夜淵よがたり通話録
目々
着信
キッチンのささやかな照明も届かない廊下の隅には生温い夜が蹲っている。
時折軋むような音を立てる換気扇、暈けた橙色の光の下、あなたは咥えた煙草に火を点ける。
紫煙はゆるやかに立ち上り、がたつきに吸い寄せられては儚く失せる。住居にて行うべき生活の諸々――食事も風呂も、何なら戸締りさえも――既に済ませてしまったので、後は眠るぐらいしかすることがない。勿論寝床に潜り込んで順々と明日を迎えるのが無難な選択だとは分かっている。さておき明日も特別予定があるというわけでもない。勿論大学生という身分である以上、その義務として講義に出席する必要がある。それでも一年のときにそれなりに真面目に単位取得に励んだので、
シンクの傍、煙草の箱に置かれたスマホの画面には23:07の数字が浮かんでいる。夜というには随分遅い、けれども真夜中には少し足りない。差し迫った眠気があるわけでもなく、かといってするべきこともしたいことも思いつかない。
持て余した夜を凌ぐように、あなたは煙を吐く。ベッドに転がってタオルケットを被れば眠れるだろう、そんなことは分かっている。このところの異常気象――何せ梅雨だというのに日中気温が三十度を当たり前のように超えてくる始末だ――に由来するべたつく熱気が不愉快ならば、冷房をタイマー付きで稼働させてやればいい。外的環境はさておき、あなた自身の寝つきはそこまで悪い方ではない。健全な社会生活を営むために、体調を保持するために、十分な睡眠時間を確保すべきだ――そうした理屈は成程理解しているが、そうして子供のように大人しく眠って夜を過ごすのも何となく惜しい。惜しむほどの理由も見当たらないのに、だ。
無造作に与えられた夜は、相応しい使い道も分からないまま無為に過ぎていく。一息煙を吐くたび、空になった肺に喪失感に似たもやつきが溜まる。吸い込んだ息に答えるように、じりじりと先端の火が赤くなる。
薄闇の隙間から這い出すような振動音が幾度か響き、びくりと体が強張る。
置きっぱなしにしていたスマホの画面には見知った兄の名前と受話器のアイコンが表示されている。
咥え煙草のまま、あなたはスマホを手に取る。画面に指を滑らせて、耳元へと端末を当てる。
『――すぐに出たな。まだ寝てなかったのか、お前。こんな時間なのに』
兄さんこそ、とあなたは返す。
スピーカーの向こうから微かな笑い声が聞こえた。
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