【第七章:枝葉理葩】三節
私の中に泥のような感情が育ち始めて、更に一ヶ月が経った。
退院した私は、松葉杖をつきながら学校へ通う日々を送り始めている。
その日々は、入院する前に送っていた日々と、全く同じとはいかなかった。
翼とお姉ちゃんと一緒に学校へ行って、帰りも三人でわざわざ待ち合わせして、一緒に帰る。
本当なら、あの頃と何も変わらない、そんな幸福な時間に帰ってきた……はずだった。
でも私は変わってしまった。それは潰れた右目や動かない右足のことではなく、
──悪夢は……あの日から毎日のように見ていた。
迫りくる恐怖に怯え、絶叫と共に深夜に跳び起きる日々を繰り返す。そうしている内に、だんだんと悪夢と現実の区別が曖昧になる。
そして、目に映る世界が虚ろに感じ始める。
今私が生きている世界は、暗くて、怖くて、冷たい。まるで、悪魔のような黒い影が、ずっと私の背後にいて、私の背中を見つめている気分。
それはきっと、翼やお姉ちゃんが見ている世界とは違う。きっと二人が見ている世界は、明るくて、楽しくて、温かいはずだから。
翼の笑顔はいつだって眩しい。でも私は、翼の笑顔を見ながら、どこかそれを
だから私は、冷めた心を二人に悟られないように、仮面を被って生活していた。でもそれは、二人に対する裏切り行為にも感じてしまう。だから私の心が、二人から離れていく感覚が、跡を引く。
そして切り離された心に……黒い影が寄り添ってくる。
なぜこんなにも冴華の存在を感じるのか。その理由は簡単だ。
私がこんな身体になったのは、冴華のせいだからだ。
◇◆◇◆◇◆
あの日――翼と一緒に帰った日のことだ。
お姉ちゃんは委員会の仕事が忙しかったせいで、私は翼と二人きりで帰路についていた。たしか翼とは、午前中に見ようと予定していた映画について話していた気がする。
……楽しい時間だった。
翼の温もりを感じる距離感。目に映る全てがキラキラして、幸せが胸を満たしていた。
そして翼の方が先に家に着いたから、そこでお別れして、私が一人になったタイミングだった。
人気の少ない道を進んでいると、夕日を背にした黒い影が、こっちを見て佇んでいることに気付く。
その影を見た瞬間、私の身体は凍りついたように動けなくなる。なぜなら、その人影の正体を知っていたから。
「やっと……見つけた」
その人――御影冴華は、私を見て、歯茎を見せるように笑った。顔を傾け、舐めるように私の全身に視線を這わせる。
凍るような記憶が蘇る。
冷たい床の上に倒れている私を見下ろす、あの刃のような鋭い瞳を。
冴華が一歩、私に近づく。
「ねぇ……どうしてお姉ちゃんの前からいなくなったの? 理葩」
久しぶりに聞いた姉の声に、私は恐怖で竦んでしまう。奥歯がカチカチと震え、背中に悪寒が走る。
動悸が激しくなり、呼吸が浅くなる。無意識に服の裾を掴んでいた。
――逃げろっ! 早くっ!
頭では危険な状況だと理解していても、身体が言うことを聞かない。
さらに一歩、冴華が距離を詰める。
「お姉ちゃんね、沢山考えたんだよ。どうして理葩は、私から離れたんだろうって。私の何がいけなかったんだろうって」
冴華が一歩、私との距離を詰める。もう彼女は目と鼻の先まで迫っている。
「でもわからなかったわ。だって、私には悪いところなんて一つもなかったから。そうでしょ? 悪いのは私じゃなくて、あのクソみたいな親だったんでしょ?」
私の……本当の親。
――ドクンッ。
心臓が跳ね上がる。
その瞬間、心の奥深くに埋めたはずのトラウマが、掘り起こされる。
「でも安心して。もうあのクソどもはいないわ。私がこの世界から消したからっ!」
「……消した?」
思わず聞き返していた。私が反応したことが嬉しかったのか、冴華はより饒舌に、満足気に語り始めた。
「そうよッ! アイツらは理葩の親として相応しくなかった! だって毎日のように理葩を殴って、蹴とばして、罵倒したでしょ!? でもそれは、私だけの特権なのに! 姉である私にだけ許された愛情表現だったのに! ……だから理葩が家出した後、殺してやったの」
私は息を呑んだ。あんなクソ親なんて死んでしまえと思っていたけど、本当に死ぬとは思ってなかったからだ。しかも、その犯人が冴華だなんて。
くっくっくと、冴華は腹を抱えて笑い始めた。
「あははははっ! あー可笑しい。でも待って、まだ続きがあるの。……どうして今になって会いに来たと思う? 三年間、私は何をしてたと思う?」
そんな話、聞きたくもない。でも冴華は構わず言葉を続けた。
「実はね、理葩の新しい親になる人を探してたの!」
「新しい……親?」
何を言ってるんだ、この女は。新しい親? 意味がわからない。
「そうっ! だってなんのサプライズもなく、理葩を迎えに行くことなんてできないでしょ? だから、理葩にふさわしい人をずっと探してたの。……お姉ちゃん、頑張ったのよ? いろんな男の家に行って、一緒に過ごしては離れてを繰り返してね」
いろんな男の家に行った。その言葉が意味するものがなにか、想像に難くない。
「そしてついに見つけたの! 新しい、私と理葩の親になってくれる人を! だから迎えに来たの。これでやっと、家族に戻れるって思ったから!」
もうこの人は、私の姉ではなかった。今、目の前にいるのは――怪物だ。
恐怖を通り越して、深淵そのものを見つめているような、言葉で表現することができないほどの闇が、そこにはあった。
私が覚えている、一番古い記憶の冴華は、こんなんじゃなかったのに。
でも狂気的に笑っていた冴華が、突如その顔を曇らせる。
「……それなのに。それなのにッ!」
「――ッ!?」
それは一瞬だった。突然、冴華が私に向かって駆ける。反応が遅れた私は、彼女に腕を掴まれ、地面に押し倒されてしまった。
そして彼女が、私に馬乗りになる。鬼の形相で、怒りを孕んだ瞳で。私を見下ろす。
「なに? 枝葉って」
冴華が、今の私の苗字を呼ぶ。私を見下ろす彼女の声は、どす黒く、そして重たかった。氷のように冷たい視線が、私の目を捕らえて離さない。
――殺される!
……そう思った瞬間、恐怖が一気に押し寄せた。
「――っく!」
なんとか脱出しようともがいたけど、両腕が冴華の足に挟まれているせいで、思ったように身動きが取れない。
「あなたの名前は
冴華が拳を握りしめ、振り上げる。その目は血走り、我を忘れているように見えた。
「や……やめ――」
制止の声を無視して、冴華の拳は振り下ろされた。
――拳が頬骨を叩く、鈍い音が響く。目の前がチカチカして、意識が飛びそうになる。
「なんでお姉ちゃんの所に帰ってこなかったのッ!?」
反対の頬を、同じように殴られた。
もはや痛みより、飛びそうになる意識を留めるだけで精一杯だ。
「なんで私じゃなくて、新しい家族を作ったのッ!?」
再び鈍い音が響く。口の中が切れたのか、血の味を感じる。
もう冴華が何を言っているのか、聞き取れなかった。
「なんで私じゃダメなのッ!? お姉ちゃん、沢山頑張ったのよッ!? 理葩が帰ってこれる場所を作るためにッ!!」
冴華の拳は止まらない。暴力と共に私への想いを吐き出すけれど、私はその声を受け入れる余裕はない。
何度も何度も、彼女は私を
まだ、冴華はなにか叫んでいる。
――早く……この時間が終わらないかな。
まるでテレビの電源を切るように、そこから先は、プツンと途切れてしまった。
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