第3章─── 差し出されたコーヒーと計画の兆し

どこからともなく漂ってきたのは、淹れたてのコーヒーの香りだった。その匂いは、都会の排気ガスや、朝の冷たい空気とは異なる、温かく、人をホッとさせるような安らぎを運んできた。その香りに誘われるように、啓介とミカ、そして彼らの取り巻きたちが視線を向けた先には、一人のメイドが立っていた。


彼女は、クラシックなフリルとレースのメイド服を完璧に着こなしていた。膝丈のスカートは清潔感があり、白いエプロンは皺一つない。頭には、可愛らしいカチューシャが乗っている。手には、銀色のトレイを持ち、その上には湯気を立てる二つのコーヒーカップと、小さなビスケットが添えられている。彼女の表情は穏やかで、微笑みを湛えている。


メイドの名は、リリス。彼女は、この丸の内に最近オープンした、コンセプトカフェ「ユートピアの庭」のメイドだった。そのカフェは、単なる喫茶店ではなく、デジタルデトックスをテーマにした、五感を刺激する空間として知られていた。店内では、スマートフォンの使用が制限され、アナログレコードの音楽が流れ、手作りの焼き菓子と丁寧に淹れたコーヒーが提供される。リリスは、そのカフェの店長兼、実は「企画担当」だった。


「おはようございます。朝から熱い議論を交わしていらっしゃるようですね。よろしければ、この淹れたてのコーヒーで、少し休憩されてはいかがでしょうか」


リリスの声は、鈴を転がすように澄んでいて、しかしどこか芯の通った響きがあった。彼女は、あくまで自然に、啓介とミカの間に歩み寄った。彼女の動きは、訓練されたかのように流れるようで、メイド服のフリルが揺れるたびに、まるで絵画の中の人物が動き出したかのようだった。


啓介は、差し出されたコーヒーカップを見た。カップからは、豊かな香りが立ち上り、白い湯気が、朝の光を受けて淡く輝いている。その香りは、彼の脳に直接作用し、一瞬にして思考の熱を冷ましてくれた。ミカもまた、コーヒーの香りに、さっきまでの興奮がわずかに鎮まるのを感じていた。彼女の喉が、無意識のうちにゴクリと音を立てる。


「……一体、あなたは誰ですか?」


ミカが、警戒するように尋ねた。彼女の甲冑姿とは対照的に、リリスはあまりにも日常的で、しかし非日常的な存在だった。


「私は、この近くにある『ユートピアの庭』というカフェのメイドでございます。お客様たちの熱気に惹かれて、つい、お邪魔してしまいました」


リリスは、深々と頭を下げた。その礼儀正しさに、ミカは反論の言葉を失った。啓介は、微笑みを浮かべた。彼は、このメイドの登場が、何らかの「意図」を持っていることを直感していた。彼女の言葉や振る舞いには、単なるカフェの店員という以上の、知的な何かを感じさせた。


「あなた方の議論、大変興味深く拝聴しておりました。真実とは何か。本質とは何か。私たちが生きるこの情報社会において、それは最も重要な問いかけでございます」


リリスは、二人の間にトレイを差し出した。啓介はカップを一つ取り、ミカも躊躇しながらもう一つのカップを取った。カップの温かさが、掌からじんわりと伝わってくる。一口飲むと、深煎り豆特有の苦味と、微かな酸味が口の中に広がり、その後にまろやかなコクが残る。それは、これまで啓介が飲んできた、会社のコーヒーサーバーから出る無機質な味とは、全く異なるものだった。胃の奥から、温かいものがじんわりと広がり、全身に染み渡る。


「私のカフェでは、『本物の体験』を提供することを目標としております。デジタルデバイスから離れ、五感を解放し、人間本来の感覚を取り戻す。それは、もしかしたら、あなた方が探していらっしゃる『本質』に通じるものがあるのかもしれません」


リリスは、そう言って、啓介とミカの目を交互に見た。その瞳の奥には、どこか挑戦的な光が宿っていた。彼女の言葉は、まるで啓介とミカの議論を、さらに深い次元へと誘おうとしているかのようだった。そして、彼女の心の中では、ある「計画」が着々と進行していた。それは、この都会の真ん中で、人々の意識を覚醒させる、壮大なプロジェクトだった。


リリスは、この二人の人物──馬に乗る会社員と甲冑のアイドル──の出現を、偶然とは捉えていなかった。むしろ、彼女の計画にとって、彼らは完璧な「材料」となるだろうと確信していた。彼女の脳裏には、複雑なアルゴリズムが、まるで光の粒子のように高速で巡っていた。人々が、真の「本質」と出会うための、新たなプラットフォーム。その構想が、具体的な形を帯び始めていた。

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