◆2/掴めない手

 元旦の早朝。まだ空は薄暗く、夜と朝の境目の時間帯。吸い込んだ空気は冷たかったが、かがりが隣にいるだけで、それは甘く柔らかだった。


 ふたりで拝殿への道を歩く。

「人、全然いないねぇ」

 周りを見回してみても、境内にはふたりしかいなかった。

「世界にわたしと篝しかいないみたい〜」

 その想像に気分が高揚し、思わずくるくると踊るように回る。


『そいつは本当に、お前を好いてくれてるのか?』

 頭の中の声が囁く。うるさい。


 声を振り払うように、くるくる、くるくると回り続ける。

「そんな事してると、また転んじゃうよ」

 心配そうな声で、篝が声をかけてくる。その顔には苦笑いが浮かんでいる。

 不安を悟られないように、夕霧ゆうぎりは笑った。


 拝殿はただの古臭い社だった。修繕の手が回らず、そこかしこに劣化の跡が見て取れる。


 (そうだよね……)

 何かを期待していたわけではないが、その建物に神聖さは感じられなかった。

『そうだよ。何も変わらない』また声が響く。――鬱陶しい。


 声に対する苛立ちを込めて、思いっきり賽銭を投げる。

 ガラガラと遠慮なく鈴を揺らす。その音は少しだけ頭の中を静かにさせた。


 ふたり揃って手を合わせ、祈りのまねごとをする。

『何に……?』

『それで救われると思ってるのか? 無駄だよ』

『お前は不幸な子だ。横にいるそいつとは違う』

 雄弁に語りかけてくる頭の中の声。


「わたしは篝とは違う」――声に出さずに呟いた。

 目に映る社は古びていて、そして空っぽだった。自分の住処すら整えられないやつに、誰かを救えるとは思えなかった。


「神様なんて居ないのにね……」

 思わず漏れ出た本音。諦めの声。

「えっ……?」

 篝の小さな驚きの声に、夕霧の心臓が跳ねる。聞こえないように呟いたつもりだったが、篝の耳に届いてしまったようだ。

「篝は何をお願いしたの〜? 私はね〜……秘密!」取り繕うように笑いかける。

 ――本当は何も願っていない。

 (願っても届かないから)


 拝殿の階段を降りる夕霧を、昇り始めた太陽が照らす。

 黒く長く伸びる影は、声の主がそこにいるようだった。



 帰り道、夕霧はずっと篝に話しかける。そうしないと、頭の中の声に呑まれそうだったから。

『ほら、よく見ろよ。鬱陶しそうな顔をしてるぞ』

『やめとけ。お前の言葉は誰にも届きゃしない』

 ――うるさい。うるさい、五月蝿い、煩い!


「あっ……」

 唐突に夕霧が声を上げる。彼女の目の前に、ひとりの男がいた。

 電柱の陰から覗くようにこちらを見る、肥満体系のだらしない風貌の男。

 夕霧の父親だった。


「夕霧ィ……ここにいたのか……」

 一気に血の気が引き、恐怖で足がすくむ。

 まるで凍りついたように動けない夕霧へと、父親がゆっくりと近づいてくる。


『ほら、来た』


「お……お父さん……」

 表情が上手く作れない。顔の筋肉を動かそうとするたび、ギ、ギ、ギと固いものが擦れるような音が聞こえる気がした。

「そろそろ時間だろう? さぁ……家に帰ろう」

『……家に帰ろう』

 目の前の声と頭の中の声がダブって聞こえる。父親のまとうアルコールの臭いに吐き気がこみ上げてくる。

 

 夕霧の前でふらふらと頭を揺らしていた父親が、急に手を伸ばし右手の手首をつかんだ。

 悲鳴にもならない短い息が夕霧の口から漏れる。掴まれた右手首から全身に、這いよるように嫌悪感が上ってくる

『さぁ、お楽しみの時間だ……』

 頭の中の声が夕霧に重くのしかかる。急に足元の地面が溶けたかのように、がくんと日常が揺れる。

 分厚い壁が夕霧と篝の間にせりあがってくるような気がした。


 嘔気と怖気と嫌悪の底なし沼が、夕霧を深淵へと引き込んでいく。

 夕霧は思わず、すがるような視線を篝に投げてしまう。そして、それを追うように、父親の視線が篝へと向けられた。

「あぁ……。夕霧の父です。娘がいつもお世話になってます」

 そう言って父親は篝の体を舐めまわすように見つめている。

『次は……あいつかな……?』

 頭蓋に響くその声に、夕霧の心中に憎悪の火が灯る。ちりちりと火傷のような痛みが、彼女の全身に走る。足元から数匹の蜘蛛が走るように、うっすらと黒い何かが現れて、そして溶けるように消えた。

 (あの豚が……篝に……?)

 ぎちぎちと頭を締め付けるような頭痛がして、喉が異常に乾いてくる。いつの間にか嘔気は消え、かわりに胸の奥に灼きつくような感覚が起こる。


 無言で立ち竦む篝を不審に思ったのか、それとも自分を取り繕うためか、父親は「あー……。えっと……、名前がわからないんだけど、夕霧の友達……だよね?」と尋ねている。

 (名前なんて興味が無いくせに……)

『そうだよな。楽しむのに、名前なんてなくてもいいもんな』


「篝! 篝だよ! この前話したじゃん! 一番の友達なんだ!」

 夕霧は父親の興味を引き剥がすように、声を張り上げる。

「おぉ……? あぁ~、そうかそうか。篝ちゃんか……」

 それは逆効果だったようで、より一層父親の興味を引いたようだった。品定めをするような目つきで、舌なめずりをしている。


 (ああ、もうこいつはダメだ)

 ストン、と夕霧の胸に黒い塊が落ち、血流に乗って全身を駆け巡る。

 苦々しさと晴れやかさが同居する、奇妙な感覚。

『奪え……』

「お、お父さん。家に帰るんでしょ! 時間過ぎちゃって、ごめんね~」

『奪われる前に、お前が奪うんだ……』

 父親の腕に手を回し、体を寄せる夕霧の頭に心地よい声が響く。

 ――そうだ。奪えば良いんだ。


「早く家に帰ろうよ〜」と急かす。

 何を勘違いしたのか、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる父親は、もう豚にしか見えなかった。


 夕霧は振り返ること無く、歩き出す。



『ところで……あいつは何で助けてくれないんだ?』

 その一言が、甘い毒のように夕霧の心を侵していった。

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