悪女、無能令嬢に転生する
夜野千夜
悪女の目覚め
「……あら」
意識の覚醒とともに、私はいつもの場所で目覚めたわけではないことに驚いた。
物の少ない、ひどくこざっぱりとした部屋。たしかにこの部屋はあの子の中で何度も見たことがあるけれど、私が今こうしてこの空間にいるという体験はこの世に生まれ落ちた十五年間で初めてのことだ。
「肉体の主導権は握れたようね」
いえ、肉体の主導権を譲られた、というのはまた違うかしら。先の問答が夢じゃないなら、恐らく──。
「レクイエス、いる?」
「あぁ、もちろんだとも」
私の影から音をたてることもなく現れたのは、前世からの共犯者レクイエスだ。ありとあらゆる邪悪から程遠く見えるほど汚れやくすみの一切無い白髪をこめかみの辺りで編み込んでいる彼。私は見慣れたからなんとも思わないけれど一般の人間からしたら間違いなく美形の部類に入る彼は、辺りを見回して顔をしかめた。
「……ずいぶん狭苦しい部屋だな。どうする、アル。壁を取っ払うか?」
「わざわざそんなことに貴方の権能を使う気にもなれないわ。さっさとこの屋敷から出ましょ。あぁ、貴方は隠れていてちょうだい? 話がややこしくなりそうだもの」
「あぁ、わかった」
またレクイエスが影に戻っていったのを見届けてから、私は布切れ同然の掛け布団を置き物置き部屋から出た。こんな生活によく耐えられたものね、あの子は。中から見ていた時は何とも思わなかったけれど、こうして体感するとあの子の生活がどれだけひどいものかよく理解できるわ。
(誰とも出会わないでこの屋敷から出られたら一番だけれど)
「……おや、アルストロメリア様。目を覚まされたのですか?」
なんて思っていると出会うのよね。私は内心ため息を吐きつつ、あの子を演じてみる。
「あ……はい。えっと……」
「旦那様に報告してまいります。しばしその場でお待ちを」
執事は私が目覚めたことに何の感情も見せることなく淡々と言い放って立ち去った。……使用人のこういう態度からもこの子がどんな待遇を受けていたかわかるわね。ナメられている、というのがひしひしと伝わってくるわ。
(待ってあげる理由もないし、早く行きましょ)
私はあの子の中で見ていた記憶を頼りに屋敷の中をすいすい進み、難なく正面玄関に着いた。あの執事以外には出会わなかったし、上出来と言えば上出来かしら?
いざ外に出ようとドアの取っ手に手をかけると。
「おい、無能。私の許可なくどこへ行くつもりだ?」
……あーあ、見つかっちゃった。振り向くと、そこには小太りの中年男性と派手さを極めたかのような女と外見だけは可愛らしい女が立っていた。
(見事なまでに揃ってるわね。暇なのかしら?)
「おい、聞こえていないのか?」
「……いえ、聞こえています。これ以上迷惑をかけるわけにもいきませんから、ここから出ていこうかと」
「出て行ってどうなるのよ? ほんっとお姉さまって考えなしよね~。お姉さまみたいな契約獣の一匹もいない無能が、外で生きていけるわけないじゃない?」
私がアルストロメリアを繕ってそう答えれば、妹の……誰だったかしら。イルミナ? とかそんな名前だった気がするわ。が醜悪な笑みを浮かべて私を嘲笑った。イルミナにつられて、父と母も笑っている。
(……本当に、醜い人たち)
私は手をかけたままのドアの取っ手に力をこめ、彼らに背を向けた。
「ちょっと、イルミナの話が聞こえていなかったの? 貴方じゃ外で生きていけるわけが──」
「それは外に出てみないとわからないでしょう? お母さま。それに外に出たわたしが何かに取って喰われたところであなたたちには関係ありませんし」
そもそもこの人たちと一緒にいてメリットなんて何一つ無いものね。ドアを開き、外に体を滑り込ませた私は、ようやくアルストロメリアの仮面を脱ぎ捨てて、私──アルバローズ・メルクリアとして笑ってみせた。
「もう二度と会うことがないと良いわね?」
呆気にとられる家族だった人たちを置いて、私はドアを閉めた。
※
「まずはこの身なりをどうにかしないといけないわね」
着の身着のまま出てきてしまったから、街に出たら目立つこと間違いなしだもの。とは言ってもこの子は衣食住なんてまともに与えられていなかった。服も名家の娘とは思えないほどボロボロの物ばかりだったから、どれを着ても大差ないと言えばそうなるのだけれど。
「街に行くのか?」
影からまたレクイエスが出てきた。
「この身なりをどうにかしてからね。今のままだと物乞いと間違われてもおかしくないわ」
「……ふむ。一時的な誤魔化しなら、俺でも可能だが?」
「レクイエスは何でもできるのね。お願いできるかしら?」
「あぁ」
レクイエスがパチン、と指を鳴らせば、私の着ていたボロボロのドレスは動きやすそうな冒険者の服に変わっていた。マントが付いているから体形を隠すこともできるし、これなら旅をしている冒険者と名乗っていてもおかしくなさそう。
「さすがね。頼りになるわ」
「お前の相棒を名乗るならこれくらはできねばな」
誇らしそうに胸を張るレクイエスを横目に、私は次の一手を考えていた。
ひとまずしばらくは冒険者ギルドに所属して身銭を稼ぐのが良さそう。レクイエスが用意してくれた服は恐らく彼の魔力で編んだものだからそう簡単に脱げたり傷ついたりはしないと思うけど、彼に頼り切りなのは良くないもの。生活の基盤ができてからこれからのことを考えるのが良さそうね。
「何はともあれ、まずは街に行きましょうか」
「あぁ」
私は笑みを浮かべながら歩を進める。これからのことなんて何一つわかりやしない。けれど、私の心はこれ以上ないくらい浮足立っていた。
後ろ盾なんてものはない。これからの生活がどうなるかなんて誰にもわからない。
──けれど、それが何だと言うの?
──逆境はひっくり返すからこそ楽しいのよ。
「あぁ──なんて
壊楽主義者と呼ばれたかつてが思い起こされる。私を取り巻くものだけでなく自分さえ壊してみせた私に、壊せないものなんてない。
「見ていなさい、アルストロメリア。
体を奪った罪悪感なんてものはないけれど。せめてそれくらい筋立てはしてあげるわ。
「さぁ──
歓びなさい、世界。──
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