第6話 上野 麻由里 2

メモリアは、元々医療用に開発されたものだった。トラウマなどの治療用に使われ、このため早期から「削除」機能が実装されていた。

実のところ、記憶の「削除」というのは誤りである。実際には意識下の深くに沈めているのだ。それは一週間前の記憶が、消えたわけではないのに思い出せないのに似ている。メモリアでは、任意で記憶の想起を妨げるのだ。


この技術が発展して記憶の保存にも使えるようになり、一般へと利用が拡大した。それぞれ、削除機能はディープロック、保存機能はメモリキャストと呼ばれているが、一般にはあまり使われておらず、「削除」「保存」と呼ばれるのが通常だ。


削除(ディープロック)はメモリアケアセンターに申請しカウンセリングを受けてから削除する必要があるが、サービスが開始した当初は、ある程度の条件はあるものの、ユーザーによる削除が可能だった。


それが現在のようになったのは、トラブルが続出したからだ。その中でも有名な事件は、株式会社セクレタの騒動だ。セクレタは先進的にメモリアを取り入れた企業だった。

メモリアの一番の問題点は、記憶は脳に上書きされるということである。つまりいったんアプリ上で記憶を削除して脳に書き込むと、人は記憶を想起できなくなる。しかもそれは不可逆だった。

セクレタで担当者が重要な取引情報を削除してしまったのをシステムの欠陥として、セクレタはメモリアを開発したリコレに訴訟を起こした。結果はセクレタの敗訴だったが、リコレもイメージダウンした出来事だった。

そこで、リコレは一般ユーザーから削除機能を廃止し、メモリアケアセンターを設立した。当初は反対もあったが、実際水面下では多くの削除ミスがあったのだろう。今ではうまくいっているようだ。





昼休み、メモリアケアセンターのサイトを見ながら、麻由里はため息をついた。いくらケアセンターのサイトを見ても、失われた記憶が戻るはずがないのに。

「上野さん、どうしたんですか?ため息なんかついて」

話しかけてきたのは、後輩の原田優奈だ。

「原田さん、記憶を削除しようと思ったことある?」

「忘れたいことはありますけどね。でも記憶がぽっかり抜けるって不自然な感じがします。私が言うのもなんですけど」

「どういうこと?」

うーん、と優奈は唸り、どこか恥ずかしそうに言った。


「私はすっかりメモリアに依存してますから」

「確かに原田さんは、一日に何回もフォルダに書き込みしてるって言ってたものね」


「なんていうか、頼りすぎてたなって感じ始めてて。以前の部長の加治川部長のこと、覚えてます?私、加治川部長のことが最近になって引っかかるようになって」

加治川部長のことは、麻由里もよく覚えている。五年くらい前のことだ。若年性アルツハイマー病に罹り、発症後一年と少しで退職した。加治川部長はメモリアを利用し、アルツハイマーの進行に備えようとしていた。しかし、アルツハイマーの脳にはこのメモリアでは有効ではなかったのだ。詳しくは知らないが、アプリによる記憶の損失もあって、失意のうちに亡くなったと聞いたことがある。

「加治川部長のことから少ししてから使い始めたんですけど、保存し始めると、できるだけクリアに記憶を残したいって思って、しょっちゅうアクセスするようになりました。でも、なんというか、メモリアを使い過ぎることで記憶が零れることもあるのかなって、最近思うんですよね」


メモリアを使い過ぎると、記憶が零れる――。

確かにそうだ。と、麻由里は思った。

麻由里はなんらかの理由でメモリアケアセンターに申請し、記憶を削除した。きっと、それをしなければ今もその記憶を抱えていたのだろう。


たとえば、二十一日に原田とランチに行ったと言われれば、詳細は覚えていないまでも出来事くらいは覚えているだろう。手帳にメモがあればなおさらだ。だが、どうやら二十一日の記憶を消してしまった麻由里にとって、五月二十一日はぽっかりと空いた空間のようだった。

人為的な操作をすることによって、便利になっただけでなく、何かを失ったのかもしれない。


それはメモリアに限らないのだろうけれど。

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