第17話:迷宮の終着点を探して
「この迷宮に、終わりはあるのか?」
ある夜、俺はカイにそう訊いた。
なんの前触れもない質問だった。
でも、その疑問はずっと胸のどこかに沈んでいたものだ。
カイはいつものようにクローゼットの前で、微笑を浮かべていた。
「終わり、ですか?」
「うん。俺たち、ずっと歩いてるけどさ。行けば行くほど新しい階層が現れて、果てがないっていうか……。でも、もし“終点”ってのがあるなら、そこに何があるのか見てみたい」
カイは一瞬黙り、それからゆっくりと首を縦に振った。
「そうですね。確かに、私にもその答えはありません」
「お前でも分からないのか」
「ええ。私はこの迷宮の主ではありますが、全能ではありません。迷宮とは“可能性”の集合体。思念と記憶、そして意志が交錯する場所です。私が形を与えたとはいえ、その深奥は自らを変え続ける」
「なら、行って確かめるしかないな」
俺は笑ってそう言った。
カイもまた、笑みを返してくれた。
*
その日、俺たちは迷宮の最深層へ向かって歩き始めた。
すでに知っている階層、たとえば“共鳴の回廊”や“願いの間”は通り過ぎる。
記憶の園も、心核の間も、すでに一度は踏破した場所だ。
俺とカイはそれらを迷いなく通過し、より深く、より未知の場所へと足を踏み入れていく。
途中、景色が歪んだ。
壁が凍てつくような白に変わり、足元が砂のようにサラサラと崩れていく。
歩くたびに、足音が鳴らない。
耳鳴りのような低音だけが遠くで鳴っていた。
「ここは……?」
「“終点を望む者が通る通路”と呼ばれています」
「誰が名付けたんだ、それ」
「迷宮自身です」
迷宮が、自分で通路に名前をつける。
そんな話が自然に思えてきている自分に、少しだけ笑った。
*
先へ進むにつれ、風景はますます現実離れしていった。
左右に見えるものはもはや“壁”ではなく、“記憶の海”だった。
水ではない、ただの空気のようでいて、無数の声や映像が浮かんでは消えていく。
「これ……誰の記憶だ?」
「分かりません。私かもしれないし、あなたかもしれない。あるいは、まだ出会っていない誰かのものかもしれない」
「気が遠くなるな」
「でも、きっとあなたは辿り着けます」
「お前は信じすぎなんだよ、俺のこと」
「いいえ。適切に信頼しているだけです」
俺はため息交じりに笑った。
それでも、嬉しかった。
*
気がつけば、床が消えていた。
でも落ちることはない。
俺とカイは、空中にただ“立って”いた。
下も上も分からない。
重力が失われた空間。
それでも足の裏には確かな“何か”を感じていた。
「これ、立ってるのか?」
「はい。存在の支点に立っています」
「存在の……なに?」
「この空間では、物理法則は存在より優先されます。あなたが“立っている”と認識している限り、それは立っているのです」
「なんだよそれ、哲学かよ」
カイは小さく笑った。
*
やがて、遠くに“光”が見えた。
ぼんやりと、漂うような白。
けれど、それは確かに“向こう側”だった。
「行くか」
「はい」
俺たちはその光に向かって、歩みを進める。
歩くたびに空間が揺れ、景色が反転し、俺の記憶が脳裏に映る。
小学校の教室、母親の背中、コンビニで立ち尽くす夜の自分。
それらがカイにも伝わっている気がした。
「これは……」
「あなたの心が開いている証拠です。迷宮は共鳴しますから」
「恥ずかしいな」
「でも、嬉しいです」
そう言って、カイは俺の手を握った。
*
光に触れた瞬間、世界が反転した。
上下左右の感覚が崩れ、足元がひっくり返る。
次の瞬間、俺たちは“部屋”にいた。
どこかで見たことのある、でも知らない部屋。
木製の机と本棚、観葉植物。
壁には小さな時計がかかっている。
窓の外には、星空。
「ここは……?」
「“終点の部屋”です」
カイが静かに言った。
「この迷宮の最奥。ここより先は存在しません」
「本当に、終わりなんだな」
「ええ。ですが……」
「ん?」
「この部屋は、終わりであり、始まりでもあります」
俺は黙って待つ。
カイが言葉を選ぶように口を開いた。
「この部屋で願ったことは、迷宮の新たな核として世界に刻まれます。
あなたがここで選ぶことが、迷宮そのものを形作る」
「俺が、形作る?」
「はい。あなたはこの迷宮の旅人であり、共鳴者です。
私だけでは見つけられなかった“可能性”を、この場所に残せる唯一の存在」
「……なんだよそれ、責任重すぎだろ」
「ですが、あなたなら」
「お前はそればっかりだな」
「ええ。だって私はあなたを信じていますから」
カイの声に、震えはなかった。
ただ、真っ直ぐに俺を見ていた。
その目があまりにも綺麗で、まっすぐで、
思わず俺は、視線を逸らした。
「……だったら」
俺は机の上にあった“白紙の本”を開いた。
「一緒に歩く。お前と、これからもずっと」
そう書いた。
迷いはなかった。
その文字が浮かび上がり、光となって空中に舞い上がる。
そして、部屋が震えた。
迷宮が“新しい始まり”を得た合図だった。
*
「ありがとう、佐藤さん」
カイの声が震えていた。
俺はその手を取り、優しく引き寄せる。
「お前こそ、ありがとうな」
「これで、私も……ずっと、あなたと……」
言葉にならない想いが、迷宮全体に満ちていくようだった。
クローゼットが、静かに開いた。
戻ろう。
この世界から始まる、次の物語へ。
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