第12話:境界を超えて
迷宮を歩く時間が、ますます増えていった。
大学の授業やバイトがない日は、ほとんどカイと一緒に迷宮の中にいた。
最初はこんな風になるなんて想像もできなかった。
ただ隣に変な奴が越してきて、そいつが実はダンジョンマスターで、俺は嫌々巻き込まれた被害者で。
でも今はもう、そんな気持ちはほとんどなくなっていた。
むしろ、ここに来ることが自然だった。
この冷たく澄んだ空気、湿った石の匂い、微かな魔力の流れを感じると、ほっとする。
「慣れましたね」
歩きながらカイがぽつりと言った。
「何が」
「この世界に。迷宮に。私に」
「……そうかもな」
思わず苦笑した。
俺は変わったのだ。間違いなく。
*
その日は、これまでと違う道を選んだ。
カイがそう提案したのだ。
「今日は少し違うルートを辿ってみましょう」
「違うって?」
「これまで通ってきた階層とは性質が異なります。ですが、貴方なら大丈夫でしょう」
「ずいぶん信用してくれるな」
「当然です。貴方は既に、普通の人間ではありませんから」
サラッと怖いこと言うな。
でも、否定できない自分がいた。
*
進んだ先は、これまでの階層とはまるで空気が違った。
壁は滑らかな灰色の金属で、そこに微細な光の線が縦横無尽に走っている。
まるで神経網のようだ。
床は黒曜石に似たガラス質で、歩くたびに小さく軋む音がした。
そして、空気そのものが振動している。
「ここは……?」
「第六階層、“共鳴の回廊”です」
「共鳴?」
「ここは精神の波長が迷宮に直接反映されます。思考や感情が強ければ強いほど、迷宮はそれに応える」
「……例えば?」
「強い恐怖を抱けば、壁が牙を生やして襲いかかってくる。
逆に、穏やかな心を持てば、迷宮は静かに貴方を通す」
「随分と感情的なダンジョンだな……」
「迷宮とは元々、意思を持った存在です。私が管理していますが、その基盤には生の意志があります」
つまり、生き物ってことか。
少し息を整えて歩き出す。
なるべく落ち着こう。
迷宮に無駄な刺激を与えないように。
*
途中で、壁に触れてみた。
金属のような冷たさを想像していたが、指先に伝わったのは妙に柔らかい弾力。
それが心臓の鼓動に合わせて脈打っている。
「……気持ち悪いな」
「その感想を抱いた時点で、少し壁が応えましたよ」
「は?」
見ると、指を置いた場所がほんの少し盛り上がり、脈動が早まっていた。
「下手なこと考えないほうがいいですね」
「おい、もっと早く言え!」
カイは微かに笑ったような顔をした。
「大丈夫です。私が隣にいますから」
その言葉に、不思議と安心した。
*
進んだ先に、小さな広間のような場所があった。
中央には光る水晶柱が立っており、その中に霧のようなものがゆっくり渦巻いている。
「これは?」
「共鳴の核です。この階層の中心部。触れてみますか?」
「……いいのか?」
「ここまで来た貴方なら、問題ありません」
恐る恐る手を伸ばし、水晶に触れた。
途端に意識が引き込まれ、目の前に広がる光景が変わった。
気づけば、どこか見知らぬ草原に立っていた。
空は茜色。草が風にそよぎ、小さな花がそこかしこに咲いている。
遠くには塔が見えた。白く細い、美しい塔。
「ここは……?」
「私の故郷です」
横を見ると、カイがいた。
スーツ姿のまま、少しだけ遠い目をして草原を見つめている。
「貴方の心がここを映したのです。貴方が私を強く思ったから」
「……そっか」
言葉にならなかった。
ただ、こうして二人で同じ場所を見ていることが、妙に嬉しかった。
*
やがて視界が揺れ、水晶のある広間に戻った。
指先が冷たく、少し汗ばんでいた。
「これが、共鳴……」
「ええ。貴方は私の記憶を少しだけ覗きましたね」
「悪いか?」
「いえ。むしろ、誇らしいです」
カイがそう言ったとき、珍しく表情が柔らかく見えた。
この魔王がこんな顔をするなんて、最初に会った頃は想像もできなかった。
*
帰り道、クローゼットへ戻る途中。
ふと、壁の奥から囁くような声が聞こえた。
(……なおと……)
思わず立ち止まる。
「どうしました?」
「いや……なんでもない」
多分、あれも迷宮の反響だ。
でも、少しだけ懐かしい声に似ていた。
部屋に戻ると、いつもの六畳一間がやけに狭く感じた。
それでも窓からの風は心地よく、布団の匂いは現実そのものだった。
「境界、か……」
あの迷宮と、ここ。
どちらも俺にとってもう“世界”だった。
どちらにもカイがいて、どちらも俺の居場所で。
きっと、これから先もそうなんだろう。
そう思いながら、俺は静かに目を閉じた。
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