第5話 荒木町の人々との交流:炎が照らす絆
荒木町での生活にも少しずつ慣れてきた頃、健太は沙織を地元の行事に誘った。最初は小さな地域の草むしりや、公民館での寄り合いだったが、その年の年明け、健太が口にしたのは、久留米市に伝わる勇壮な火祭り、鬼夜(おによ)だった。
「沙織さん、来年の正月明け、鬼夜って祭りがあるんだけど、見に行かねぇか?」
健太の言葉に、沙織は目を丸くした。鬼夜。久留米出身の人間なら誰もが知る、日本三大火祭りの一つだ。数メートルの大松明が炎を上げ、男たちがそれを担いで練り歩く。テレビや雑誌でしか見たことのない、遠い世界の出来事だと思っていた。
「鬼夜ですか…?私なんかが行っても、大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫も何も、見物するだけなら誰でも見れるさ。それに、沙織さんみたいに都会から来た人は珍しいから、じいちゃんばあちゃんも喜ぶと思うぞ。それに…」
健太は一瞬言葉を選び、少し照れたように続けた。
「俺、地元消防団の若手で、松明の準備とか、警備とか、手伝ってるんだ。だから、もしよかったら、俺が働く姿も、見てほしいっていうか…」
その言葉に、沙織の胸に小さな温かさが広がった。健太が、自分に「見てほしい」と願っている。それは、契約からはみ出した、純粋な彼の気持ちに思えた。
炎が繋ぐ縁(えにし)
年が明けて間もない、冬の夜。六ツ門方面から轟々と響く太鼓の音と、人々の熱気が、遠く荒木町まで届くようだった。沙織は健太に連れられ、初めて生で見る鬼夜の迫力に圧倒された。巨大な大松明が、夜空に向かって真っ赤な炎を噴き上げ、火の粉が雪のように舞い散る。男たちの勇ましい掛け声と、それを鼓舞する太鼓の音が、観衆の心臓に直接響き渡る。
「すごい…!」
沙織は思わず声を上げた。その迫力に、これまでの人生で感じたことのない、生命の躍動のようなものを感じた。人混みに揉まれながらも、健太がそっと彼女の背中を支えてくれる。その手の温かさが、沙織の心を安らかにした。
やがて、健太は沙織に「俺、そろそろ仕事に戻るから」と告げ、消防団の法被を羽織って人混みの中へ消えていった。沙織は、健太が松明の近くで警備にあたったり、他の団員と協力して消火活動の準備をしたりする姿を、遠巻きに見ていた。彼はいつもの不器用な健太ではなかった。真剣な眼差しで、仲間と連携し、祭りの安全を守るために一心に働く彼の姿は、あまりにも力強く、そして輝いて見えた。
「健太は、本当に、この町が好きなんだな…」
沙織はそう呟いた。彼が、どれほどこの久留米の、荒木町の伝統や人々に深く根ざしているかを、この炎の祭りで初めて肌で感じた。自分の利益のためだけでなく、純粋に地域のために働く彼の姿は、これまでの「借金まみれの男」という印象を覆し、沙織の中で健太のイメージを大きく変えていった。
鬼夜の翌日、沙織と健太は連れ立って、荒木町の小さな直売所に買い物に出かけた。そこでは、昨日祭りで健太と共に働いていた消防団の仲間や、近所の農家の人々が、親しげに健太に話しかけてくる。
「健太、昨日はご苦労さんだったな!お陰で今年も無事に済んだばい」
「おう、じいちゃんもな!無事で何よりや」
健太は、どの相手にも敬意を払い、冗談を交えながら、親しげに言葉を交わす。特に、年配の女性たちからは、孫を見るような温かい眼差しを向けられていた。
「あら、健太、隣の綺麗かお嬢さんは奥さんね?噂には聞いとったばってん、べっぴんさんやね!」
近所の八百屋のおばちゃんが、沙織に向かってにこやかに話しかけてきた。沙織は少し戸惑いながらも、健太の隣で笑顔を返した。
「ああ、そうです、妻の沙織です。いつもお世話になっとります」
健太はそう言って、沙織の肩にそっと手を置いた。その瞬間、沙織の心臓がドキリと鳴った。彼のその何気ない仕草が、まるで本当に夫婦であるかのように、自然で、そして温かかったからだ。
「そうね、健太は昔から本当に優しい子で、困ってる人がおったら放っとけん性格だったもんね。嫁さんも大事にするばい」
おばちゃんたちの言葉は、沙織の知らなかった健太の側面を教えてくれた。彼はただ不器用なだけではない。本当に困っている人を見過ごせない、心根の優しい人間なのだと。そして、自分が「契約」という枠でしか見ていなかった彼のことを、地域の人々は心から信頼し、慕っていることを知った。
健太が地元の付き合いで、ささやかな困り事を解決したり、年配の人の荷物を持ってあげたりする姿を何度も目にした。それらは、健太にとって当たり前の行動なのだろう。だが、沙織には、その一つ一つが、彼の人間的な温かさ、そしてこの地域への深い愛情を示しているように感じられた。
荒木町の人々との交流を通じて、沙織は健太の「表面」だけでなく、「本質」に触れていく。彼が借金を抱え、苦悩していること。しかし、その根底には、生まれ育った土地と、そこで暮らす人々への深い愛情と責任感があること。そして、そんな彼が、誰にも頼らず一人で全てを抱え込もうとしていること。
これまで「契約」という見えない壁の向こう側にいた健太が、少しずつ、沙織の心の中に、かけがえのない存在として浮かび上がってきていた。鬼夜の炎が照らし出したのは、祭りの熱狂だけではなかった。それは、沙織の心の中で、健太という男に対する見方を、根本から変える光だったのだ。
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