第3話 原田 優奈
記憶保存アプリ、メモリア。もはや国民の七割が使っていると言われるこのアプリを、優奈が使い始めるのは、むしろ遅い方だった。
何しろ記憶を外部に保存するというのが受け付けられなかったし、万が一記憶が流出したらと思うと、興味より不安の方が勝った。それは大部分の国民でも同じことで、メモリア利用の滑り出しは決して良くなかった。
流れを変えたのは、広告の成功だった。旬のタレントを起用した、瑞々しく魅力的な体験談。それにのったユーザーたちのレビューがSNSに拡散されていった。
それはこのメモリアのイメージをたちまち好感に転じさせた。レビューにはサクラだってあったかもしれないし、人々の記憶を操作するための政府の策略だという噂も流れたが、たちまち誰もが使っていると言っていいくらいこのメモリアは浸透していった。優奈がメモリアを使い始めたのも、この頃だった。
優奈は一日に三度はアプリにアクセスする。昼、夜、そして寝る前。昼はもちろん会社で。弁当を食べ歯を磨いた後に、残りの休み時間で作業を済ませる。慣れた手つきで、クラウドにアクセスして記憶の上書きをし、ルーティンにしている検索語で記憶の確認をする。頻回に保存するのは、その方が検索できる範囲が狭くなり、精度が増すからだ。
「原田さん、今いい?」
昼休み中に話しかけてきたのは、ひとつ先輩の上野だ。正直、手を止めたくはなかったが、上野はいつもよくしてくれている。昨年度は体調を崩したとのことで三か月ほど休職していたが、そんなブランクも感じさせない先輩だ。
「いいですよ」
優奈は、クラウドのアクセスを切断し、上野に身体を向けた。
「ごめんなさい。昼休み中に。五月二十一日って、原田さんとランチしたよね」
正直、それだけではわからない。一週間以上前のことだ。それに最近、優奈は記憶を探るのが少し苦手に感じていた。最近、上野さんとランチしたことすら、曖昧だ。優奈は手帳を開く。
五月二十一日。確かに、『上野さんとランチ。会社向かいのカフェでナスとベーコンのパスタセット』と書いてある。記憶を検索しやすいよう、優奈は出来事を簡単にまとめているのだ。
「そうでしたね。何かありました?」
「その時……私、どんな話をしてたか、覚えてない?」
「五月二十一日にですか?」
「少しでもいいの。思い出せないことがあって」
「覚えていませんが、クラウドで検索すれば出るかも。アクセスしてもいいですか?」
言いながら、確か上野もメモリアを使っていなかっただろうかと思ったが、たいしたことではないだろう。優奈は再びログインしてクラウドにアクセスした。
迷わず五月二十一日昼のフォルダを選ぶ。
検索語は「ランチ」「上野さん」にした。検索範囲が五月二十日の夜間から昼までと限られているので、ランチだけでも十分かもしれないが、会話の内容を拾うならそれがいいかもしれない。
検索をタップすると、当然だが、いくつかヒットがある。ただし、この記憶をアプリ上で再生のようなことはできない。
次にマーカーをタップして、検索された記憶にマーカーをつける。そして、脳とフォルダの記憶を同期させる。これで完了だ。
「すごい。原田さん、アドバンスの契約してるの?」
「そうなんです。効率よく思い出せるので」
このマーカー機能はノーマルプランでは利用できない。高額だがよりメモリアを活用するために、優奈は早いうちから契約していた。
優奈は五月二十一日昼の記憶、上野さんとのランチを思い出す。詳細なしくみを優奈は知らないが、マーカーが神経伝達物質を刺激して、記憶を振り起こすらしい。
「思い出しました。午後の会議の話を私が相談しました。仙川課長も出る会議だったんですよね」
マーカーをつけて特定の記憶を思い出すとはいえ、その想起の仕方はごく自然だ、まるで自分が普通に過去のことを思い出しているように。ただ、普通の記憶よりずっと鮮やかで、ついさっきのことのようだけれど。
「仙川課長、厳しいものね。他には?その、私の二十一日の予定とか話してなかったかな」
「そうですね。夜に人と会うって。だから早く帰ると言っていました」
「誰と?」
「はっきりとは聞いてませんが……私は恋人だと思いました」
あまり感情を顔に出さない上野さんの目がぴくりと動いた。私は知らないふりをする。踏み込んでも面倒だからだ。
「そうかー。恋人ね。どうもありがとう。ごめんね、お昼に邪魔して」
「大丈夫です」
とは言っても、実のところクラウドに記憶を保存する時間をとられたのは痛い。まあ今からなんとか間に合うだろう。
一日の仕事を終え、優奈は帰宅した。家までは職場から一時間と少し。閑静な住宅街の一軒家。もちろん実家暮らしだ。来年には一人暮らしをしたいと思っているが、なかなか話は進んでいない。
「優奈おかえり」
夕飯を用意して迎えてくれている母は、近所でパートをしている。姉は一昨年結婚して家を出て、父は北海道に単身赴任二年目。
「ただいま。今日はシチュー?嬉しい」
母に声をかけながら、かばんの弁当箱を出す。弁当は母が作ってくれている。疲れて帰ってきて、家に食事があり弁当も作ってもらえる。これはなかなか捨てがたい環境だ。母は、弁当箱を受け取ってシンクに入れながら言った。
「再来月お父さんが帰ってくるから、頼んだあれはどうなったの?」
「お父さん帰ってくるんだっけ?」
「言ったわよ」
「いつごろ?クラウドで検索する」
優奈はかばんからスマホを取り出し、さっとアプリを開いた。
「そんなことまでメモリア?忘れたわよ。二週間前くらいじゃない?」
呆れた様子の母をしり目に、優奈はフォルダのまとめ検索をする。これもアドバンスプランの特有の機能だ。「お父さん」「帰宅」「北海道」こんなところだろうか。北海道は余計かもしれないが、要は概要がわかればいい。
「ちょっと待って。ヒットしたから読み込んでみる」
「そんなことしなくていいわよ。みんなで食事する店の予約を頼んだのよ。人気の店だから何か月も前に予約が必要だって自分で言ってたじゃない」
珍しく母の語調が強い。優奈は手を止めて母を見る。
「なんでもかんでも記憶アプリって……。そればっかり使うから、最近、全然話したことを覚えていないじゃない」
母の言う通りだ。
最近、物事を思い出すのが難しいように感じていた。もしかすると、最近自覚し始めただけで、前からかもしれない。
おそらく、それは病気ではないのだ。メモリアを使っているせいではないか。それは、優奈自身感じていたことだった。想起することを放棄した生活をするうちに、思い出すということができなくなっているのだ。
実のところ、前に姉に会った時にも指摘されていたことだった。メモリアは便利なツールだが、うまく使いこなすのが必要だ、と。
優奈は何も言い返せなかった。
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