◆3/軋む音

 篝は自室で報告書と格闘している。パソコンのディスプレイに並ぶ、文字と数字の行進に頭痛がしてきた。

 椅子の背もたれに寄りかかり、軽く伸びをする。肩や背骨のあたりから、ポキポキと小気味のいい音がした。

 先日、黒斧がついに実戦投入された。結果は上々で、篝も使い手として手応えを感じていた。

 その任務についての報告書をまとめ始めて、すでに3時間が経過している。しかし、かけた時間の割に、一向に書きあがる気配が感じられない。書類仕事は大の苦手だった。

「甘いものが食べたい……」

 過負荷オーバーヒート状態の脳が、ブドウ糖を要求している。それに抗うことが出来ず――抗う気もなかったが――、近場のコンビニエンスストアへ買い物に出かけた。


 大型の幹線道路の両側に、歩道を挟んで雑居ビルが壁を作る。

 車の走行音や、テナントから漏れ聞こえる音楽、話し声や笑い声。

 様々な音が、篝の耳を賑やかす。


 歩道を行き交う街の人たち。

 楽しそうに会話を交わすカップルや、友人と下校中の男子高校生。その向こうにはスーツを着たサラリーマンが、疲れた顔でトボトボと歩いている。

 誰もが、無意識に他人と距離を置いている。いつ、どこで――誰が、オニへと変わってしまうのか。皆がその恐怖から目を背け、薄氷の上で日常を繰り返している。


 そんな光景を見るたび、言葉にならない悲しさが澱となって溜まっていく。

……か……」

 その小さな呟きは誰の耳にも届かない。けれど、ミシミシと世界が軋む音は、確かに響いていた。

 篝は、陰陽庁に入庁した際、見せられた映像を思い出す――。


 監視カメラで撮られた映像だったのだろう。画像は粗く、音声はなかった。

 

 極端に物の少ない白い病室。部屋の中央には1台のベッドが置かれている。

 その上に男がひとり、膝を抱えるようにして座っていた。時折、立ち上がっては部屋の中を歩き回る。かと思うと、手で顔を覆い、うずくまり肩を震わせた。

 

 ――十五分程経っただろうか。

 

 突然、男が胸を押さえ、苦悶の表情を浮かべる。苦痛を抑え込むように丸めた体が、内側から突き上げられているように跳ねる。

 肩を抱く手が膨れ上がり、皮膚の色が青白く変化していった。

 

 男が錯乱したようにシャツを破り捨て、胸を激しく掻きむしる。露になった胸の下で、何かが蠢いているように皮膚が激しく脈打つ。

 男が叫び声をあげ、仰向けに倒れこんだ。

 無音の映像の中、叫んだ声は届かない。ただ過去の中で反響していた。

 苦痛の中、床をのたうち回る男。

 怪物の腕を振り上げ――そして、打ち下ろした。横にあったベッドが砕け、同時に画面が激しくブレる。衝撃が部屋全体を揺らしていた。


 大きく、張り詰めた体から黒い瘴気が滲み出し、部屋に充満していく。男はすでに、人という規格から逸脱していた。

 野獣のように裂けた口からは、鋭い牙が覗き、額には隆起する角のようなものが見て取れた。

 画面の揺れが激しくなり、映像にガリガリとノイズが走る。最後に一度激しく揺れたあと、赤く光る目でこちらを見つめる男の顔を映し、映像がブツリと消えた。

 

 〝抑圧性変異感染症――Outbreak of Negative Incarnation〟

 後にそう名付けられる症例の、最初の記録だった。

 O.N.Iと略されるそれは、男の姿と重なり、人々はそれを〝オニ〟と呼んだ。


 オニは元々人だった。

 そしてオニに変わってしまった人間は、新たなオニを生み出す。

 心の奥に巣食った闇が、感染して連鎖する。

 だからこそ、篝は彼らを討ち倒す。

 

 ――たとえそれが、誰かの大切な人だったとしても。


 不意に、背後からサイレンが聞こえた。

 道路を警察車両と、防疫部の車両が続けて走り去っていく。

 篝の背に緊張が走る。

 同時に耳元の通信機から、呼び出し音が鳴った。

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