後編

 和子と寝た男は彼女が働いていた蕎麦屋の常連、齋藤三郎さいとうさぶろうだった。和子と三郎は五年前に偶然再会してから付き合いを始めていたらしい。


 ワシは和子の浮気をすぐには受け入れられず、本人達から事情を聞く事にした。


「和子、これは一体どういう事なのじゃ」

「茂雄さん、これはその……互いの身体を拭き合っていたの。ねぇ、三郎さん」

「え? あ、あぁ……全身に拭けるタイプだ」

「そんなわけないじゃろ! おま、お前らは……その……ワシの居ぬ間にこいつを招き入れておっぱじめるなんて……正気とは思えんよ」


 ワシがそう呟くと、和子と三郎は互いの目を見て照れていた。こいつら、まだワシが目の前にいても恋人ごっこしているのか。


 今すぐ怒鳴りつけたかったが、溜飲を下げて妻に話しかけた。


「なぁ、和子……理由を聞かせてくれたら許してやってもいい。内容次第だがな」

「高級老人ホームに入りたかったのよ」

「なんじゃと?」

「人生100年時代でしょ? このままこんな時代遅れの寂れた団地で息を引き取るぐらいならフカフカのベッドで眠るように死んだ方が絶対にいいわ」

「高級老人ホームって……そんな金、どこに……まさかお前か?」


 ワシは三郎を見ると、彼は自信満々頷いた。


「あぁ、そうだ。実は俺はテレビ通販会社の会長をしていてな……昔はそば一杯しか食えなかった俺が今は超高級そばを毎日のように食っているだ」

「だ、だからといって、ワシのかみさんを食うのはどうなのじゃ?」

「取り引きしたの。もし高級老人ホームに入りたければ私と寝てほしいって……」

「そこなんじゃ。一番の問題は」

「なにがだ」

「そもそもお前……歳はいくつだ」

「84だ」

「和子、お前は」

「85だけど」

「ワシは86じゃ……もう棺桶に片足を突っ込んでいるような老いぼれがどうして抱ける性欲を持っているんじゃ?」

「それは……急にムラっときて」

「えぇ、彼の誘惑に勝てなくて」

「いや、青臭い若造じゃあるまいし……その、夫が言うのもあれじゃが、しわしわじゃぞ? どこの何に魅力を感じたんじゃ? どこのどの部分を見ればマラが立つ?」

「イマジネーションだ」

「なに?」

「想像だよ。確かに目を見開ければ妖怪だが、目を閉じればあの頃の和子と出会える」

「香水と手管があれば問題ないの」

「ぎっくり腰にならなかったか?」

「いや、全く」

「そうか……じゃあ、しっかり入れる所は入れて出すものは出したんじゃな」

「あぁ、そうだ」

「そうか……」


 ワシは頭が真っ白になったが、どうにかぼやける頭を叩いて稼働を続けさせた。


「なぁ、和子」

「なに?」

「どうして……どうして今なんじゃ? 結婚して三年目でもなく、十年目でもなく、二十年でも三十年でもなく……五十五年前でもなく、なぜ、なぜ今なんじゃ? ワシがまだ若いとき浮気してくれたら新しいパートナーを探して見つけられたかもしれない……だが、この歳で同じように話せる相手がどれくらいいる? ほとんどが老人ホームか在宅で過ごしているような人ばかりじゃぞ」


 ワシは込み上げてくる感情をグッと抑え込んでから再び話した。


「なぁ、和子。お前も歳だから分かるじゃろ? この歳で独り身になるのがそれだけ過酷か……」


 すると、和子が大きな溜め息を吐いた。今まで見せた事のない顔でワシを睨んでいた。


「歳、歳、歳……だから何? そんな自分の限界ばかり言うから嫌われるんじゃない?」

「な、なんじゃと?」

「あなたはいつもそう。どこか出掛けようと言っても『ワシらは歳だから遠出で怪我したら大変』とか言って近くの公園で済ませるし、美味しいものを食べに行こうと言っても『歯がボロボロで食欲もないから』とかいって近くのスーパーで蕎麦食べて終わっちゃうし……もううんざりなのよ」


 和子は自分の腕を三郎の腕に絡ませて密着させた。もちろん手も握っていた。


「歳なんて関係ない。私は死ぬまで現役でいたいの」


 ワシは覚悟を決めた。もう長年連れ添った妻など知らない。この阿婆擦れはもうワシに対する愛情など皆無なのだ。


「出ていけっ!」


 ワシは杖を振り回して二匹の淫獣を追い出した。奴らは脆いのでポックリいかないように軽めに叩きながら追い出した。そこら辺にあった和子の身分証と荷物をまとめて玄関に投げ捨てると、二度と入って来られないように鍵とチェーンを付けた。


 うるさくドアをノックしていたが、諦めたのだろう静かになった。


「はぁ」


 乾いた溜め息がカビ臭い部屋に広がった。杖が力無く倒れた。膝から崩れ落ち、ワシの小さな心に溢れるぐらいの感情が噴き出した。


 何という裏切り。余生幾ばくかの時期にこんなショックを受けるなんて。


 どれくらい泣いたかは分からない。枯れ枝のような自分からこんなにも涙が出るとは思わなかった。脳内に和子との思い出が過る。そして、おぞましい裏切りの場面が差し入るように浮かび上がった。


 一体ワシは何のために彼女と六十年連れ添ったんだ。


 そう溜め息をこぼすと、ワシの視界にレジ袋が目に入った。鰻の尾が飛び出していた。


 あぁ、そういえば買ってきたんだっけ。結婚記念日──結婚六十周年とかいって。


 あぁ、わざわざ高いのを買ってきたのに。どうせ買うなら国産じゃなくて外国産でもよかった。


 ワシはこのまま窓に投げ捨てようかと思った。が、せっかく買ってきたので、たまたま冷蔵庫にあったワンカップの日本酒を持ってきて、ラジオで野球中継を聞きながら晩酌を開く事にした。


 いや、まだ午前十一時だから朝酌と呼んだ方がいいのかもしれない。


 ワシは数少ない歯で真空パックされた鰻の封を開けると、笹かまぼこを食べるように片手でかじりながら酒を飲んだ。


 ラジオでは阪神が順調に快進撃を繰り広げていた。若手が満塁ホームランを打ったらしい。実況が興奮した様子で語っていた。このやかましいぐらい響き渡るラジオの声とお通夜と錯覚するぐらい静けささが漂うリビングに嗚咽を漏らしかけた。


 本当だったら和子と食べながら阪神の優勝を語り合う予定だった。なのに……なのに。


 今日のワシは怒りで全身の血流が盛んに巡回しているからか、普段なら茶碗少しのご飯しか食べれない食欲が千倍にまで膨れ上がり、阪神の大熱唱と共に気づけば一口だけ残った。


 ワシは自分にまだこんなに食べれる力が残っているのかと目を見張ったが、勢いそのまま口の中に放り込んだ。そして、半分ほどある酒に喉を通した。


 ドンっと地面に叩きつけ、車のマフラーみたいな勢いで息を吐いた。酒と鰻の甘辛いタレが入り混じった口臭が鼻腔を刺激する。


 すると、アルコールと鰻のスタミナのせいか、ここ二十年以上なかった興奮が湧き上がっていた。


 和子の濡れ場を見てしまったからだろうか。ワシの枯れ果てた性欲が老いた肉体を若返らせていった。


 ワシは椅子を倒す勢いで立ち上がり、背筋を伸ばした。折れ曲がった猫背がサンマのように伸びた。たるんだ筋肉に張りが戻ったような気がした。今なら米五キロぐらい軽々と持ち上げられるような気がする。


 老眼でぼやけた視界もクリアになり、見過ごしていたホコリや害虫が目に入った。こんな汚い場所にワシは住んでいたのか。


 耳も何だかやかましくなった。補聴器を外してもまだうるさかった。ラジオの音量を減らすとちょうどよくなった。


 それにしてもこの溢れ出るエネルギーは何だろう。何年も感じなかったこのパワーは一体。鰻を丸々一匹食べたとはいえ、精力尽きすぎではないか。


 ワシはどこの鰻の蒲焼きなのだろうと思って拾って見てみた。


『人生100年時代を応援する会特製のうなぎの蒲焼き!! 摩訶不思議成分百パーセント詰め込みました!』


 なんじゃ、これ。こんな事が書かれていたのか。鰻の蒲焼きに目がいって内容はあまり見なかった(見えなかったの方が正しい)とはいえ、こんな可笑しなうなぎを食べてしまったのか。


 もしかしてこんなに異常な元気があるのも鰻のせい?


 ワシは急いで洗面所の方に駆け込んだ。鏡を見てみると、ワシはワシのままだった。老けた状態だった。


 しかし、驚くほど背筋が伸びていて、ヨレヨレだった服がパツパツだった。


 脳内も冴え渡っていたので、あの鰻の効力がなにか分かった。


 見た目は変わらず、身体の内側だけが若返ったのだ。


 この瞬間、ワシはすぐにゴミ箱の方に行きガサゴソ探した。思った通り、あの鰻の蒲焼きの空のパッケージがもう一袋入っていた。


 恐らく三郎と和子がこの鰻を買って一緒に食べたのだろう。そして、失った性愛を取り戻し過ちを犯したのだ。


 ワシはこの鰻を販売したスーパーを憎んだ。が、時は戻れないので、潔く元のゴミ箱に戻した。


「よし、行くか」


 ワシはヨレヨレの服から何十年ぶりのスーツを棚から引っ張り出して着た。


 もう年金隠居生活は止めだ。これからは現役に負けないぐらい活躍してみせる。


 まずは熟女風俗に行って憂さ晴らしだ。



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【短編】結婚生活60年連れ添った妻が元常連の男に寝取られたんじゃが 和泉歌夜(いづみかや) @mayonakanouta

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