第8話 互いの弱さに触れる:心の奥底、見えた光
健太の借金問題解決に向けた沙織の献身的なサポートが始まって以来、二人の間にはこれまでになかった信頼と、かすかな親密さが芽生え始めていた。工務店の事務所で遅くまで書類を整理する日もあれば、休日は共に地元の資材店を巡ったり、新しい販路の可能性を探るために久留米市内を歩き回ったりした。そんな日々の中で、彼らは互いの知らなかった一面を、少しずつ見せ合うようになっていた。
ある日の午後、健太は沙織に、一枚の古びた写真を見せた。それは、まだ健太が幼かった頃の、赤星工務店の集合写真だった。若き日の父と母が笑顔で並び、健太自身も誇らしげに父の隣に立っている。
「これが…俺が子どもの頃の工務店だ。あの頃は、もっと活気があったんだ」
健太の目に、遠い過去を懐かしむような光が宿っていた。
「父さんは、昔から『家は、ただ住むだけの箱じゃない。そこで暮らす人の人生そのものだ』って、よく言ってた。だから、建てる家には、魂を込めろって。俺も、いつか父さんみたいな大工になりたいって、ずっと夢見てたんだ」
健太の声は、普段の明るいトーンとは違い、どこか寂しげだった。沙織は、写真に写る若々しい健太の父と、彼の横で輝くような笑顔を見せる幼い健太の姿を交互に見た。健太の口から語られる、幼い頃からの夢、そして工務店への深い愛情。それが、彼が借金を一人で抱え込んできた理由なのだと、沙織には痛いほど理解できた。
「だから…俺は、この工務店を、この家を、絶対になくすわけにはいかないんだ。父さんの、じいちゃんの代から受け継いできたものだから」
健太の言葉は、まるで彼の魂の叫びのようだった。沙織は、彼の肩にそっと手を置いた。その手は、彼がどれほどの重圧を背負ってきたかを物語っていた。彼の不器用な優しさと、家族や故郷に対する深い愛情が、借金という形で彼を苦しめていたのだ。彼の頑ななプライドの裏には、そんな純粋な思いが隠されていたのだと、沙織は気づかされた。
「あなたは…本当に、優しい人なんですね」
沙織の言葉に、健太は驚いたように顔を上げた。そんなことを言われたのは、初めてだった。
その日の夜、夕食の後、珍しく沙織が口を開いた。
「健太さん、私…あなたの話を聞いて、少しだけ、私の家族のことを話したくなりました」
健太は、静かに沙織の言葉に耳を傾けた。彼女が自分の家族について語ることは、これまでほとんどなかったからだ。
「私の実家は、確かに裕福です。欲しいものは何でも手に入りましたし、何不自由なく育った…と、世間では言われます。でも…」
沙織の声には、微かな寂しさが混じっていた。
「両親は、いつも忙しかった。父は会社の経営で、母は社交界の付き合いで、家にいることはほとんどありませんでした。私と話す時も、成績のこと、習い事のこと、そして…将来、白石家のためにどう役立つか、ということばかりでした」
沙織の瞳が、遠い過去を見つめるように揺れた。
「『沙織は白石家の娘なのだから、常に完璧でなければならない』『情に流されてはいけない』『常に合理的に考えなさい』…それが、幼い頃から私に言い聞かされてきたことです。だから、私は感情を表に出すのが苦手になりました。人を信頼することも、怖くなった」
健太は、沙織の言葉に息を呑んだ。彼の知る沙織は、常に冷静で、物事を論理的に捉える人間だった。しかし、その裏には、愛情に飢え、孤独を抱えながら生きてきた、幼い彼女の姿があったのだ。
「両親は、私を愛していないわけではないと思います。ただ、彼らなりの愛情表現が、私には理解できなかっただけなのかもしれません。でも…私は、いつか温かい家庭を築きたい、心から信頼できる誰かと、ありのままの自分でいられる場所が欲しいと、ずっと願ってきました」
彼女は、そう言って、少しだけはにかんだように笑った。その笑顔は、これまでの彼女からは想像できないほど、か弱く、そして切なかった。健太は、彼女が「契約結婚」という道を選んだ理由を、深く理解した。彼女は、愛情がないと割り切った関係の中で、傷つくことから身を守ろうとしたのだ。だが、同時に、そこに微かな希望を見出そうとしていたのだと。
「俺は…沙織さんのこと、ずっと『完璧なお嬢様』だと思ってた。でも…沙織さんも、俺と同じで、色々なものを抱えて生きてきたんだな」
健太の言葉に、沙織は初めて、ふわりと笑った。それは、飾らない、素直な笑みだった。
それ以来、二人の間には、より深い信頼と理解が生まれた。健太は、沙織が時折見せる、ふとした瞬間の寂しげな表情に気づくようになった。彼女が、一人で書類を整理している時に、遠い目をする時。あるいは、荒木町の子供たちが無邪気に遊んでいるのを見つめる時。そんな時、健太は敢えて言葉をかけず、ただ隣に座って静かに寄り添うようになった。彼なりの、不器用な優しさだった。
ある雨の日、工務店の屋根から雨漏りしている箇所が見つかった。健太はすぐに修理に取り掛かったが、手が足りない。沙織は迷わず、健太に工具を渡し、脚立を支えた。泥だらけになりながらも、健太の指示に従い、慣れない作業を手伝った。
「沙織さん、こんなことまでしなくていいんだぞ。汚れるし…」
「気にしないでください。これも、夫婦の務め…でしょう?」
沙織はそう言って、泥で汚れた手で健太の顔についた雨粒を拭った。その時、二人の視線が絡み合った。言葉はなくとも、そこには確かな温かさと、互いを思いやる心が通い合っていた。健太は、これまで誰にも見せなかった自分の弱さを、沙織がこんなにも真摯に受け止め、支えてくれることに、深い感動を覚えていた。
また、沙織は、健太が無理をして笑顔を作っている時や、夜中に一人でうなされている時に、そっと温かいお茶を入れてあげたり、ブランケットをかけてあげたりするようになった。彼女は、健太が「大丈夫だ」と強がっていても、その心の奥底で抱えている苦しみを、敏感に察するようになっていたのだ。
「健太さん、無理しないでくださいね。一人で抱え込まないで…」
沙織の囁くような声は、健太の心に深く染み込んだ。彼女は、彼の「不器用な優しさ」と「家族を思う気持ち」が、彼を苦しめている原因であることを理解していた。だからこそ、彼は一人ではないと、彼女が隣にいるのだと、静かに伝えてくれた。
互いの弱さ、痛み、そして心に秘めた願いに触れることで、二人の間には、契約という枠を超えた、特別な感情が芽生え始めていた。それは、まだ「愛」というには幼い感情かもしれない。しかし、互いを尊重し、支え合いたいという、かけがえのない絆だった。荒木町の古民家で、二つの傷ついた心が、ゆっくりと寄り添い、互いの存在に安らぎを見出すようになっていたのだ。
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