最後の再生
ファントム
The Price of a "Like"
俺の人生は再生回数がすべてだった。クソみたいな現実から逃げるための、唯一の麻薬。
田中健太はスマートフォンの画面を親指でなぞりながら、アスファルトに染み付いたガムのように醜く口の端を歪めて笑った。最新の動画の再生回数は87回。そのほとんどは、自分でリロードしたものだろう。大学のサークルでの飲み会。輪の中心で笑う人気者の横で、グラスの氷を弄りながら作り笑いを浮かべているだけの自分。誰も興味を示さない、ありふれた大学生活の残骸だ。
「ケンタ、マジでこんなとこ来んの?」
背後からサキの声が聞こえ、健太はスマホを乱暴にポケットに押し込んだ。彼女は不安に曇った瞳で、目の前にそびえる古びた鳥居を見上げている。その朱色は血痕のように剥げ落ち、カビと苔がまるで皮膚病のようにまだら模様を描いていた。鳥居の向こう側は、昼なお暗い杉林へと続く石段が、まるで古の獣の喉の奥へと誘うようにぬめりと光っている。
「まあ、たまにはこういうのもアリかもね。毎日同じことの繰り返しだし」
サキはそう付け加えたが、その声には自分を納得させようとするような微かな響きがあった。
「最高じゃん。こういう“ガチなヤツ”を視聴者は待ってんだよ」
健太はわざとらしく声を弾ませ、バックパックからスタビライザー付きのスマホを取り出した。レンズが、非現実的なほど滑らかに周囲の風景を捉える。スタビライザーは健太の荒い息遣いや微かに震える指先の動きを完璧に吸収し、モニターの中の世界だけが奇妙に平穏だった。
「今回のタイトルは、『【放送禁止レベル】地図から消された呪いの村に潜入してみた…鳥居の先に見たモノとは…』ってとこか」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「なあ、マジで帰ろうぜ」
サキの隣でヒロシが青い顔で呟いた。彼の鼻がひくひくする。「ここ、なんか匂わねえか?夏のゴミ捨て場みてえな…腐った肉みたいな匂いが…」
ヒロシは自分の両腕をさすっていた。「それに、鳥居くぐった瞬間から、誰かにジロジロ見られてるみてえな…気配が、いっぱいするんだよ…」
ヒロシのその言葉は、健太の心を一瞬だけざわつかせた。だが、それも再生回数を稼ぐための「良いフリ」だと彼は即座に結論づけた。
「ビビってんのかよ、ヒロシ。大丈夫だって。ただの廃村だろ」
健太は二人の心配を一笑に付し、録画ボタンを押した。虚構の自分を演じるための、スイッチだ。「はい、どうもー!KENTAチャンネルのケンタでーす!今日はですね、とある筋から情報を得た、地図からも存在を抹消されたっていうヤバい廃村、忌墓村(いぼむら)に来てまーす!」
カメラに向かって笑顔を振りまく。都会での日々。講義室の後ろの席で、誰にも話しかけられず、ただスマホのタイムラインを追いかけるだけの時間。バイト先ではミスばかりで年下の店長に叱責される。顔も知らない誰かからの「いいね」や「神回!」というコメントだけが、すり減って薄紙一枚になった彼の自己肯定感をかろうじて支えてくれる最後の柱だった。
「じゃ、早速行ってみよー!」
健太は二人の制止を振り切り、まるで生贄に選ばれたことを喜ぶ狂信者のように鳥居をくぐった。苔むした石段は湿っており、一歩踏み出すごとに腐葉土とカビの混じった、甘く不快な匂いが鼻をついた。ヒロシの言っていた匂いだ。杉の木々が天蓋のように陽光を遮り、空気が粘り気を帯びたように重くなる。あれほど騒がしかった蝉時雨が、まるでテープを途中で切断されたかのようにぷつりと途絶えた。完全な無音。いや、違う。耳の奥、頭蓋の内側で、金属を爪で引っ掻くような、低く甲高い耳鳴りが支配を始めていた。
「見てください、この静けさ…。マジで何かが出そうな雰囲気、ありますよねぇ…」
健太は、自分の心臓が早鐘を打っているのを悟られないよう囁き声でスマホに語りかけた。この廃村が、彼の承認欲求を満たしてくれる最後の聖地であるかのように、彼は信じて疑わなかった。だが、その実、彼はただ怯えていただけだった。都会の孤独よりも、目の前の未知の方がまだマシだと思い込もうとしているだけだった。
石段を上りきると、屋根が抜け落ち自然に還りつつある家屋が点在する集落跡が広がっていた。道の脇には、半分土に埋もれた地蔵の首が無残にもがれている。一行は、村で最も大きな建物だったであろう公民館に足を踏み入れた。床は抜け、窓ガラスは割れ、壁には黒いシミがまるで巨大なアメーバのように広がっていた。その壁の一角に、色褪せた一枚のポスターが、なぜか真新しい画鋲で留められていた。村の歴史を記した年表のようだ。
「うわ、見てみろよ、これ」
ヒロシが震える指で指さした。
ポスターの下の方に、血を滲ませたような赤黒いインクで書かれた一文があった。
【畏れを知らぬ者は、滅びの道を辿る】
「古くせー。どっかの神社の標語かよ」
ケンタは鼻で笑った。恐怖を誤魔化すための、空虚な笑いだった。「これもネタになるな。『廃村に残された謎の血文字!』ってか」
彼はそれを撮ると、すぐさまSNSにアップしようと指を動かした。「ウケるw」というキャプションを付けて。投稿ボタンを押す寸前、サキが彼の腕を掴んだ。
「やめなよ、ケンタ。なんか、見られてる気がしない?」
サキの声は囁き声だった。
「考えすぎだって」
健太は彼女の手を振り払った。畏れ。そんな不確定で非科学的な感情は、再生回数を稼ぐためのスパイスでしかない。この時の彼は、その言葉が、傲慢な自分自身に突きつけられた呪いの宣告であり、これから始まる未知への畏れを骨の髄まで、肉の一片まで味わい尽くすことになる旅の始まりを示唆していることなど、知る由もなかった。
探索と称した冒涜が始まった。健太はあたかもハイエナのように、死んだ村の残骸を漁った。朽ち果てた小学校の教室では、埃をかぶった児童の絵日記を無遠慮に開き、その拙い文字をカメラに晒した。
「『きょう、となりのさっちゃんがいなくなりました。どこにいったんだろう』…だってさ。神隠しってやつ?」
「やめなよ、人のプライバシーだよ!」
サキは本気で怒っていたが、健太の耳には入っていなかった。
「これがリアルだろ?視聴者はこういう生々しいのが好きなんだよ」
彼の言葉は、彼自身の心の歪みを映していた。
商店だった建物では、レジの中に錆びついた硬貨が数枚残っていた。ケンタはそれをポケットに入れ、「お宝ゲットー!」とカメラに叫んだ。
「それ、泥棒だよ」
サキは軽蔑の眼差しを向けた。その視線に、ケンタの心はチクリと痛んだ。だからこそ、彼はさらに過激な行動に走った。弱さを隠すために、より大きな悪態をつく子供のように。
この忌墓村には、かつて不作と疫病が続いた時代があったらしい。公民館の資料の断片によれば、村人たちはある「禁忌」を破ったことで、山に棲む何かの怒りを買い、村は滅びへと向かったのだという。しかし、その禁忌が具体的に何を指すのかは、資料の損傷が激しく読み取れなかった。ただ、「土を掘り返してはならぬ」という記述だけが、妙に生々しく残っていた。
「なぁ、ケンタ。そろそろ戻らないか?日が暮れる前に山を降りたい」
サキが懇願するように言った。
「もうちょっとだけ。一番奥に神社があるらしいんだよ。そこ撮ったらクライマックスだろ」
再生回数。5桁の数字。それさえ手に入れば、サキの軽蔑も、ヒロシの怯えも、都会での惨めな自分も、すべてがどうでも良くなるはずだった。彼は気づいていなかった。この廃村そのものが、自分たちの無神経さを裁くための、巨大な罠であることに。そして、自分たちが、招かれざる観客ではなく、次の生贄であることを。
村の一番奥、ひときわ深い木々に囲まれ、まるで巨大な墓石のように、その社はあった。屋根は崩れ、賽銭箱は朽ち果てていた。社の中心には、古びた台座の上に、素朴な木彫りの人形が一体安置されていた。それが、この村の御神体らしかった。
「うおっ、これがラスボスか!」
ケンタは興奮を隠せない様子で、御神体に近づいた。人形は、風雨にさらされて表面が滑らかになり、目鼻立ちも定かではない。だが、そののっぺりとした顔には、形容しがたい邪悪な威圧感が宿っていた。まるで、見る者の魂を吸い込もうとしているかのように。
「ケンタ、触っちゃダメだよ!」
サキの悲鳴のような声が響いた。
しかし、忠告は彼の興奮の炎に油を注いだだけだった。
「大丈夫大丈夫」と軽口を叩きながら、彼は御神体に手を伸ばした。
そして、湿った骨が折れるような、ねじりとれるような、鈍く嫌な音を立てて、台座から引き倒してしまった。
ゴトリ、と鈍い音が響き、木彫りの人形が苔むした地面に転がった。
その瞬間だった。
世界から音が消えた。いや、全ての音が、一つの不快な低周波に収斂された。社の奥深くから、地の底から、巨大な何かが呻くような地響きを伴う振動が伝わってきた。それは風の音ではない。獣の声でもない。死者が棺桶の蓋を内側から引っ掻くような、存在してはならない音だった。
見上げると、今まで晴れていたはずの空が、急速にインクを垂らしたような黒い影に覆われていく。村中のカラスが一斉に絶叫し、不協和音を響かせながら空へと舞い上がった。
「うわっ!」
背後で短い悲鳴が上がり、ドサリと肉の塊が地面に叩きつけられる音がした。振り返ると、ヒロシが地面にうずくまり、まるで感電したかのように全身を小刻みに痙攣させていた。
「ヒロシ!どうしたんだよ!」
健太が駆け寄ると、ヒロシのTシャツの袖から覗く腕に、おぞましい痣が浮かび上がっていた。それはまるで、熱した鉄を押し付けたような黒い斑点で、生きているかのように脈動しながら皮膚の下を這い、その面積を広げていた。
「くそっ、救急車!」
健太は慌ててスマホを取り出すが、画面の左上には冷たい現実が表示されていた。「圏外」。サキのスマホも、ヒロシのポケットから落ちたスマホも、同じだった。
地響きは止んだが、代わりに、得体の知れない何かに捕食者の目で見られているという、強烈な圧迫感が三人を押し潰さんばかりに包み込んでいた。村からの脱出路は、目に見えない壁によって完全に断たれたのだ。悪ふざけは終わった。これは、現実だった。そして現実は、どんなホラー映画よりも遥かに恐ろしかった。
公民館の埃っぽい畳の上で、三人はなすすべもなく座り込んでいた。窓の外は急速に闇に包まれ、ヒロシの喘ぐような息遣いだけが、絶望的な静寂を切り裂いていた。彼の体中の痣は、さらに濃く、広範囲に広がっていた。それは皮膚の下で黒いインクが毛細血管を伝って滲むように、その領域を拡大していく。模様は枯れた木の根のようでもあり、あるいはこの忌墓村の呪われた地形そのもののようでもあった。時折、「――かえして――あのひとに――かえして――」と意味不明なうわ言を呟いていた。
「どうすんだよ、ケンタ!あんたのせいだよ!」
サキは涙でぐしゃぐしゃになった顔で健太を詰った。その瞳には、恐怖だけでなく、純粋な憎しみが浮かんでいた。
「俺のせいだってのかよ!ただの人形を倒しただけだろ!」
健太は声を荒らげたが、その声は虚しく震えていた。心の奥底、自分でも認めたくない暗い場所で、サキの言う通りだと分かっていた。自分のくだらない見栄と承認欲求が、友人を地獄に突き落としたのだと。
「すぐに村を出よう!懐中電灯はあるから、夜道でもなんとかなる!」
サキが立ち上がった。
「馬鹿野郎!ヒロシをどうすんだよ!それに、この暗闇の中、何が出てくるか分かんねえだろ!」
健太はヒロシを指さした。彼の体が、ありえない角度に時折、ぎしり、と軋むのが見えた。
彼らの間で、不信感と恐怖が黒い煙のように立ち込めていく。リーダーシップを発揮すべき健太は、しかし、自分の非を認めることができず、責任から逃れようと必死だった。
「きっと、誰かの悪ふざけだよ。そうだ、そういう手の込んだドッキリ企画なんだ。朝になれば、スタッフがネタばらしに来るって」
その言葉が、溺れる者が掴む藁よりもさらに脆く、虚しい自己弁護であるかは、彼自身が一番よく分かっていた。
眠れない健太が、割れた窓から外を眺めていると、遠くの廃屋の二階の窓に、一瞬だけ蝋燭のような明かりが灯り、すっと消えた。誰かが畳の上を歩くような、衣擦れの音が聞こえるが、振り返っても誰もいない。眠っているヒロシが、時折「ごめんなさい…ごめんなさい…」と涙を流しながらうわ言を言う。
派手な怪異だけでなく、日常が静かに侵食されていくような不気味さが、健太の正気をじわじわと蝕んでいった。
夜が明け、公民館の割れた窓から死体のように青白い光が差し込んだ時、健太は自分の魂が凍てつくのを感じた。ヒロシの意識は混濁し、その瞳は磨りガラスのように焦点を結んでいなかった。黒い痣は彼の顔の半分を覆い尽くし、まるで体の中から黒い蔦が彼を締め上げ、その養分を吸い上げているかのようだった。その指は奇妙な角度に曲がり、枯れ枝のようにも、あるいは昆虫の脚のようにも見えた。そして、ヒロシの口から、低く湿った音が漏れていた。「いぼ…むら…の…はらわた…」。
「これは…俺のせいだ…」
初めて、健太の口から、何の言い訳も含まない、純粋な罪の告白が漏れた。ドッキリ企画でも、悪ふざけでもない。これは紛れもない呪いであり、その引き金を引いたのは自分自身だ。このままではヒロシは死ぬ。いや、死という安らかな眠りすら許されず、この村の地の一部と化してしまうだろう。
虚勢も、承認欲求も、すべてがまるで焼け落ちた皮膚のように剥がれ落ちた。残ったのは、友人を見殺しにしてしまうかもしれないという、生々しくどす黒い恐怖だけだった。
「――電話ボックスだ」
健太は立ち上がった。公民館で見つけた資料の切れ端に、村の奥に古い公衆電話が一つだけあるという記述があったのを思い出したのだ。有線であれば、この呪われた空間を貫いて、外の世界に繋がるかもしれない。
「サキ、連絡手段を確保してくる」
その声には、もう軽薄な響きはなかった。彼の瞳には、現実と向き合うことを決意した者の、暗く、しかし執念深い光が宿っていた。これまで逃げ続けてきた「責任」という重荷を、彼は自ら背負い込むことを決意した。恐怖のゲームは終わった。これは、生存のための、そして贖罪のための、絶望的な闘いの始まりだった。
電話ボックスへと向かう道すがら、健太とサキは一軒の廃屋に立ち寄った。雨漏りを避けるため、そして何か役に立つものはないかと探すためだった。その物置の奥で、健太はブリキの菓子缶を見つけた。錆びついた蓋を開けると、ビニールに包まれた古い日記帳が数冊、大切そうにしまわれていた。それは、この忌墓村の最後の小学校教師が書き記した、生々しい絶望の記録だった。
インクの滲んだ文字を追ううちに、健太はこの村を襲った災厄の真実を知ることになった。日記には、この村がかつて疫病や飢饉で多くの死者を出し、彼らは正式な墓ではなく、村の土地そのものに埋葬されたと記されていた。
【村の近代化を叫ぶ若者たちは、山の土を削り、道を拓いた。彼らは知らなかったのだ。我々が踏みしめるこの土地そのものが、弔いきれなかった我々の先祖たちの、巨大な墓標であることを――そして、あの御神体は、神そのものではない。我々の先祖の無念を、この土地に縛り付けるための、巨大な鎮物(しずめもの)――忌まわしい『蓋』であったことを。】
健太は戦慄した。自分たちの行為は、ただの悪ふざけではなかった。死者の眠りを妨げる、冒涜的な「墓荒らし」そのものだったのだ。そして彼は、災厄の『蓋』を、自らの手で開けてしまったのだ。
村の奥深くへ進むにつれて、怪異はより狡猾に、より悪意を持って彼らを弄び始めた。
最初は音だった。誰もいないはずの廃屋から、健太が過去に動画でこき下ろしたライバル配信者の嘲笑う声や、ヒロシの母親のすすり泣く声が聞こえる。風もないのに、道端に打ち捨てられたブランコが、ギー、ギー、と首吊り縄が軋むような音を立てて揺れている。
次に、幻覚が彼らの正気を蝕んでいった。健太の目の前に、都会で彼が一方的に関係を断ち切った元カノの、青ざめた顔が現れた。「どうして何も言ってくれなかったの?私、あなたの子供…」彼女のお腹は、不自然に膨らんでいた。サキは、離婚した父親が、血まみれの顔で「お前のせいだ」と自分を指さす幻影に苛まれた。怪異は、彼らの心の最も柔らかい部分、罪悪感やトラウマを餌に、肥え太っていくようだった。
健太は、まだポケットに残っていたスマホでカメラを回し続けていた。だが、その目的は再生回数ではない。何が起こっているのかを記録し、客観的に分析することで、狂気に飲み込まれないようにするための、必死の抵抗だった。
「今、道の先に、人影のようなものが見えました。しかし、近づくと消えてしまいます。これは、光の屈折によるものか、それとも…」
彼は囁く。だがそれは視聴者のためではない。自分自身の正気を保つための呪文だった。
彼の行動は、明らかに変化していた。仲間を守るため、日記の記述と目の前で起こる現象を照らし合わせ、必死に活路を探していた。
怪異の正体は、まだ掴めない。だが、それは特定の形を持たず、見る者の恐怖によって形を変える、黒く粘り気のある霧のような存在であることだけは確かだった。
ヒロシの容態は、一進一退を繰り返していた。時折、正気に戻ったかのように「ケンタ…日記…先生…ごめんなさい…」と呟くこともあれば、次の瞬間には獣のような唸り声を上げ、自分の腕の肉を食いちぎろうとすることもあった。
ケンタは依然として、この事態の元凶が自分であるという事実を、完全には受け入れられずにいた。「俺があの人形を倒さなくても、この村はもう呪われてたんだ」。そんな言い訳が、まだ心の片隅で醜い根を張っていた。彼は闘っていた。外なる怪異と、そして、何よりも卑劣で狡猾な、内なる自分の弱さと。
苦難の末、彼らはついに目的の電話ボックスにたどり着いた。蔦に覆われた赤い筐体は、まるで忘れ去られた神の棺のように、不気味な存在感を放っていた。ケンタは震える手で10円玉を投入し、ひび割れた受話器を耳に当てた。
ジーッ、というノイズだけが響く。何度ダイヤルしても、結果は同じだった。絶望が、冷たい泥水のように喉の奥からせり上がってくる。
ガチャン、と受話器を置いた、その時だった。
突然、受話器から声が聞こえた。ノイズに混じった、くぐもった声。それは、ヒロシの声だった。
「――タスケテ――ケンタ――コワイヨ――くらいよ――さむいよ――」
そして、その声に重なるように、無数の呻き声、怨嗟の声が響き渡った。「痛い」「なぜだ」「我々を見捨てたのか」。それは、この忌墓村で忘れられ、死んでいった者たちの声だった。健太は、自分がこの村全体の歴史と無念の上に、土足で踏み込んでしまったことを悟った。
恐怖に受話器を叩きつけた瞬間、電話ボックスのガラス窓に、内側から無数の手形が浮かび上がった。子供の小さな手、女のしなやかな手、老人の節くれだった手。それはまるで、助けを求める亡霊たちのコーラスのようだった。
事態は、彼らの命そのものを喰らおうとしている。絶望の淵で、ケンタは教師の日記の一節を思い出した。
【怪異は、人の畏れを喰らって力を増す。逃げるだけでは、喰われるだけだ】
もはや逃げることはできない。ここで向き合い、闘うしかない。彼はサキに向き直り、言った。
「策を練るぞ。俺たちが、生き延びるための策を」
ケンタは薄々気づき始めていた。この呪いが、自分が御神体を倒したことだけに起因するのではないことを。この村に宿る巨大な悪意を、自分の愚かな行為が呼び覚ましてしまったのだという可能性を。だが、まだそれを認めることは、彼にとって死ぬことよりも恐ろしいことだった。
公民館へ戻る道で、彼らの結束は決定的に引き裂かれた。
「あんたのせいでヒロシが!あの動画さえ撮らなければ!再生回数がそんなに大事なの!?」
サキがヒステリックに叫んだ。彼女の非難は、ケンタの罪悪感を的確に抉った。
追い打ちをかけるように、足元で呻いていたヒロシが、不気味なほどはっきりとした声で言った。
「――ケンタ――お前、俺のこと、内心じゃ馬鹿にしてただろ――いつも相槌打ってるだけの、でくのぼうだって――サキのことだって、本当は――」
ヒロシの口を借りて、怪異がケンタの内面の最も醜い部分を暴露する。そうだ、俺はそう思っていた。ヒロシの人良さを、鈍臭さだと見下していた。サキの優しさに、下心でつけ込もうとしていた。
図星を突かれたケンタは逆上した。「うるさい!お前らがビビるからだろ!しっかりしろよ!」彼は、責任を転嫁することでしか、自分のプライドを保てなかった。
完全に孤立した彼の周りを、今までSNSで彼が嘲笑し、見下してきた者たちの幻影が取り囲む。
「お前の言葉は軽すぎる」
「お前には魂がない」
「お前の人生は、再生回数ゼロだ」
彼らは腐った肉の匂いを漂わせながら、ケンタを指さし、嘲笑う。彼は、自分が作り出した虚構の世界の住民たちによって、精神的に嬲り殺しにされかけていた。
その時、唯一の希望だった吊り橋が、巨大な獣が噛み砕くような轟音とともに崩れ落ちた。それは、彼らが信じていた「助けが来るという希望」そのものの、無慈悲な破壊だった。
絶望に立ち尽くすケンタに、サキが冷たく言い放った。
「あなたみたいな人間、もう信じられない。ヒロシに近寄らないで」
それは、完全な拒絶だった。仲間を失った。健太にとって、それは物理的な死よりも恐ろしい宣告だった。
彼は最後の望みを託し、スマホを取り出した。震える指で「助けて」と入力し、投稿ボタンを押そうとした。その瞬間、何もない空間から黒い影のような手が伸び、スマホをひったくるように弾き飛ばした。
パリン、という乾いた音と共に、スマホの画面に蜘蛛の巣のようなヒビが入り、ブラックアウトした。
最後の希望、外部の誰かからの承認という麻薬への接続が、完全に断ち切られた。全てが、終わった。彼は、この呪われた村で、独りになったのだ。
ケンタは崩れた橋の袂で、独り、冷たい雨に打たれていた。プライドも、虚勢も、承認欲求も、すべてが雨に洗い流され、彼の心の奥底には、惨めで、汚く、軽薄な自分自身だけが残されていた。
その時、泥にまみれた教師の日記が、彼の足元で開いた。最後のページ。そこには、教師の乾いた血で書かれたような、震える文字があった。
【許してくれ。私が間違っていた。ただ、見て見ぬふりをした、私の罪だ。】
ケンタはその場に崩れ落ち、嗚咽した。教師もまた、自分と同じように孤立し、罪の意識に苛まれていたのだ。
顔を上げると、社の御神体を倒した場所に、ぼんやりと人影が集まっているのが見えた。村の亡霊たちだ。子供、女、老人。彼らはケンタを非難してはいなかった。ただ、深い悲しみを湛えた瞳で、じっと彼を見つめている。その視線は、まるでこう語りかけているようだった。
「お前も、我々と同じか。見捨てられ、忘れ去られる痛みが、ようやくわかったか」
公民館の方から、か細く、しかし優しい声が聞こえてきた。サキがヒロシに子守唄でも歌ってやっているのだろうか。
「大丈夫だよ、ヒロシ…私がついてるからね…」
仲間からの拒絶、過去の亡霊からの共感にも似た眼差し、そして、今もなお残る仲間同士の絆。これらの、彼を打ちのめし、そして彼以外の場所で確かに存在する真実が、バラバラのパズルのピースのように彼の頭の中で組み合わさっていく。
償いだ。
それは、ヒーローのような自己発見ではない。徹底的に打ちのめされ、プライドも虚栄心もすべてを剥ぎ取られた末に行き着いた、唯一残された道だった。それは、完全な敗北宣言であり、彼の人生で初めての、心からの誠実な選択だった。
ケンタは、雨の中でゆっくりと顔を上げた。その目には、もう恐怖も迷いもなかった。泥まみれの顔を流れるのは、雨か涙か、もう彼自身にも分からなかった。彼は公民館の扉を叩いた。
「サキ」
中から返事はない。
「俺が終わらせる。だから、力を貸してくれ」
しばらくの沈黙の後、扉が軋みながら開いた。サキは怯えた目でケンタを見ていたが、彼の表情に、以前とは全く違う種類の決意が宿っているのを見て、息を飲んだ。それは、自己満足のための虚勢ではなく、他者を救うための、静かで、しかし揺るぎない覚悟だった。
「…どうするの?」
「償いをするんだ。俺が。この村のすべてに対して」
彼の「畏れ」を知るという内的な変化が、新たな行動を生み出す瞬間だった。サキは、恐怖よりも、彼の変化へのわずかな信頼を選んだ。闇の中で、二つの孤独な魂が、再び結びつこうとしていた。
まず、怪異に憑かれたヒロシを鎮め、保護する必要があった。ケンタは、自分の犯した罪への最初の償いとして、ヒロシに正面から向き合った。「ヒロシ、ごめん。俺のせいで、お前をこんな目に――あの日、飲み会で上手く話せないお前を、俺は心の底で笑ってた。本当に、ごめん」。彼の真摯な告白に、ヒロシの動きが一瞬、人間のそれに戻ったように見えた。その隙に、サキが廃屋から見つけてきた古い布団で彼を包み込み、ロープで一時的に拘束した。かつてはケンタを非難していたサキも、彼の覚悟を見て、再び彼と共に闘うことを決意していた。二人は、怪異を鎮めるための「儀式」に必要なものを、日記の記述を頼りに廃村の各地から集め始めた。社の周りに自生する、月の光を浴びた特定の草花、そして、清らかな山の湧き水。
ケンタとサキは、御神体を抱え、社へと向かった。道中、怪異は最後の抵抗とばかりに、二人を執拗に襲った。地面から無数の手が伸び、彼らの足首を掴もうとする。周囲の木々が、まるで生きているかのように枝を伸ばし、行く手を阻む。だが、ケンタはもう幻覚に惑わされなかった。「それは俺の弱さだ。お前じゃない」。彼は、自分の中に巣食う恐怖の化身にそう言い放ち、一歩一歩、確実に前進した。彼の「畏れ」を知った心は、怪異の心理攻撃に対する強力な盾となっていた。
社にたどり着き、ケンタが震える手で御神体を元の台座に戻した。これで終わるはずだった。しかし、その瞬間、社全体が激しく揺れ、怪異の力が爆発的に増大した。御神体から黒いオーラが噴き出し、空に渦巻く。
「まだ足りないというのか――!」
形だけの謝罪では、この土地に積もった長年の無念と苦しみは晴れない。怪異は、ケンタ自身の罪悪感を具現化した姿――やつれたヒロシと、泣き崩れるサキの幻影――となって、彼に襲いかかってきた。
ケンタは悟った。必要なのは、自己犠牲という格好のいい結末ではない。もっと泥臭く、惨めで、しかし誠実な行為。自分の罪を、一つ残らず、この村の魂に告白することだ。崩れ落ちる社の梁の下、彼は瓦礫に足を挟まれながら、天を仰いで叫んだ。
「俺が!俺がアンタを倒した!たかが再生回数のために!」
叫ぶたびに、胸の奥で膿んでいた何かが吐き出されていく。
「商店の爺さん!あんたが大事にしてた銭を盗んだ!『お宝ゲットー!』じゃねえ、ただの泥棒だ!ごめんなさい!」
「日記の女の子!あんたの悲しみを『神隠しってやつ?』なんて言って笑いものにした!本当に、本当にごめんなさい!」
視線の先に、サキとヒロシの幻影が揺らぐ。
「ヒロシ!いつも相槌打つだけのお前を、内心じゃ『つまんねえヤツ』だって見下してた!ごめん!」
「サキ!お前が本気で心配してくれてるのに、それさえも動画のネタにしようとした!お前の優しさを、俺は利用した!ごめんなさい!」
彼の具体的な告白と言葉が、怪異を鎮める祝詞となった。彼が罪を認め、吐き出すたびに、渦巻いていた黒いオーラが少しずつ、その勢いを失っていく。彼自身の内面の「汚さ」を直視し、言葉にすることが、この土地に対する最大の敬意であり、浄化の儀式そのものだった。
ケンタの最後の告白が終わった瞬間、世界が応えた。
台座に戻された御神体が、温かい光を放ち始めた。その光は、黒く渦巻く怪異のオーラを浄化するのではなく、まるで労わるように優しく包み込んでいく。唸り声は、やがて穏やかな溜息に変わった。それは、何十年もの間、誰にも聞いてもらえなかった痛みを、ようやく聞き届けてもらえた者の、深い安堵の響きだった。
社の崩壊が止まる。公民館で拘束されていたヒロシの体から、黒い痣がすうっと消えていき、彼は深い眠りに落ちた。残されたのは、圧倒的な静寂と、死者たちの気配が消え去った、ただの古い村だった。
数週間後。都会の喧騒が戻っていた。ガラス張りのカフェで、ケンタ、ヒロシ、サキの三人は、言葉少なにお茶を飲んでいた。ヒロシの体には後遺症もなく、サキの表情にも穏やかな笑みが浮かんでいる。彼らの間には、以前のような軽薄な空気はなく、共に地獄を生き延びた者だけが共有できる、重いが温かい沈黙が流れていた。
ケンタのテーブルの上には、ひび割れた画面のままのスマートフォンが伏せて置かれていた。彼はもう、それを修理するつもりはなかった。画面を見るたびに、あの村を思い出すだろう。それは、彼にとって必要な傷跡だった。
「俺さ、アカウント、消したんだ」
ケンタがぽつりと呟くと、ヒロシとサキが微笑んで頷いた。
カフェを出る時、ケンタはポケットにそっと手を入れた。指先に、固く滑らかな感触が触れる。あの廃村から、なぜか彼のポケットに入り込んでいた、小さな木彫りの御神体。それは、彼が手に入れた唯一の「お宝」であり、畏れと敬意を忘れないための、彼だけのお守りだった。
彼の人生から、再生回数が消えた。そして、本物の人生が、その重みと痛みと共に、ようやく始まろうとしていた。
最後の再生 ファントム @phantom2025
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