレにナイフ投げたのか。どんな人間性してんだよまじで。そんなんだから黒い死、とか言うスラングができるんだろうが。

 ゆるやかに腕を下ろす黒喪ネグラモルタを視界の端に捉えながら、頬を伝う血を親指で拭う。

 

「ごめんなさい……。エル・ディアブロ、ですよね」


 内心ドン引いているが、気合で表には出さない。なるべく申し訳なさそうな笑みを浮かべ直し、無機質にこちらを睨みつける黒喪ネグラモルタ――エル・ディアブロへと視線を向ける。

 

「……お前は」

、コードネーム〝カーディナル〟と言います」

 

 エル・ディアブロは、何も言わずにこちらを見ていた。

 まるで人間じゃなく、獲物の重さを測る天秤のような視線だった。

 敵か、使えるか、足手まといか。――それ以外のカテゴリは、彼の中に存在しないらしい。目が合っても何も起きなかった。ただ、じっと、無表情に、静かに。それは歓迎でも拒絶でもなく、“殺す価値があるかどうか”を計算してるような――そんな目だった。


「……エルでいい」


 ふいっと視線を外され、ぶっきらぼうに告げられた。煙草の火を見つめる一拍の間の後、もう一度オレを見るエル・ディアブロの目が、なんとなく、本当にほんの微かに、穏やかになった気が、する。

 これは、〝殺す価値なし〟に分類されたのだろうか。なんとなくそんな、全く以て喜ばしくない評価を受けている気がするが、ひとまずそれは置いておく。

 背後に刺さるスローイングナイフを抜き、黒喪ネグラモルタこと、エルへと近寄る。

 警戒されている様子はなかった。そもそも“殺す価値なし”と分類されているということは、格下に見られているのだろうから、オレの存在など脅威でもなんでもないと思っているのだろう。


 その認識、改めさせてやる。

 

「これ、どうぞ」


 オレより十センチは高い瞳を上目遣いで見上げ、口元ににこやかな笑みを浮かべる。スローイングナイフをそっと差し出し、エルの顔色を伺った。ちなみに両手持ちで。

 自慢じゃないが、女として振る舞っている時のオレは、一応、見た目で釣れなかった男はいない。今までは、な。にこにこしながら可愛らしく振る舞えば、落ちない男など居ない。こいつだって男。どうせ鼻の下伸ばしてでれでれするに決まってる。

 

「捨てろ」

 

 エルは、ただ無感情にオレを見下ろしていた。

 ナイフは叩き落されるでもなく、受け取られるわけでもなく。

 ただ無機質に、そう告げられただけ。


  は? いや、マジでなにこいつ。

 今まで接してきた男なら、デレるか、せめて笑うだろ。――本当に、男か?

 だけど――その目の奥に、ほんの一瞬だけ、揺らぎが見えた。

 ――オレはまだ、この人間の“地獄の底”を知らなかった。


 あれは、何だったんだろうな。今でも、思い出せる。

 この死神が、まだ“死んでなかった”ってことを、オレだけが知った瞬間だ。


 ――そして、このときからもう、終わりは始まってたんだ。

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