第9話 授業の余韻

 チャイムの音が消えたあと、誰からともなく椅子の軋む音が重なり始めた。

 ユウは机の端末を静かに閉じ、ふと前を見るとカイトも同じタイミングで立ち上がっていた。


「はー、すごい授業だったな」


 講義室を出た直後、カイトが背伸びしながら漏らした声は、どこか言葉を探しているようだった。


「うん」


 ユウの返事は短く、光の滲む廊下を歩いていく。


 頭上の水管をゆるやかに流れる泡の列が、規則的に音を立てていた。


 ~~~~~


 ドルフィン寮に戻ったのは、それから十数分後のことだった。

 共有スペースにはまだ人の姿は少なく、中央のテーブルに、ほんの数人が座って話しているだけだった。


 ユウとカイトは奥のガラス窓沿いのソファに腰を下ろした。

 そこからは都市の中層部が遠く見え、水越しに広がる光の都市構造がうっすらと浮かび上がっていた。


 カイトが、ふっと息をついて言った。


「なぁ……ルイン・セレナスって、やっぱ怖ぇよな」


「まぁな、直接映像を見たのは初めてだったから、結構びっくりしたよ」


「共鳴すりゃ全部うまくいくもんだと思ってた。でも、あんなふうにもなっちまうんだな」


 カイトは背もたれに身を預けた。

 ユウは視線を落としながら、そっと口を開く。


「……共鳴って、難しいんだな……」


「そうだな……」


 カイトも少し考え込むような顔をしてから、言った。


 そのとき――


「……共鳴って、不思議ですよね。

 誰かと深く繋がるのって、怖くて、でも惹かれる」


 すっと通る声が、ふたりの背後から届いた。


 振り返ると、そこに立っていたのは一人の少女だった。

 深い青の制服に、黒髪を肩に落とした穏やかな表情。


 その瞳を見た瞬間、ユウは微かに既視感を覚えた。

 ――あのとき。エレベーターの中で、一度だけ目が合った。

 一瞬だったはずなのに、不思議と記憶に残っていた。


「新入生の……神楽さんと、雫さんですよね?」


 そう言って彼女は、手に持っていた書類端末を胸に抱えた。


「先ほど、凪先生にお願いして、セレナスとの共鳴試験に関するデータをいただきました。まだ通知が出ていない内容ですが……もしよければ、お渡ししましょうか?」


「ありがとう、助かるよ。……ごめん、名前聞いてもいい?」


「白波ソラといいます。私も同じ新入生です。これから、よろしくお願いしますね。」


 彼女は会釈して、静かにその場を離れた。

 廊下の向こうへ、彼女の姿が消えていく。


 深い暗闇に降下していたあの空間で起きた、一瞬の視線の交差が、いつまでも残響を残していた。


 カイトがぼそりとつぶやいた。


「……なんか、凛としてきれいな人だったな」


 ユウはカイトのつぶやきに何も言葉を返さなかった。


『どこかで会ったことがある気がするけど、……エレベーターで目が合ったせいかな』


 しかし、彼の胸の中には、今日の授業で聞いた「共鳴」の話と、今の出会いが、どこかで静かに重なり始めていた。


 ~~~~~


 その後、ユウとカイトは、部屋に戻り、他愛もない雑談をして過ごした。


 それぞれが明日に備えて就寝の支度をしていたちょうどその時、個人端末が鳴った。


《第一期・個別共鳴適性試験のスケジュールが確定しました》


 小さな文字と共に、そこには数日後に予定された実地試験の日時と場所が記されていた。


「……来るな。いよいよ」


 ユウの呟きに、カイトは頷いた。


「そうだな。いよいよ、はじまるぞ」


 遠く、寮の構造壁の向こうに、ほんの一瞬だけ青白い閃光が揺れた。


 まるで、海の底から誰かが呼びかけてくるかのように。


 ~~~~~


 床灯を落とし、カイトの寝息が規則正しく響き始めたころ。

 ユウはまだ浅いまどろみの中で、まぶたの裏にゆらめく青い残像を追っていた──海の底から誰かが呼ぶような、あの閃光。


 意識がゆるやかに沈むと、夜の潮風と木の甲板がもたらす潮香が立ちのぼる。

 幼い頃、父の船で世界を回っていた日のある晩の景色が、音もなく流れ込んできた。


 海面には無数の夜光虫がただよい、船首波に砕けて冷たい星屑を散らしていた。

 灯りを落とした甲板で釣り糸をほどく父に、少年のユウはふいに尋ねた。


「セレナスって何?」


 父はいつも、風向きや星の位置はもちろん、人の言葉や視線の揺らぎまで測るような人だった。

 父はすべてを知っている──ユウは当時そう理解していた。


 淡い光の中で父の眼差しが細まり、波音の切れ目に落ち着いた声が落ちた。 


「ユウ、海をのぞくときは、鏡のように自分が映るだろ。

 映るのは雲や月だけじゃなくて、お前自身も映る。

 セレナスも同じさ。

 人間を映す鏡みたいなものだ」


「そうなんだ、じゃあ僕は何を映すかな」


 ユウは、無邪気に聞き返したが、父は答えずに微笑み、頭をくしゃりと撫でただけだった。


 父は手すり越しに指先でそっと円を描いた。

 海面の粒光がかすかにざわめき、そこへ寄り集まるように淡い輝きが渦をつくる。

 光は幾重もの螺旋を描きながら中心へ収束し、やがて白い殻のような輪郭を縁取った。

 静かな水の呼吸と同調するように、その影は一瞬だけ浮かび、深い群青へ溶けていく。

 海そのものが息づくようで、ユウは思わず息をのんだ。


 ──鏡。

 セレナスが自分の醜い一面を映したとしても、それを受け止めることができるのか。

 果たして自分には、その覚悟があるのか。


 ユウは寝台のシーツをそっと握り、胸の奥に揺れる問いを見つめた。


 “人間を映す鏡”――父の言葉だけが、まだひそやかに鼓動していた。

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大半が海に沈んだ世界で、記憶と引き換えに白いシャチと共鳴しました oruto @paru8686866

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