第12話:境界を超えて

 


迷宮を歩く時間が、ますます増えていった。


大学の授業やバイトがない日は、ほとんどカイと一緒に迷宮の中にいた。


最初はこんな風になるなんて想像もできなかった。

ただ隣に変な奴が越してきて、そいつが実はダンジョンマスターで、俺は嫌々巻き込まれた被害者で。


でも今はもう、そんな気持ちはほとんどなくなっていた。


むしろ、ここに来ることが自然だった。


この冷たく澄んだ空気、湿った石の匂い、微かな魔力の流れを感じると、ほっとする。


「慣れましたね」


歩きながらカイがぽつりと言った。


「何が」


「この世界に。迷宮に。私に」


「……そうかもな」


思わず苦笑した。


俺は変わったのだ。間違いなく。


 



 


その日は、これまでと違う道を選んだ。


カイがそう提案したのだ。


「今日は少し違うルートを辿ってみましょう」


「違うって?」


「これまで通ってきた階層とは性質が異なります。ですが、貴方なら大丈夫でしょう」


「ずいぶん信用してくれるな」


「当然です。貴方は既に、普通の人間ではありませんから」


サラッと怖いこと言うな。


でも、否定できない自分がいた。


 



 


進んだ先は、これまでの階層とはまるで空気が違った。


壁は滑らかな灰色の金属で、そこに微細な光の線が縦横無尽に走っている。

まるで神経網のようだ。


床は黒曜石に似たガラス質で、歩くたびに小さく軋む音がした。


そして、空気そのものが振動している。


「ここは……?」


「第六階層、“共鳴の回廊”です」


「共鳴?」


「ここは精神の波長が迷宮に直接反映されます。思考や感情が強ければ強いほど、迷宮はそれに応える」


「……例えば?」


「強い恐怖を抱けば、壁が牙を生やして襲いかかってくる。

逆に、穏やかな心を持てば、迷宮は静かに貴方を通す」


「随分と感情的なダンジョンだな……」


「迷宮とは元々、意思を持った存在です。私が管理していますが、その基盤には生の意志があります」


つまり、生き物ってことか。


少し息を整えて歩き出す。


なるべく落ち着こう。

迷宮に無駄な刺激を与えないように。


 



 


途中で、壁に触れてみた。


金属のような冷たさを想像していたが、指先に伝わったのは妙に柔らかい弾力。


それが心臓の鼓動に合わせて脈打っている。


「……気持ち悪いな」


「その感想を抱いた時点で、少し壁が応えましたよ」


「は?」


見ると、指を置いた場所がほんの少し盛り上がり、脈動が早まっていた。


「下手なこと考えないほうがいいですね」


「おい、もっと早く言え!」


カイは微かに笑ったような顔をした。


「大丈夫です。私が隣にいますから」


その言葉に、不思議と安心した。


 



 


進んだ先に、小さな広間のような場所があった。


中央には光る水晶柱が立っており、その中に霧のようなものがゆっくり渦巻いている。


「これは?」


「共鳴の核です。この階層の中心部。触れてみますか?」


「……いいのか?」


「ここまで来た貴方なら、問題ありません」


恐る恐る手を伸ばし、水晶に触れた。


途端に意識が引き込まれ、目の前に広がる光景が変わった。


 


気づけば、どこか見知らぬ草原に立っていた。


空は茜色。草が風にそよぎ、小さな花がそこかしこに咲いている。


遠くには塔が見えた。白く細い、美しい塔。


「ここは……?」


「私の故郷です」


横を見ると、カイがいた。


スーツ姿のまま、少しだけ遠い目をして草原を見つめている。


「貴方の心がここを映したのです。貴方が私を強く思ったから」


「……そっか」


言葉にならなかった。


ただ、こうして二人で同じ場所を見ていることが、妙に嬉しかった。


 



 


やがて視界が揺れ、水晶のある広間に戻った。


指先が冷たく、少し汗ばんでいた。


「これが、共鳴……」


「ええ。貴方は私の記憶を少しだけ覗きましたね」


「悪いか?」


「いえ。むしろ、誇らしいです」


カイがそう言ったとき、珍しく表情が柔らかく見えた。


この魔王がこんな顔をするなんて、最初に会った頃は想像もできなかった。


 



 


帰り道、クローゼットへ戻る途中。


ふと、壁の奥から囁くような声が聞こえた。


(……なおと……)


思わず立ち止まる。


「どうしました?」


「いや……なんでもない」


多分、あれも迷宮の反響だ。


でも、少しだけ懐かしい声に似ていた。


 


部屋に戻ると、いつもの六畳一間がやけに狭く感じた。


それでも窓からの風は心地よく、布団の匂いは現実そのものだった。


「境界、か……」


あの迷宮と、ここ。

どちらも俺にとってもう“世界”だった。


どちらにもカイがいて、どちらも俺の居場所で。


きっと、これから先もそうなんだろう。


そう思いながら、俺は静かに目を閉じた。


 


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