失楽園

第1話:出会い

 春。

 命が芽吹く季節だ。桜が窓の外で咲いている。

 来週の金曜日までに提出するように。先生の抑揚ある声色が教室に響き、無意識に逸らしていた意識を机に戻す。配られたプリントは、何度見ても空欄のままだった。

「はあ……」

 ホームルームの後。喧噪の中で一人座ったまま軽く項垂れる。進路希望調査票の記入を余儀なくされる高校三年生、清水麗華は路頭に迷っていた。

「やっぱり就職かなあ……」

 ぽつりと呟いた独り言は誰に聞かれるでもなく霧散する。同級生の仲でも進路に関する話で持ちきりだ。友達同士で志望校の話をしていて、夢のまた夢な世界だと感じられた。

 清水麗華の家庭環境は決していいものではなかった。父は麗華が中学生の時に仕事を辞め、亡くなった親の資産で遊んで暮らしていくのだと豪語した。ろくに職にも就かず、毎日酒を飲んでパチンコばかりの父に母も麗華も反発した。それでもやめなかった。

 結果、脳卒中で倒れた。一命は取りとめたものの、その後はうつ病と認知症を発症して要介護状態になってしまった。

 なんとも酷な話だと思う。お金は父が使い果たし母の貯金を切り崩すことになったが、今ではそれでも足りないのだ。麗華もバイトをして何とか生活が出来ている。

 そんな家庭のことを考えれば、進学は視野になかった。父の介護をしながら母が朝から夜まで身を粉にして働いている姿が、目蓋の裏側に映し出される。

 気の強い母が初めて目の前で泣いたことがある。楽させてやれなくてごめんと。麗華はそんな母の姿を痛ましく思っていた。奨学金を借りてまで進学なんかしない、そんなことよりも母を助けなければ。

 キーンコーンカーンコーン。

学校のチャイムが鳴る。下校のタイミングだ。考え事に耽って、もうそんなに経っていたのかと気付く頃には、教室の空気が一斉に動き出していた。椅子を引く音、笑い声、ドアの開閉。それと裏腹に麗華の足取りは鉛のように重い。プリントを半分に折り、教科書の間に押し込んで、ようやく席を立った。

「それじゃ私はバイトに行くね」

 友達に挨拶すると廊下に出て昇降口に向かう道すがら、差し込む夕暮れが麗華の面輪を照らして、眩しそうに目を細める。この世は酷く不条理だと感じられた。

 笑っても嘆いても明日はやってくる。

 お腹が空く。眠くなる。学校がある。授業がある。父の介護がある。家事がある。バイトがある。麗華の日常は、代わり映えのない毎日の繰り返しだ。

 西日を照らす舗道を通り過ぎて、街路の道を歩く。向かう先は「ニコット」という麗華のバイト先で、古き良き喫茶店だ。着替えの服と制服が入ったカバンを肩にかけなおす。

「清水です、おはようございます」

「ああ、清水さんおはよう。今日もよろしく頼むよ」

 裏口から入ってスタッフルームへ。店長へ挨拶と会釈を済ませ、着替え始める。不思議とバイトの時間は苦ではない。何も考えずにいられるからだ。

 店内の穏やかな静けさに、コーヒーの芳しい香りが鼻腔を擽る。この店は店長のこだわりでトラジャという豆を使っている。味わいがさっぱりして、飲みやすいのが特徴だ。

 いつもの時間。いつもの制服。カウンターの奥でエプロンを結びながら、麗華はちらりとフロアを見渡しながら小首を傾げる。

「いつもなら来ていると思ったんだけれど…」

 いつも店の奥の席で、文庫本を開いている男の子の姿を思い出す。

 会話をしたことはないが、少し長い薄桃の髪の毛がまとめられ、口元にホクロがあるのが特徴的な男の子。長身でなければ女性と見間違えてしまいそうになる美丈夫だ。

 彼が最後に来店したときに読んでいたのは、なにやら分厚い文庫本。タイトルは見えなかったが、表紙に描かれた古い絵画のような装丁が妙に印象に残っている。

「はい、はい、かしこまりました。ではすぐにお持ちしますね」

 フロアに向かいお客さんの対応をすませてコーヒーの準備をしていたとき、カラン、とドアベルの音が鳴って、例の男の子の姿が見えた。

「いらっしゃいませ」

 柔らかな笑みを浮かべて会釈をする。

「こんにちは、その」

「いつもの席でしたら空いていますよ」

 男の子は虚を突かれたように目を丸くして、たじろいだ。けれどすぐに軽く頷いて「お気遣いありがとうございます」と、左頬を搔きながら低く落ち着いた声で応えた。

「ご注文は、どうなさいますか?」

「えっと、アイスコーヒーを一つお願いします」

「かしこまりました」

 カウンターの奥からふとフロアを見ると、彼はすでにあの分厚い文庫本を開いていた。あの装丁は、どこかで見たことがある気がする。そう思いながら、カップにアイスコーヒーを注ぎ、ガムシロップとミルクをトレーに乗せて持っていく。

「あ、ありがとうございます」

 テーブルにアイスコーヒーを置くと、丁寧に顔を上げてお礼を言う彼に聞いてみることにしてみた。

「本を読むの、本当にお好きなんですね」

「え、あはは。さすがに居座りすぎですかね」

 少しばかり緊張している様子に麗華は小さく笑った。

「いいえ、ニコットはお客様がゆっくり過ごせることが第一ですから」

「そう言ってもらえて助かります…」

「ところで、今読まれてるのはなんていうタイトルなんですか?」

 装丁を見るとやはり古い絵画が描かれていて歴史、中世ヨーロッパ辺りだろうかと推察する。彼は少し驚いたように顔を上げたが、すぐに口元を緩めて答えた。

「失楽園。ジョン・ミルトンの詩です」

「しつらくえん……詩、なんですか?」

 詩といえば短編集のイメージが強い。ここまで分厚い詩があるのだろうか。

「はい。長編叙事詩です。天使が天から堕ちて、それでもなお美しいって描かれる話で。人間の罪と自由のことを考えさせられる詩が描かれてるんです」

「………難しそうですね」

 陳腐な答えしか出なかった。堕ちた後にも、美しさがある──。いかにも難しそうな内容だ。堕ちたら滅びるだけ、そんな気がするのに。彼の言葉は不思議と温もりを感じた。

「俺も最初は難しそう…って思ってたんですが、いざ読んでみると面白くて」

 彼は首を横に振る。微かに緊張が解れたのか、眦を下げて柔らかく微笑んでくれる。

「お姉さんは本読まれたりするんですか?」

「いやあまり読んだことなくて…でも興味が出てきたので買って読んでみようかなと」

「あ、それなら、その、良かったらお貸ししましょうか?俺は何度も読んでるので」

「え?そうなんです!?」

 思わず素っ頓狂な声が漏れる。途端、他のお客さんからの視線を感じて、すぐに縮こまるように肩を丸めた。恥ずかしい。

「ふふ、はい。あ、その、変なこと聞くかもしれませんけど」

「なんですか?」

 オーダー表を持つ手がふと止まる。

「お姉さんの、お名前…教えてもらってもいいですか?俺、青葉瑞生っていいます」

 目の前の青年──瑞生は、どこか申し訳なさそうに、けれど真剣な眼差しでこちらを見ていた。一瞬、答えるか迷った。けれど、その瞳には下心も冗談もなかった。

「……清水、麗華です」

 名乗った瞬間、口の中に微かな熱が広がる。瑞生はどこか嬉しそうに小さく微笑んだ。


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失楽園 @laviyua

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