勇者の遺言は労務日誌 ~俺は誰のために戦った?~

永守

第1話:午後11時45分の転落死

「明日……いや、今日か。今日が……ようやく、有休だったのに」


 深夜の駅構内。上り階段を、白河蓮は無意識のような足取りで一歩ずつ上がっていた。革靴の底がコツリ、コツリと乾いた音を響かせるたび、まぶたが勝手に閉じそうになる。

 電車を降りてから20分、目を開けたまま夢を見ているようだった。思考が滑り、時間の感覚がぶつぶつと切れる。気がつけば、階段の途中で立ち止まっていた。


 誰もいないホーム。冷たい蛍光灯の明かり。あくびが出そうになって、出ない。乾いた喉が痛む。肩にかけたカバンの重さが急に鉛のように感じる。


「……あと少し……あと……」


 そのときだった。

 右足が、ふと、階段の縁を捉え損ねた。

 ほんの少しのぐらつき――それがすべての始まりだった。

 次の瞬間、白河蓮の身体は重力に従って前のめりに倒れ、ゴン、と乾いた音を立てて額を打ちつけた。

 視界が、白くなる。

 そして、黒くなった。


________________________________________


 夢を見ているのかもしれない、と思った。


 意識が浮かぶような、揺れるような、不思議な感覚の中、白河蓮はゆっくりと目を開けた。そこは、先ほどの駅の階段ではなかった。どこかの大聖堂のような、高い天井とステンドグラスが光を差し込む、美しい空間だった。

 その中心に、銀髪の女がいた。威厳に満ちたローブを纏い、蓮の目の前に跪いている。


「偉大なる異界の戦士、白河蓮殿。あなたの魂を、このラミエル王国にお迎えいたします」


「……はい?」


「我らが世界は、今まさに、魔王という絶対的悪によって破滅の危機に瀕しております。ですが、伝承に曰く――“異界の魂こそが、この地を救う”と」


 何を言っているのか、まったく分からなかった。

 あれは夢だったのか。死んだのか。俺はどうなったんだ。

 女は続けた。


「あなたには勇者として、魔王討伐の任をお願い申し上げます。我が国の希望、我が世界の光よ――どうか、ご尽力を」


 突然、右手に重みを感じた。見ると、金属の剣が握られていた。

 左手には……紙。

 白い紙と、羽ペン。まるで契約書のようなものだ。


「ご署名をいただけますか?」


「……あの、ちょっと待ってください」


 蓮は小さく息を吸った。自分の声がかすれているのがわかる。


「俺、死んだんですよね?」


「はい。死因は、駅の階段での不慮の事故です。脳内出血が致命的で、即死でした」


 あっさりと言われた。

 その直後、不思議なほど落ち着いた思考が戻ってきた。


(……やっぱり、死んだのか。ということは、これが“転生”ってやつ?)


 白河蓮は、漫画でよく見たあれこれを思い出した神様、スライム、チート能力、等々。

 でも、目の前のこの異世界には、どこか違う空気が漂っていた。物語のように華やかで英雄的な雰囲気ではなく、どこか現実的で、事務的なにおいがする。


「署名が完了されましたら、初期配属部署へのご案内を差し上げます。討伐予定地は第一進軍ルート。リーダーとして部隊のKPI管理もお願いしております」


「K……P……I?」


「Key Performance Indicator。討伐進捗と部隊の活動効率を測る指標です。週次報告に基づいて評価されます。王国直轄の労働査定部署にてモニタリングも行っておりますので、随時ログをご記入ください」


 ……今、なんて言った?


「ログって……つまり、労務日誌?」


「はい。こちらが“日次労務記録帳”です。戦闘記録、精神状態、仲間の動向、報告遅延理由などを記録する義務がございます」


 白河蓮は、手にした革表紙の手帳を眺めた。

 表紙には、こう書かれていた。

『ラミエル王国 勇者任務日次記録帳(労務用)』

 その瞬間、彼の胸の中に、小さな冷たい何かが降り積もった。

 ――ここでも、働くのか。

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