第7話 王都からの来訪者
ヴェリディアでの穏やかな日々は、私の心をゆっくりと、しかし確実に癒してくれていた。
泉は完全に清らかさを取り戻し、畑には青々とした若葉が芽吹き始めている。街の人々の笑顔も日増しに増え、子供たちの元気な声が広場に響くようになった。
私の仕事は、相変わらず街のあちこちの「お片付け」だ。
今日は、街のパン屋の石窯に長年こびりついていた、パンの風味を損なう原因となっていた「煤の穢れ」を浄化した。お礼にと、焼きたてのふかふかなパンをたくさんもらってしまった。
「ありがとう、エリーナちゃん! これでまた美味しいパンが焼けるよ!」
パン屋のおばさんの満面の笑みに、私も自然と笑顔になる。
誰かに感謝されること。誰かの役に立っていると実感できること。勇者パーティにいた頃には、決して得られなかった温かい幸福感が、私の胸を満たしていた。
そんな平穏を破るように、その訪問者は現れた。
その日、街の入り口がにわかに騒がしくなった。窓から外を覗いたマリアさんが、険しい顔で呟く。
「……なんだい、ありゃ。王都の騎士団章じゃないか」
石畳の道を、カツン、カツンと蹄の音を響かせて進んでくる一団がいた。先頭を歩く馬上の騎士が纏うのは、寸分の隙もなく磨き上げられた白銀の鎧。その胸には、王家に仕える近衛騎士団の紋章が誇らしげに輝いている。
辺境の、しかもついこの間まで呪われていたこの街に、なぜ王都の騎士が?
街の人々も、物珍しさと緊張が入り混じった表情で、遠巻きにその一団を見つめている。
やがて、騎士団はまっすぐにギルドの前で馬を止めると、一人の騎士が馬から静かに降り立った。すらりとした長身に、整った顔立ち。腰に下げた剣の装飾から見ても、彼がこの部隊の長であることは明らかだった。
彼はギルドの扉を開けると、まっすぐにカウンターへと進み出た。
「ここはヴェリディアの冒険者ギルドで間違いないかな」
その声は、若々しいが落ち着きがあり、不思議な説得力を持っていた。
マリアさんは腕を組み、警戒心を隠そうともせずに応じる。
「いかにも、私がここのマスター、マリアだ。近衛騎士団様が、こんな辺鄙な場所に何の用かね」
「私は、近衛騎士団第三部隊隊長、シリウス・アインヘルヤルと申す。単刀直入に伺いたい。このヴェリディアの地にかけられていた『黒の呪い』を浄化した術者が、ここにいると聞いた。心当たりは?」
シリウスと名乗った騎士の目は、探るようにギルドの中を見渡す。そして、マリアさんの背後にいた私を見つけると、その動きをピタリと止めた。
アレス様のように見下すでもなく、街の人々のように崇めるでもない。ただ、純粋な興味と分析するような、鋭い知性を感じさせる視線だった。
マリアさんは、私を庇うように一歩前に出る。
「さあね。ただの噂じゃないのかい? 街の連中が勝手に騒いでるだけさ」
「そうだろうか。王宮の魔術師たちが束になっても解呪できなかった、古の呪いだ。それが、一夜にして完全に消滅した。これは、ただの噂で片付けられる事象ではない」
シリウスさんはそう言うと、懐から小さな布袋を取り出した。中から現れたのは、親指ほどの大きさの、黒水晶。それは、見ているだけで気分が悪くなるような、禍々しい瘴気を放っていた。
「これは、王家の宝物庫を汚染していた『呪いの欠片』だ。浄化を試みた高位神官が、逆に呪詛返しで倒れたほどの代物。もし、この街の奇跡が本物であるなら……この呪いを浄化することも可能なのではないかな?」
彼は、その黒水晶をカウンターの上にそっと置いた。マリアさんの顔に緊張が走る。
どうしようかと迷う私に、シリウスさんは穏やかな声で言った。
「もし、あなたがあの泉を浄化した『聖女』であるならば、どうか力を貸してはいただけないだろうか。これは、依頼だ。もちろん、相応の礼は国が保証する」
私は、マリアさんと顔を見合わせた。マリアさんは小さく頷く。試されている。そして、これは私たちの街、ヴェリディアの価値が認められる機会でもあるのだと、彼女の目が語っていた。
私は覚悟を決め、一歩前に出た。
「……やらせてください」
私が黒水晶に手を伸ばすと、シリウスさんの部下らしき騎士たちが息を呑むのが分かった。
私は水晶にそっと指で触れる。ビリビリと、魂を削るような邪悪な力が伝わってきた。でも、もう私は怖くない。
「【空間整頓】」
私がそう唱えると、指先から放たれた光が、黒水晶を優しく包み込んだ。
禍々しい瘴気が、まるで掃除機に吸い込まれるゴミのように、光の中へと吸い寄せられていく。黒水晶はみるみるうちにその色を失い、やがて、完全に澄み切った透明な水晶玉へと姿を変えた。
「……信じられない」
シリウスさんが、呆然と呟く。彼の騎士たちも、目の前で起きた奇跡に言葉を失っていた。
やがて、シリウスさんは我に返ると、私に向かって、貴族が王族に示すような、最も丁寧な礼をもって深く頭を下げた。
「お見事だ、エリーナ殿。あなたのその力は、奇跡などという曖昧なものではない。王国が今まで認知していなかった、全く新しい、そして最強の浄化の御業だ」
彼は顔を上げると、真剣な眼差しで私を見つめた。
「エリーナ殿。その類い稀なる御力、このまま辺境で埋もれさせてしまうのは、あまりにも惜しい。どうか、我々と共に王都へ来てはいただけないだろうか。国王陛下も、必ずやあなたに会いたがられるはずだ」
王都へ。国王陛下に会う。
それは、私が今まで生きてきた世界とは、あまりにもかけ離れた話だった。
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