【小説】都市のパラドクス
文人 画人【人の心の「穴」を埋める】
第1章─── 丸の内の騎行
東京の空は、この時期特有の、薄いヴェールをかけたような白銀色をしていた。早朝の冷気が、高層ビルの間に吹き荒れる風となって、地上の人間を容赦なく撫でる。まだ日差しは弱く、磨き上げられたガラスの壁面には、夜明け前の残光が歪んで映り込み、現実の景色を未来都市の幻影へと変貌させていた。丸の内のオフィス街。そこは、スーツに身を包んだビジネスパーソンたちが、規則的な鼓動を打つかのように行き交う、巨大な生命体の中枢だ。しかし、今朝は、その秩序だったリズムに、奇妙な不協和音が混じり込んでいた。
石畳に、蹄の音が響く。カッ、コッ、カッ、コッ。硬質なリズムは、アスファルトの上を滑る車のタイヤ音や、遠くで鳴り響く地下鉄の轟音とは明らかに異質な、生命の脈動を感じさせる音だった。視点は、東京駅丸の内駅舎の、赤レンガの壮麗な姿を捉える。その歴史と重厚さに、現代のガラス張りのビル群が対比的に立ち並ぶ光景は、あたかも時間そのものが歪んでいるかのようだ。ゆっくりとズームアウトし、やがてその蹄の音が発する源へとフォーカスが合う。
そこにいたのは、一頭の馬だった。均整の取れた体躯は艶やかな黒色で、朝日を浴びて僅かに青みがかって見える。その鬣は手入れが行き届き、風に揺れるたびに絹のような光沢を放っていた。鞍には、一人の男がまたがっている。四十代半ばだろうか。仕立ての良いネイビーのスーツに、白いシャツ、そして深紅のネクタイ。完璧なまでのビジネススタイルだ。しかし、彼の足元は革靴ではなく、乗馬ブーツに収まっている。手綱を握るその手は、書類を捌く指先とは異なる、鍛え抜かれた力強さを感じさせた。
男の名は、藤原啓介。大手総合商社の戦略企画部に所属する、いわゆる「切れ者」と評される人物だ。だが、彼は通勤に、この愛馬「ナイトフォール」を使っていた。都会の喧騒の中で馬に乗るという、常軌を逸した行為は、彼にとって「自分」を保つための、ある種の儀式だった。アスファルトとコンクリートに囲まれたこの場所で、土と命の匂いを嗅ぎ、風を肌で感じる。それは、デジタル化され、情報が記号化された現代社会において、彼が失われつつある「リアリティ」を取り戻す唯一の方法だった。鼻腔をくすぐるのは、馬の汗と革製品が混じり合った、生命力に満ちた匂い。それに、路肩の植え込みから漂う、わずかに青い草木の匂いが加わる。
「今日も、最高の朝だ、ナイトフォール」
啓介は、誰に聞かせるでもなく呟いた。ナイトフォールは、まるでその言葉を理解したかのように、ブルルと鼻を鳴らした。彼の視線は、行き交う人々を捉えていた。誰もがスマートフォンを片手に、俯き加減で歩いている。情報という見えない鎖に繋がれ、まるで集団催眠にかかっているかのようだ。彼らの目には、この朝の光も、風の感触も、馬の蹄の音も、届いているのだろうか。啓介は、彼らの視界に映るものが、本当に「現実」なのかと疑うことがあった。
彼の脳裏には、先週の会議の光景が蘇る。仮想空間におけるメタバース事業の戦略会議。膨大なデータと予測モデルが提示され、未来の消費行動がシミュレーションされる。全てが数値化され、最適化された世界。そこには、顧客の感情や、製品の「匂い」や「手触り」といった、五感でしか捉えられない要素が欠落していた。だが、会議室の人間は、誰もそのことに疑問を抱かない。それが「効率」であり、「進化」だと信じて疑わない。啓介は、そのことに、言いようのない違和感を覚えていた。
彼が目指すのは、丸の内にある自社の高層ビルだった。ビルの足元には、広々としたペデストリアンデッキが広がり、季節の花々が植えられたプランターが並んでいる。その一角に、会社の専用駐馬場があるのだ。都会のど真ん中に駐馬場。それもまた、彼の「非常識」へのこだわりだった。そこからエレベーターで最上階のオフィスへと向かう。彼の行動は、まさにパラドクスそのものだ。
ちょうどそのとき、彼の視界に、異様な集団が飛び込んできた。
前方から、ざわめきと共に現れたのは、光り輝く金属の塊だった。最初は、何かのイベントのパレードかと思った。しかし、それは違った。
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