軍師黒田官兵衛と武人黒田長政 再編集版
DECADE
第一章 臥薪嘗胆
【一】
姫路の龍と恐れられている黒田官兵衛は、小寺政職の家臣であった。
小寺政職は暗愚な領主として知られており、隣接している赤松や別所と小競り合いを繰り返していた。
また、小寺政職は赤松家の赤松政秀と戦をすることになった。
だが、今回は、小寺政職は赤松家を舐めきっていた。
何しろ前回、赤松家と別所家が示し合わせ、その軍勢三千が姫路城を攻めた。落城の危険を感じた官兵衛が、姫路城に三百の軍勢で援助、赤松勢を蹴散らして撤退させた。
このことから、小寺政職は赤松勢を十分の一の軍勢に蹴散らされる弱い将たちと舐めきっていた。
総大将が相手を舐めているのだ。重臣だけでなく、足軽までもが舐めきっていた。
だが、この戦は先手必勝とはいかず、寧ろ先に攻撃を仕掛けたほうが劣勢になるだろうと官兵衛は感じた。
そもそも夢前川を境に両軍が対峙しているのが良くなかった。梅雨が過ぎてすぐというだけでなく、元から夢前川は深い。増水した深い川という要害によって兵たちが無駄に溺れ死ぬことを官兵衛は一番に危惧していた。
そんな中、赤松勢からの小寺政職への誹謗中傷が繰り返された。
「御着の城に隠れる亀」
だが、本当のことであった。小寺政職は殆どの戦の総大将を小河三河守ら重臣に任せている。己は本拠地である姫路城で茶でもすすって、羨ましいほど呑気に朗報を待っているのだ。
しかも我慢の嫌いな単細胞の小寺政職は誹謗中傷に激怒し、赤松勢への総攻撃を命令した。
「赤松ごときに遅れを取ることなどないわ。かかれえ」
だが、官兵衛の危惧は当たり、やはり先に仕掛けたほうが劣勢であった。つまり、官兵衛から見て味方であるほうが劣勢だったのである。
自軍が深い夢前川で足を取られている間に、敵勢が弓や槍投げ、少数ではあったが鉄砲を駆使して、攻めてきた小寺の軍勢をこてんぱんに迎撃した。
潰走する兵ほど弱いものはない。小寺の兵は赤松勢に包囲され、殲滅された。
小寺本陣に戻った官兵衛は、小寺政職に戦況を報告した。
「申し上げます。ただいま、赤松勢に一隊が包囲され、殲滅させられました」
小寺政職が動揺しないわけがなかった。
「そ、それでどうした。赤松の軍はこちらに向こうておるのか」
「いえ、その一隊を殲滅し終わり、本陣に撤退いたしました」
小寺政職は胸をなでおろした。
「そうか、我が方と赤松めの軍勢のおよその数を言え」
「はっ。我が方が先程千を切り、赤松の軍勢、およそ二千程と思われまする」
本陣にいた諸将が立ち上がり、驚きをあらわにした。
「に、二千じゃと」
その中で、官兵衛のみが冷静であった。
「こうなれば、赤松に撤退してもらうほかありませぬな」
本陣にいた諸将はまた驚いた。新参者の筈のいち軍師が二倍以上の軍勢を追い払うと言っているのだ。
「政職様、我が愚見を聞き入れてくれますでしょうか」
政職は承諾し、官兵衛は早速、己の立てた策を喋り始めた。
「夜襲をかけるのです。夜襲をかけ、敵軍を動揺させれば、敵は尻尾を巻いて逃げていくでしょう」
説明されている間、それが早く終わってほしかった政職が焦った。
「それを追撃するのだな」
だが、政職の考えることと、官兵衛の考えることは違った。
「いえ、追撃はいたしませぬ。夜襲をしたところでこちらが劣勢ということに変わりはないのです」
「ではどうするのだ」
「ここでは、我が方の兵を無駄に死なせないことこそが肝要でございます。そのためには、夜襲で如何に敵に気づかれずに近づけるか、一気に追い払えるかが鍵となります。そのため、攻撃したらすぐに逃げる前提で、防具を外して攻撃をいたしましょう。ですが、それだけでは敵は逃げませぬ。・・・・・・いや、長くなりますので、これにて失敬いたします。私のみで夜襲を仕掛けまする」
こう言い残して、官兵衛は小寺本陣を去った。
この夜襲は面白いほどに成功した。
昼の戦況を見て、赤松勢が、小寺はもう反撃はしてこないだろうと踏んでいたのだ。油断していた赤松勢は数百人を討ち取られた。
だが、官兵衛の軍の被害も二百八十七人と信じられない数であったが、取り敢えず目の前の赤松軍を追い払えただけで十分だった。
戦場を離れた官兵衛は、己の製薬工場へと向かった。
己の製薬工場を訪れた官兵衛は、働いてくれている者たちをねぎらった。
「おお、皆、元気そうで何よりだ」
そんな中、官兵衛は家臣の竹森新右衛門に呼び出された。
「おお、新右衛門。良いところに来た。と言うのもな、昨日川に仕掛けた罠にどれだけの魚がかかっているか見に行きとうて、供を探していたのだ」
「喜んで」
川に到着した官兵衛は、草鞋のまま川の中に入っていった。
「殿、そのようなこと、私が」
竹森新右衛門が官兵衛に駆け寄ったが、官兵衛は止めた。
「己が仕掛けた罠の醍醐味は己が目で結果を確かめることであろう。儂の楽しみを奪うでないわ」
官兵衛は笑いながら竹森新右衛門を制した。
官兵衛は罠の重さに目を丸くし、踏ん張りながら、竹森新右衛門に命じた。
「新右衛門、これは大漁ぞ。岸に葉を敷いてくれ」
「はっ」
竹森新右衛門は、飛び跳ねる魚を抑えながら官兵衛に問うた。
「殿、一つお話があるのですが、よろしいでしょうか」
「何じゃ、申せ」
「武田家が織田家に大敗されたとの由」
この知らせを聞いた瞬間、官兵衛に百雷が落ちた。少なくとも、戦国最強と言われている武田の騎馬隊である。武田と真逆で戦国最弱と陰口を叩かれている織田の軍に負けるなど、まずあり得なかった。
しかも、武田信玄に鍛えられた百戦錬磨の騎馬隊である。既に信玄が死んでいるとはいえ、その息子の勝頼も、武名は父に負けるとも劣っていなかった。
武田勝頼は信玄に比べてそれほどと思われがちだが、長年信玄が攻め落とせなかった高天神城を、当主となってすぐに襲い、手に入れていた。
だが、そんな武田騎馬隊にも弱いところはあった。城攻めである。そのため、官兵衛は、今回の織田家の戦いは籠城戦だと考えた。
「戦場はどこじゃ」
「設楽ヶ原と聞いておりまする」
「原・・・・・・名前からすれば平地のようだの。だが、平地で武田が負けるはずがない」
「ですが、被害は甚大と聞いておりまする」
「では、見方を変えて聞こう。武田に仕えていた、馬場に山縣、甘利を始めとした、それこそ一国の主となってもおかしくないような者たちはどうしたのだ」
「はっ。枕を並べて討ち死にされた由」
「そうか、鉄砲だな。馬に勝つにはそれしか無いか・・・・・・。だが、鉄砲は撃ったら次の弾を撃つまでに時間がかかる。その間に、一発目の当たらなかった者たちが、鉄砲隊を蹂躙するぞ」
「織田方は、三千の鉄砲を揃えられたとの由」
「三千もか」
官兵衛は驚いた。黒田家の鉄砲をかき集めても十挺程しかない。主君である小寺家でも、鉄砲の数は百挺が限界である。
「どれほどの金満家なのだ、織田家は」
三万の兵を一つの戦に雇うだけでも金がかかるというのに、その三万人分の兵糧、刀や槍、弓などの武器の代金がかさむ。そこに鉄砲三千挺分の金額がかかってくるのだ。莫大な金額がかかるのは小規模な戦しか体験していない官兵衛にもわかることであった。
官兵衛は、飛び跳ねて逃げていく魚に目もくれず、ただただそこに棒立ちすることしか出来なかった。
この戦から織田家に興味を持った官兵衛は、摂津国の領主である荒木村重の有岡城に出向いた。
「荒木摂津守殿にお会いしたい」
そう言うと、門兵は門を通した。
天守閣に入った官兵衛は、荒木村重に会い、少しばかり会談した。
「荒木摂津守殿でござるな」
「如何にも。まさか、黒田官兵衛殿でござるか」
「そうでございます」
「いやいや、姫路での戦い方を見るに、どれほど高齢のお方かと思うておりましたが、これほどお若いとは頼もしい」
こんな会話はすぐに終わり、話は本題へと移った。
「して、従ってくれるか。小寺殿は」
官兵衛が少し状況を話すと、荒木村重はすぐに理解した。
「なるほど。織田家に仕えたいというのはあくまで黒田殿の一存であって、小寺殿の考えではないというのだな」
荒木村重が信長に仕えたときも官兵衛と同じ境遇であった。荒木村重は元々、三好家に降り、摂津で勢力を張っていた池田勝正の家臣であった。
三好家当主である三好長慶が死去すると、三好家は三つの勢力に分裂した。
そのまま三好家に留まる者、他家に寝返る者、この勢いで独立する者であった。
池田勝正は三好家に留まった。池田勝正は、大和国周辺で勢力を誇っていた独立した後の松永久秀を相手に、三好三人衆と手を組んで戦った。
そこに、信長が足利義昭を奉じて上洛するとの知らせが入った。それと同時に、松永久秀が信長に降ったという知らせも入った。
途端に摂津は反信長で一致した。
これではまずいと、荒木村重は信長に話をつけ、仮に抵抗しても、降伏を許すことを約束した。
荒木村重の予想通り、池田勝正は池田城に籠もり抵抗したが、信長の軍に城下を焼かれ降伏、織田家の家臣となった。
荒木村重は、池田勝正が領主であった摂津国一国の支配を信長から許された。
荒木村重がこう話すと、官兵衛は呆れたように愚痴をこぼした。
「私は知っておるのです。いつまでも織田家と毛利家の両天秤。私がいなくなれば、小河三河守ら毛利に近い宿老を招いて密談にふける。それなのに、私が姫路に出向いて軍議に出席するとなれば病気と偽り会おうとしない」
荒木村重は官兵衛が言い終わるとすぐにこう言った。
「ならば、羽柴秀吉殿に会われよ。筑前殿であれば、降伏しようとも、しなくとも、なんとかしてくれるやもしれぬ」
「かたじけなし」
荒木村重から進言を受けた官兵衛は、すぐに秀吉の本拠地である長浜城に出向いた。
秀吉の噂は、播磨にいたときに耳に入っていた。最初は織田家の草履取りから始まり、桶狭間の戦いなど、織田家の数々の戦で戦功を立て、今や一国一城の主という、下剋上をその身で見せた男である。
長浜に着いた官兵衛は、すぐに秀吉に会いたがった。
「黒田官兵衛孝高にござる」
こう言うと、門兵が中に行った。
改めて長浜城を見上げて、官兵衛は目を見張った。家臣がもらう城でこれほどなのだ。信長の本拠の城はどれほどだろうと考えている間に、城門から背丈のあまりない男が足早に現れた。
「失礼だが、もしや貴殿は・・・・・・」
「ああ、申し遅れたの。筑前じゃ」
官兵衛は、秀吉の行動に目を疑った。普通は城主が客人を、ましてや、自分と同等、それ以下の者を自らで迎えることなどありえないことであった。
秀吉に誘導された官兵衛は、後をついていった。
「本当の入口はあっちの城門なのじゃが、こっちの台所口のほうが近道なんじゃ」
秀吉曰く知る人ぞ知るという台所口から城に入ると、そこで一人の女性が台所仕事をやっていた。
その女性は秀吉と官兵衛の存在に気付くと、こう言った。
「まあ、あんた、また客人かえ。知らない顔じゃが、どなた様だがや」
「ねね、前に言ったろう。姫路には恐ろしい龍が一匹寝ておると。その黒田官兵衛じゃ」
「まあ、本当かえ。顔も知らなかったわ」
「そうじゃろう、そうじゃろう。じゃが、実は儂も知らぬ」
秀吉が呵呵と笑った。
「相変わらずええ加減じゃの。官兵衛殿。こんな奴の話は大体で聞いときゃええから、白湯でも飲んでゆっくりして行きなはれや」
そう言って、ねねが秀吉と官兵衛に白湯を差し出した。
ねねが去ると、秀吉が官兵衛の耳元で囁いた。
「美しいじゃろう。まあ、あのかしましいのが儂の妻じゃ」
「秀吉様、かしましいのはあんさんではないかい」
「・・・・・・」
秀吉は図星をつかれたようであった。
官兵衛は驚いた。城主の妻が台所仕事をやる。ありえないことであった。官兵衛のもとに嫁いだ櫛橋甲斐守の娘は、台所仕事どころか、針仕事一つまともにやったことがなかった。
「あれは百姓の娘じゃからの。何でもやらにゃあ気がすまぬのじゃ」
少し前の図星を隠してねねに言い返すように、秀吉が笑いながら言った。
しかも、官兵衛が驚いたのはそれだけではなかった。粗末な服と適当にまとめた髪でこれほどなのだ。良い服を着せ、それなりの化粧をさせれば、京でも稀に見る美人であると、官兵衛は感じた。
「あ、雑談ばかりで本題を忘れておったな。流石にここではまずい。天守に案内する」
天守閣に入り、小寺の話に入った。
「改めまして、小寺政職が家臣、黒田勘解由次官官兵衛孝高にござる」
「ああ、そうかしこまるでない。上様の前ではないでな。して早速じゃが、従ってくれるか、小寺殿は」
「それが・・・・・・」
官兵衛は、今の小寺家がどういう状況なのかを説明した。
話し終わると、秀吉が口を開いた。
「・・・・・・最悪、小寺のことはどうなろうとも良い。それよりも官兵衛、お主のことだ。播磨の三分の一を治めているとはいえ、武田に比べたらひとたまりもない。それこそ、三千の鉄砲と兵を繰り出せば簡単に落ちる」
秀吉は淡々と語った。
「じゃがの。治世をしていくには人が必要じゃ。如何に戦が強うても、統治力がなければ上様の天下統一後は仕事はあるまい」
そして、秀吉は続けた。
「儂が播磨から西をできるだけ調べて、欲しいと思うたのは三人だけじゃ」
「三人・・・・・・」
「毛利両川の一人として甥である毛利輝元を補佐している小早川隆景、備前の梟雄宇喜多直家、そしてお主、黒田官兵衛じゃ」
「私が・・・・・・」
官兵衛は正直驚いていた。己以外に挙げられた二人はどちらとも小寺家と同等、いや、それ以上の勢力を誇っていた。それと並んで挙げられたことは己にとって名誉であった。
「儂はの、小早川や宇喜多は最悪どうでも良い。それよりも官兵衛、儂は一番、そなたがほしい」
「誠でございますか・・・・・・」
官兵衛は純粋に嬉しかったが、毛利両川の小早川、備前の宇喜多よりも、自分が上に行ったことを気づき、これがもし小寺家の宿老たちに伝わったら、と危惧した。
そして、話は急に展開した。
「そうじゃ、信長様に会おうぞ」
官兵衛は取り乱し、ねねから受け取った白湯を吹き出し、詫びた。
「気にせずとも良い、構わぬ。それよりも、本当に信長様と会わないか。信長様は面倒なことがお嫌いなお方じゃ。和睦の条件の良し悪しも、いちいち確認していては時間が足りぬ、と叱責を受けたほどじゃ。さ、善は急げ。参りますぞ」
急な話の展開に、官兵衛はついていけなかった。
長浜から岐阜まで、馬を走らせて向かうこととなった。
官兵衛は、その間の道に注目した。
「どうした、官兵衛。この道のことか」
「はっ」
官兵衛は、馬上の揺れで舌を噛まないよう、短く返事をした。
「そうじゃ。信長様からの石ころ一つ残すな、との命じゃ」
「これも信長様が・・・・・・」
「他にも、関所の通行税をなくした」
「なんと。では、収入源は・・・・・・」
「ああ。皆不思議がるのじゃ。なぜ通行税をなくしたのかをな。確かに、通行税をなくしたことで入ってくる金は減った。だがな、通行税をなくせば、商人たちは通行税がある関所より、ない関所を通る。そうすれば、商人たちが城下で物を売る。その物を領民が買う。こうして、目に見えぬ収益が何倍にも増えたのじゃ。しかも、城下に物が揃えば、より良い物を選ぶことができる。そうして、強い武器を入手して、織田家全体が強くなる」
官兵衛は、そこまで考えている信長に感嘆した。
【二】
岐阜城に着いた一行は、すぐに信長への目通りを願った。
秀吉がいたからか、話が早かった。
天守閣に呼び出された一行は、入るとすぐに頭を下げた。
「面をあげよ。後頭では、人がわからぬ」
「官兵衛殿。ここは上様の言うとおりになされよ」
戸惑う官兵衛に秀吉が助け舟を出した。
顔をあげると、色白で聡明そうな、とても世間で囁かれている鬼という印象とは全くかけ離れていた。
「官兵衛。小寺は本領安堵して使わす。ただし、秋までに政職を説き伏せよ。それが条件じゃ。良いな」
「はっ」
信長はあっさりと本領安堵を示した。これは、最近の信長には珍しいことであった。
最近信長は、参上するのが遅いだとか、最初の態度が良くないとか、何かと難癖をつけて所領を奪うようになっていた。
だが、その信長が本領安堵を示した。官兵衛は、そこから信長の僅かな心遣いを感じた。
「あと、官兵衛。これをやる」
「これは・・・・・・」
「儂の愛刀じゃ」
「官兵衛殿、受け取りなされ」
状況が掴めず戸惑う官兵衛に、再び秀吉が助け舟を出した。
官兵衛は信長のこの無防備と言えるこの対応に唖然としていた。今、官兵衛に害意があれば、信長はこの場で斬り殺されている。
「圧し切りじゃ」
圧し切りとは、長谷部国重作の打刀である。
あるとき、信長に無礼を働いた管内が、詫びない上に台所の棚に籠もって出てこなくなった。信長は、この管内が喉の乾きなどに耐えかねて出てくるのを待つことなく、棚に刀を差し、そのまま圧し切り、管内の胴を真っ二つにした。
「圧しただけで切れた」
これに驚いた信長は、この刀に圧し切りという名をつけた。
その刀を他人に渡すのだ。いかに信頼できる人でも渡せないような代物である。
その行動に官兵衛は、このお方には天下人の器量がある、と感じた。
信長の後光は眩しく、濃い影を作らないのが家臣の仕事であると確信した。
「全く、筑前も儂に毎回、無理難題を押し付けてきよるわ」
「ははっ。申し訳ございませぬ」
官兵衛は、詫びている秀吉の表情が笑顔であることに驚いた。これは、互いの信頼の証であると感じた。
小寺政職は、官兵衛を重宝し、信頼しているが、ここまでではなかった。それに加え、近頃の小寺政職は官兵衛を疎んじていた。それは密談からもわかることであった。
こういう状況から、官兵衛は二人の信じ合うということが羨ましく感じた。
「官兵衛。余がなぜ天下統一を急ぐかわかるか」
「世に安泰をもたらすためでしょうか」
「違う」
信長が不機嫌になった。
「官兵衛殿、わからぬふりは信長様はお嫌いじゃ」
秀吉が官兵衛に助言した。
「鉄砲にございまするか」
「そうだ」
信長がご機嫌になった。
「普通はの、その相手が誰であっても自国の最強兵器は門外不出にする。その筒先を己に向けられたら困るからの。そのため、南蛮には鉄砲よりも優れた兵器が絶対に存在すると思うておる」
「私もでございます」
「ちなみに、これは明国の者から聞いた話なのだが、南蛮に支配されたインドなどは人が人として扱われず、物として売り買いされているらしい。インドを中継したら、日本に攻め込むことなど容易だ。それを防ぐために、日本中が一つになることが必要だ。今のこの国はな、隣の国が南蛮に攻め落とされても、助けには行かぬ。それこそ、ざまあみろと言って嘲笑うのがおちだ。そしてそれが、次は自分に来ることも知らずにな」
「なんと酷いことを」
官兵衛は信長の言葉をまさにその通りだと感じ、無意識のうちに言葉を漏らしていた。そのため、信長の話をずっと聞いていられた。
官兵衛は、信長が日本を一つにするということを言っていることに驚いた。
確かに播磨の情勢を見ていると、そう思うのも仕方がなかった。
官兵衛が仕えている小寺家と、官兵衛の祖父である重隆までが仕えていた赤松家は、本当は一門である。
だが、何代も前に別れたため、既に一門であるという意識はなく、共に播磨守護赤松家正統を名乗り、なまじ領地が接しているということで小競り合いを繰り返していた。
官兵衛がそのようなことを考えている間にも、話は進んでいた。
「儂は生きているうちに天下統一を成し遂げる。南蛮に攻められる前に、日本の武士皆が一丸となってこの日の本を守ることができるような国にする。儂が死んで、この国が南蛮の属国になってしまっては困るからな。だから儂はたとえ鬼と言われようが天下統一を急くのだ」
そう言い残し、信長が去った後、官兵衛は秀吉に呼び止められた。
「待たれよ。どうじゃ、上様に会った後は」
「まるで・・・・・・あたりを照らす日輪のようでございました」
「じゃろう」
「それ故、信長様が濃い影を作り出そうと、我らが一丸となってその影をなくすことこそが使命とも感じましてござる」
「その仕事こそが、天下統一事業じゃと思わぬか」
「そうでございます」
「世の中を見よ。お主は歌道に浸っておれば良いかも知れぬが、この世で暮らしている農民の苦しみはまさに地獄ぞ」
元々農民上がりである秀吉が官兵衛を見つめながら話した。
秀吉の言うとおり、官兵衛は歌道に専念していた武将であった。だが、知人から軍学を勧められ、才能が花開き、小寺政職の軍師となった。
秀吉は、官兵衛をじっと見て、何か返事をせよと目配せをした。
「確かに、秀吉殿の申すとおりでございます。この天下、今やもう信長様に集まろうとしている今、帰趨を明らかにしない者共は逆賊として討ち果たしても文句の言われる筋合いは無いかと思われまする」
「やはりお主は世のわかる男じゃ」
秀吉は満足そうに、部屋から出ていった。
秀吉に褒められて官兵衛は姫路へと帰って行った。
姫路に戻った官兵衛は、信長との約定を忘れていなかった。
「秋までに、あの暗愚で日和見を続けている主君を説得か・・・・・・」
正直、官兵衛は説得は無理だと思っていた。何が何でも押し通し、それでも無理であれば、捨てて己のみ織田家に従い、小寺政職など切腹なり何なりすれば良いと思っていた。
城門に着いた官兵衛はそのまま城に入り、密談中かもしれなかった場所の襖を躊躇なく開けた。
「只今、戻りましてございまする」
「お、おお、今までどこに行っておったのじゃ」
焦って何かを隠すように小寺政職が問うた。
「織田信長様に会ってまいりました」
その場にいた皆が茶を吹き出した。そのあからさまな反応からは、毛利につこうとの密談をしていたのだろうということがありありとわかる。
官兵衛は、小寺政職の側に寄り、諭した。
「政職様、よくお考えなされ。織田家には三千挺の鉄砲があるのでございますぞ」
「針小棒大であろう」
小寺政職が官兵衛の言ったことを否定した。それほど、三千挺という数字はずば抜けていて、信じられないものであった。
「いえ、決して嘘ではございませぬ。官兵衛、この目で見て参り申した」
少し間を置くと、官兵衛は再開した。
「恐らく、織田家全てで五千挺の鉄砲がございましょう。それを全てこちらに向けられれば、この御着の城などひとたまりもないかと」
小寺政職に思案の時を与えず、官兵衛は続けた。
「殿、この世は既に織田信長様の元へ集まりつつあるのです。ここで信長様の敵に回られては、この城で兵と一緒に血を流すこととなりましょう」
官兵衛は、小寺政職の最も嫌いな討死を危険性として出した。
「う、ううむ・・・・・・」
小寺政職は少し考えると、こう言った。
「織田につくことは良い。高望みしたところで、儂らは誰かに従わねば生きて行けぬからの」
小寺政職が現実を直視した。
「だが、今のところ、織田家が影響を及ぼしているところは播磨がいいところでしょう。そこから西には手を出せておりませぬ」
重臣の小河三河守が小寺政職の前に近寄った。
「それに、信長殿にはあまりにも人望が無さすぎぬか」
そう述べたのは、官兵衛の舅、櫛橋甲斐守であった。
「そうじゃ、そうじゃ」
他の重臣たちも同調した。
「近江の浅井殿を見よ。あのお方らも、信長が間違っておったのに、信長に謀反じゃと言われ滅ぼされた」
足利義昭との上洛を果たした信長は、少しでも協力体制を取れる大名をつくっておこうと、近江の浅井家に目を向けた。
浅井長政は、信長の妹のお市の方を娶り、同盟を結んだ。
このとき、長政の父である浅井久政が、朝倉家を攻めるときは必ず自分たちに話を通すように、と条件をつけた。
これに信長も承諾した。だが、その後、信長が浅井家に話をする気配を見せることなく、独断で朝倉攻めを敢行した。
これに怒った浅井家が朝倉家と共に信長を挟み撃ちにし、信長は命からがら撤退した。
それから、比叡山焼き討ち、朝倉家の滅亡などを経て、小谷城は落ち、近江の名門浅井家は滅びた。
「約を破ったのは信長殿じゃ。しかし、かのお方は浅井家をお許しにならなかった」
「そうじゃ。信長のやることは鬼ぞ。伊勢長島の一揆も、降伏を受け入れておきながら、投降して出てきた農民共を弓鉄砲で女子供関係なく沈めたと言うではないか」
櫛橋甲斐守の意見に小河三河守が付け足した。
「はははははは」
急に官兵衛が狂ったように笑いだした。織田と小寺の板挟みによって狂ってしまったのではないかと全員が思ってしまった。
「皆様方は、そのお人を敵に回したらどうなるのかをお考えにならないというのがつい面白うて笑ってしまい申した」
官兵衛も、これが良くない方法ではないとわかっていた。だが、この説得に時がかけられないこともわかっていた。
ここで説得できなければ、また織田家と毛利家の両天秤が続き、毛利に傾く将たちのみの密談が始まるだけである。全く状況が変わらないことだけは、官兵衛がなんとしても阻止したいことであった。
官兵衛と小河三河守が小寺政職の前に擦り寄り、顔を見つめた。小寺政職は、ぼそっと口にした。
「・・・・・・織田につく」
「なんと」
「おお」
毛利に傾く将たちが驚愕した。
「宇喜多を敵にされるか」
小河三河守が呆れたように口にした。
「なに、信長に従うわけではない」
「と、申しますと?」
「信長殿が本領安堵を示して来たと言うことは、この播磨を治めている我が小寺家が重要である証。毛利や宇喜多の戦でも我らを重宝すること、間違いあるまい。それで毛利との戦で功を立ててみよ。間違いなく小寺家は奴らの旧領から一部を治めて大大名となる。いや全部、備前も、安芸もぞ」
「なるほど。織田家の勢力を利用するのでございますな」
「そういうわけじゃ。官兵衛が堂々と引っ提げたこの好機、断る理由はなかろう。と言うわけで官兵衛、信長殿にしかととりなしてくれよ」
「ははっ」
官兵衛は平伏したが、その顔は喜びのものではなかった。政職の態度がたまらなく鼻についた。だが、それを注意すれば折角織田家に傾いた天秤が一気に毛利に傾くことになる。それだけは避けたかったから、開きそうになる口を必死に抑えた。
こうして、官兵衛の説得は成功した。この話は、すぐに岐阜の信長の元へと伝わった。
「黒田官兵衛・・・・・・なかなかやる男よ」
信長はこう言うと、秀吉と官兵衛を岐阜に召集した。
「官兵衛、そろそろ小寺が毛利に攻撃を仕掛けられる頃であろう。なぜなら、御着の城にいた将は、殆どが毛利に傾いておったからな」
「そのとおりでございまする」
官兵衛が肯定した。
「その後なのだがな、官兵衛。毛利の動きが落ち着いたら、筑前の与力となれ」
「わ、私でございますか」
秀吉は驚いた。欲しがった人材がついに己の元へ来るのである。秀吉には、これ以上の喜びは今までで無かった。
「ありがたき幸せにございます」
秀吉と官兵衛が平伏して、ことは終わった。
小寺政職が織田家に臣従したことは、すぐに岐阜の信長のもとに伝わったのは良いのだが、同じ頃に毛利輝元のもとにも伝わった。
小寺政職が毛利に傾いていたことを知っており、織田家に臣従したことを知った毛利輝元は、当然激怒した。
「おのれ小寺め。よし、裏切り者の小寺に誅を下すのじゃ」
毛利輝元は、浦宗勝に五千の兵を預け、姫路へと向かわせた。
だが、備前の領主で毛利家の客将である宇喜多直家が己にやらせろと毛利家に言った。
「裏切り者の小寺の領地には我が宇喜多領のほうが近うござる。つまり、地の利は我らにあるのです。なに、小寺ごときに毛利様が直々に出られなくとも、この宇喜多直家めが打ちのめしてみせまする」
「お心遣い感謝いたすが、これは我らが誅を下さねばならぬのじゃ。いわば毛利家のことぞ。毛利家のことに宇喜多殿が首を挟まれる必要はない。宇喜多殿には次の逆賊討伐戦に出てもらうこととして、ゆるりとしてなされよ」
毛利輝元は、宇喜多直家の進言をやんわりと断った。
「あいつがやったら播磨を全て取りかねぬ」
毛利輝元の叔父である吉川元春は宇喜多直家を嫌っていた。
宇喜多直家は元々、備前の領主であった浦上宗景の家臣であった。だが、織田信長を頼り一度謀反、それが失敗すると根回しまで完璧にして二回目の謀反を起こし、浦上宗景を追放した。
そのずる賢さを、吉川元春は嫌っていた。
「左様。あの者に任せるのは得策ではないかと」
吉川元春の意見にその弟である小早川隆景が同調した。
「では行くぞ。浦宗勝、出陣せよ!」
毛利輝元の命令で浦宗勝が出陣した。
官兵衛は、己の陣中で、毛利家が出陣したと知ると、玄米でできた握り飯を兵士たちに振る舞った。
「焦るな。握り飯はまだあるぞ」
官兵衛は、己も両手に二つ持ち、左手の握り飯に噛みつきながら、兵たちを落ち着かせた。
玄米は、よく噛まなければ飲み込めない。よく噛むことで、少量でもそれなりの満腹感を得られる。
湯漬けでも良いのだが、湯漬けはどうしてもかきこんでしまう。かきこんでしまうというのは早食いになることである。早食いになると、満腹になるまでに時間がかかる。
官兵衛は、玄米の握り飯にすることで、米の浪費を抑えた。
「殿。戦の準備が完了しました」
家臣の竹森新右衛門が報告に来た。
「食え」
官兵衛は、そう言うと右手の握り飯を差し出した。
「まだなにか用意いたしまするか」
「そうだな・・・ぼろ布と竹で旗に見えるようなものを作ってもらえると助かる。できれば百本ほどをな」
官兵衛は、無理強いを避けてきた。無理強いは、領民の不満がたまる。そうなると、一揆の原因になりかねないのだ。
「わかりましてございまする」
「できるか」
「はっ」
「では、戦が始まり、我らの兵が鬨の声を上げたら、そちらも松明に火を灯し、旗を立て鬨の声をあげよ」
「なるほど。伏せ兵に見せるのでございますな」
「ああ」
だが、もう一つの狙いもあった。毛利の兵が赤松家の領地の方へ逃げていったら、何を言われるかわからない。それこそ、黒田の兵が赤松の領地に入り込んできたとでも言われれば、黒田はおろか、小寺家も終わりである。
官兵衛は、それを防ぐために、赤松領の方面にその陣をひかせたいというのもあった。
竹森新右衛門が去っていくと、息子である松寿丸に会いに行った。
「松寿丸よ。今回の戦、お前の出番はない。すまぬが、ここで留守番をしてくれぬか。しかも、普通の武士なら良いが、お主の場合は初陣となる。じゃが、今回を初陣とすれば、誰もそなたの世話をしてやれぬ」
「松寿は、己のことぐらい、一人でできまする」
松寿丸が一端の武士ぶった。
「常日頃のことはな。だがな、戦の際は独特の作法がある。その作法を知らねば、将来の物笑いの種ぞ。それを教えてやれぬのだ」
「しかし、ここで父上が負けてしまっては松寿の初陣がなくなってしまうではありませんか」
「はははははは」
官兵衛は呵呵と笑った。
「よく聞け松寿。良いか、儂は負けるための戦はせぬ。戦は極力やらないに限る。だが、やらねばならぬときがある。それが今じゃ。やる以上は勝たねばならぬ。今の儂はな、背負うものが黒田の家だけではすまぬのだ。今回負けては織田の声望が地に墜ちる可能性がある。そうして、信長様に傾いていた小領主共が毛利に寝返る。そうなれば戦が始まる。しかも、負け戦がな。そうなってしまっては、責はすべて黒田が負わねばならぬ。しかも、そのときには黒田の当主は松寿であろう。そのような重き荷を、幼き頃から松寿に負わせとうないのだ」
官兵衛は長政を諭した。
「わかりました。父上を信じて、松寿の初陣を待っておりまする」
「ん」
松寿丸がその場から去っていった。官兵衛は、その姿を見て可愛そうであった。
「松寿・・・・・・もしやしたらお主は織田家の人質になるやもしれぬ。そうなれば、初陣が来る日は遠くなる。松寿、許せ」
父・職隆の願いを受けて、十七歳で初陣を許された官兵衛は、己の体験を思い出すように松寿丸に詫びた。
「官兵衛様」
「いかがした」
浦宗勝が姫路に着いたと聞き、官兵衛は、斥候の者に状況を見に行かせた。
斥候の者は、震え上がって帰ってきた。
「目前に毛利勢の船が五百ほど。兵の数は五千ほどと思われまする」
自分たちが小寺政職から預けられた兵が五百なのだ。震え上がるのも当然であった。
だが、斥候の者の予想に反して、官兵衛は不機嫌な態度を示した。
「残念じゃ。もっと兵を出してくれれば」
「はっ?」
「毛利の力を大きく削げたものを」
「か、勝てると申されますか」
斥候の者は唖然とした。
「勝てる戦も策が失敗したら負け戦となる。軍議を始めるぞ」
官兵衛がこう言うと、竹森新右衛門ら黒田の諸将が集まった。
「新右衛門には農民の方を任せたのだが・・・・・・どうなっている?」
「はっ。準備も整いましてございまする」
「そうか。では、他の者たちは戦が始まったら船に火をかけよ。だが、全てではない。三つに一つは残せ。残った船を奪い合いさせるのじゃ。そして、浮足立っているうちに突撃して宇喜多直家寝返りじゃ、と叫べ。そうすれば、毛利の兵どもは互いに疑心暗鬼となり、同士討ちになる。そこをつけば、我らは勝てる。良いか、決して功を焦るでないぞ。この戦は生き残ることこそ功じゃ」
官兵衛は、戦功に焦る兵たちを諌めた。
「では参るぞ」
官兵衛の軍が鬨の声を上げると、向こうの山で農民の隊が呼応した。
「皆の者!向こうに負けないように叫ぶぞ!」
正面からも、山からも鬨の声が聞こえ、毛利の兵は焦った。
だが、近くから悲愴な声が聞こえてきた。
「は、浜の船が燃えているぞ」
こうして、毛利の兵同士が船を取り合った。
「あ、焦るな。ここを西に向かっていけば、必ず毛利の領地に辿り着ける。もしやしたらその前に瀬戸内水軍の援軍も望める」
だが、浦宗勝の声など、動揺する兵には届いていなかった。
そこに官兵衛の隊が全力で突撃した。ますます兵たちは混乱した。
そこに、官兵衛の計略がまたはまった。
「備前勢だ」
「備前勢の寝返りだ」
黒田の兵たちが口々に叫んだ。動揺は毛利の兵全体に広がり、手がつけられなくなった。
毛利の兵は寄せ集めである。そのため、互いの顔を認識していない。毛利の兵は、適当に槍を振り回し、同士討ちとなった。
「これでは埒が明かぬ」
浦宗勝が舌打ちをし、毛利勢は撤退した。
この戦で、黒田官兵衛の武名は上がった。だが、十倍の軍勢に勝ったという武名は、小寺政職の武名を越えてしまった。
小寺政職は、官兵衛によくぞやってくれたと言ってはいるものの、態度はみるみる冷たくなっていった。
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