漂流
鼻の奥を水気が鈍く刺す感覚に、俺は目を開いた。薪の火は消えていたが、燃えさしには焼け残った部分もある。今まさに砂漠を覆っている霧で湿気ったのだろう。かろうじて空は見えるが、日もまだ昇っていない。幸いなことに、鳴子の術の様子を見る限りでは俺達に近づいた者はいなかった。俺はつい癖でメダイオを足で小突いて起こそうとしたが、つま先が触れる前に止める。いつまでも軍人気取りでいるつもりはなかったが、久々の夜番だったのが災いしていた。
俺はため息を付くと、メダイオを揺り起こした。
「おい、そろそろ起きなさい。移動の時間だ」
メダイオは空元気の術の反動で失った体力がもたらした眠気に抗えず、緊張のままに深く眠ったようである。ひどく寝覚めが悪いようだった。俺は黒パンを眼の前においてやると、移動の準備を始める。フクパナタス砂漠は比較的涼しい部類だったが、昼過ぎになると気温は三十度以上になる。疲労が取れた今、涼しい内に長距離を移動しておきたかった。
「メダイオ、君は相乗りで後ろになったことは?」
黒パンをもそもそとやっていたメダイオは片眉を上げると、不服そうに答える。
「まさか。女子供じゃあるまいし」
昨晩に比べると幼気な口調だったが、これが本来の彼の声なのだろう。あまり心を開いてもらっても困るのだが、指摘する気もなかった。俺は「解った」というと、コブナシラクダのコブを固定する器具を緩めてやる。コブナシラクダはムズがってコブを揺らしたが、よく調教されているのかそれ以上暴れることはなかった。
俺は軍時代に見た騎兵科の連中がコルドロンやトイボックスを固定するやり方を、記憶をたどりながら懸命に再現しようとした。あのやり方は物資とコルドロンを馬の脇にそれぞれ吊り下げてバランスを取るやり方だったが、コブナシラクダがカバのごとくずんぐりとしていることと、水や栄養素の詰まったコブを移動できる範囲がそう広くないことを除けば概ね似たようなものだろう。どちらも四つ足だし、お誂え向けに荷物も二つだ。もう一つの荷物は後で載せれば良いのだから、これでちょうど良い塩梅になる。俺はそう思ったが、不格好ながらもコルドロンとコブを固定するのに三十分ほどかかった。
「さあ、出るぞ」
俺がメダイオに呼びかけると、彼は暇を持て余したのだろう。メダイオは薄っすらと茜の滲んでいく東の空を眺めて、物思いにふけっていた。「どうした」と俺が尋ねると、メダイオは未だ夢現といった様子で「俺は向こうに行くんだなと思って」と寂しげな目をする。俺は呆れてメダイオを俵に担ぐと、コブナシラクダの尻に座らせた。抗議しながらも困惑するメダイオに俺は手に握った砂をリソースとして金縛りの術をかけ、彼が固まっている間に縄で手早くコブナシラクダに固定した。
金縛りの効果はすぐに無くなり「何をするんです」と抗議するメダイオだったが、俺が「慣れない二人乗りで君を落としても面倒だ。前に座らせるつもりもないからな。あまり暴れると酔うぞ」と諭すと、頬を赤くして目を逸らした。良い歳の男が行う仕草ではなかったが、知り合いを一度になくした者にはよくある、過剰な日常表現である。俺は生暖かい目で見守ったが、この視線はメダイオの羞恥を更に煽るだけだったようで、出発してからしばらくはメダイオが口を開くことはなかった。最も、日中の砂漠で無駄話をするような愚か者でもないようだったが。
結局その日はコルドロンを励起状態にしたままの旅を続けたが、襲撃者の影はなかった。昼過ぎまでに襲撃者がなかったことで、俺は襲撃者の目的がメダイオの捕獲に絞られていることを確信した。荷物のある状態では退却よりは突破がまだ楽ではあるが、相手の姿が見えないという意味では荷物の精神的なケアが面倒でもある。
俺は背負い込んだ面倒事に心中ため息を吐きながらも、粛々と夜支度をした。メダイオは初日よりは気力を取り戻したようだったが、別の精神的疲弊の痕跡が見えている。俺はこっそりと精神抑制の術をかけてやったが、かけてから自分で驚いた。俺がメダイオにそこまでの世話を焼いてやる義理もないはずだったが、半ば無意識に俺はメダイオを気遣っているように見えた。おそらく、メダイオが自律行動できなくなれば面倒が増えるとの合理的判断が気遣いと錯覚されたのだろう。俺は馬鹿げた想像をコルドロン内に蓄えた元素を一部炎に変えることで頭から追い出した。メダイオが敵襲かと片をはねさせるのを見て、俺は黒パンをその炎で炙ることで誤魔化した。焼いた黒パンは多少マシな味だったが、具材とスパイスを挟んでみてもやはり味気なかった。
「俺を助けたせいで、足止めして申し訳ない」
呟くようなメダイオの言葉に俺は疑問を感じた。精神抑制をかけてやった人間にしては、この発言は妙に陰気だったからだ。俺の疑問をよそにメダイオは続ける。
「本当なら二日もあれば横断できる砂漠を、二泊もさせてしまって」
「そう思うなら、メダイオの責務を全うするんだな」
俺はメダイオの魔術的気配を探りながら気もそぞろに答えた。術の効きが悪い理由が彼の霊的な素養にあるのではないかと考えたからだ。思えば、メダイオと呼ばれる者をよく観察したのはこれが初めてである。軍学校の研修で護衛に加わった時期もあったが、研修生が近づけるわけもなく。そもそも本来の護衛すら彼らの住む『館』の内外で隔てられているのが常だった。
俺の好奇の視線をメダイオは責められているように感じたようである。うつむくと、黙り込んでしまった。すると、ごく僅かな霊的ゆらぎを感じる。人間が感情を動かす際には多かれ少なかれ霊的に揺らぐものだが、メダイオの場合はこのゆらぎがダンプされるまでの時間が一般のそれと比べて数倍長かったのだ。おそらくこの残響的性質こそが、メダイオが魔術師でないにも関わらず金貨に対する霊的つながりを持てるカラクリなのだろう。俺は魔術理論を落第スレスレで軍学校を卒業しぐらいだったからそれ以上のことは解らなかったが、精神抑制の効果をこの残響的性質が事実上弱めているのだと見当を付けた。
「まあ気にすることはないさ。私は旅も長い。遅くとも明後日には商都に付くだろう」
俺は内心ため息まじりながらも、メダイオを励ました。精神高揚の術をかけられれば楽なのだが、メダイオの霊的残響性が俺の仮説通りだった場合に鬱陶しいことになりそうだったからである。
「本当ですか?」
気を取り直したように見えるメダイオが俺に訪ねたので、頷いて見せる。すると、メダイオは続けて問いかけた。
「どんな旅をしてきたんです?」
俺は現金なやつめと思ったが、よく考えれば無理もない。サスパナタ・レコン山系は、はるか東の長大なイルテマ・ブルワズ・ミロウ山系から派生して伸びている山地群だ。サスパナタ・レコンの北から来たというのならば、特殊な職業でもない限りはせいぜい冷たい海に雪と岩とツンドラの森、そして夏にわずかに現れる草地程度しか見たことがないだろう。俺は精神高揚の代わりになれば儲けものと、旅の話をしてやることにした。
「そうだな、例えば赤道付近の島、火山島に行ったことがある」
メダイオは興味深げに耳を傾けた。
「あのあたりにはバナナという樹があるんだが、あれの果実は何十と細長い果実が一つに集まって。そうだな、木苺の粒が細長くなったような化け物が樹に生る」
「それで?」
「あれは美味い」
相槌をうったメダイオだったが、俺が話を終えて口をつぐむと徐々に形容しがたい表情になる。しばらく薪の爆ぜる音だけが響いたが、メダイオが恐る恐ると先をねだった。
「続きは?」
俺は困惑した。他に話すべきことがあっただろうか。少し考えてから、俺は話していないことを思い出す。
「緑の内は野菜のようだが、黄色く熟すると甘みが増すんだ」
すべて語り終えると、再び火の鳴き声だけが声を発し続けた。やがてメダイオは思わずといった様子で笑い出す。なにか笑える部分があったかと混乱する俺に、メダイオは言った。
「魔道士どのは土産話以外の土産が必要ですね」
俺は不機嫌になったが、不思議とそれ以上の感情は湧いてこなかった。もはや認めざるを得まい。俺は、どういう理由かこのメダイオに好感を抱いていた。
「なら、何を話せと言うんだ」
俺が憮然とすると、メダイオは少し思案して答える。
「何かここらで見られないもの。例えば風習とかなにかありませんか」
「風習と言われてもな」
俺は記憶を探ってみたが、面白い光景は出てこなかった。人の営みなど、自然に合わせた以外では大抵どこも同じである。虚栄、支配、愛憎。俺の見た限り、おおよそこのあたりを抑えておけば、多くのことは説明がつくものだった。その現れ方には土地ごとの自然や歴史に応じて差異があったが、それほど珍しいとは思えない。
「そういえば」
俺は思い出して言った。
「飛び込み祭りというのがあったな。若い男が崖の上から海に飛び込むんだ」
「それは勇敢ですね」
メダイオが驚いたように言うが、これが実は逆なのである。
「それがだな。飛び込まずにいられる方が褒め称えられるのさ」
どういうことかと言外に尋ねるメダイオ。あの祭りもある意味では支配のための儀式であったが、魔術の使い方が面白かったので覚えていたのだ。
「崖の上に立つ若者には幻惑の術が仕掛けられてな。魔術師が海の方向に誘おうとあの手この手で誘惑するんだが、それに負けてしまえば崖の下に真っ逆さま。飛び込んでしまうというわけだ」
「なるほど、勇気でなく忍耐を試す祭りなんですね」
「そういうことになるな。だが面白いことに、この祭りで飛び込まなかった者もまた成人としてみなされないんだ」
「そりゃまたどうして」
首を傾げたメダイオ。俺は呆れて返した。
「どうしてって、そりゃ君。成人の仕事の一つは子孫繁栄だからね」
メダイオはしばらく意味がわからなかったようだったが、気がつくとまたも味わい表情をした。俺がその顔に笑うと、メダイオは他の話をねだってくる。俺はそれに応えて満月が天の行程を四分の一ほどこなすまでの間、いくつかの話をしてやった。その間にも鳴子の術は反応せず、話すのに疲れた俺はメダイオに問いかけた。
「今度は君について話してくれよ。そうだな、故郷はどんなところなんだ?」
実のところ話題は何でも良かったのだが、メダイオは楽しげだった表情を曇らせると懐かしげに語りだす。
「俺の故郷は小さな漁村でした。土地と気候で、麦は作れなかった。夏には小さな花が色々と咲くんですが、食事にはならない。なので、村人は漁をして生活してたんです。といっても、俺の親父は漁師ではなく航海士でしたが」
航海士と聞いて、俺は驚いた。北の人間が航海士とわざわざ言う場合には『戦士団の航海士』という意味だったからだ。メダイオは確かに精悍だったが、戦士という風情ではなかった。
「親父の腕はなかなかのものだったらしくて、しょっちゅう遠征に出ては半年帰らないこともざらで。なので、子供の頃は親父の顔をちゃんと覚えてなかったぐらいです」
「けれど」とメダイオは続ける。その眼差しは凪いだ湖のようだった。
「十の歳もすぎると、やっぱり親父は憧れになりましたよ。いつかは俺も親父みたいに海に出て、仲間たちに道を示してやるんだって」
そこでメダイオは一度深く息を吐いた。
「八年前の併合、あのときの戦闘に戦士団と参加してから、親父は帰ってきませんでした。帰ってきた者が言うには流れ矢であっけなく死んだそうです」
八年前と聞いて、俺はメダイオの出身地がどのあたりか把握した。八年前の併合は、実に三年ぶりの領土拡大だったからである。俺も当時は軍属だったが、内地に配備されていたのでどのような戦闘があったかは知らない。しかし、想定よりもこちらの損害が大きかったという話を後で同期からこっそりと聞いた覚えがあった。俺が目を細めて想起しているのを敵意と勘違いしたのか、メダイオは慌てて続けた。
「別にそのことで隔意があるわけじゃないです。俺にも戦士の血は流れてますから。ただ、目標がいきなり目の前から消えて、どうすれば良いか解らなくなったんです」
そして、メダイオは口ごもると恥ずかしそうに続けた。
「それで、俺がしばらく無気力だったところを、殴り飛ばしてくれたのがパブロでした」
パブロという名前に俺は聞き覚えがあったが、どこで聞いたかすぐには思い出せなかった。俺に構わずメダイオは続ける。
「パブロは戦士長の子だったんですが、俺の幼馴染で。ヨハネスやケズといっしょにガキの頃は赤土羊の背中にのったりしてよくイタズラをしたもんです。ダクラとは恋敵ですが、最終的には和解しました。俺は来年にはパブロの妹と結婚する予定だったんです」
「それが」と言ったメダイオの声は震えていた。
「メダイオの徴が俺に現れて、帝国に呼び出されたからと皆から引き離されて。最後だからとパブロ達と来てみれば俺以外はこんなことに」
メダイオの呟くような声に、俺はようやくパブロが襲撃地点に残っていた死体の一つの名前だったことを思い出した。それっきりメダイオは俯いて震えるばかりで、しばらく声を発しようとしなかった。理由を問いかけようという気配はあったが、それを口にするほど純粋な子どものままではいなかったようである。やがて口を開いたメダイオは代わりにといったふうに尋ねた。
「メダイオが『奉納』されると、どういう扱いになるんですか。村の老人は、魔術具に繋がれて十把一絡げの生きた屍になると言っていました。俺は怖い、いや、違うな。そんな未来のために、パブロたちが死んで良いはずがない」
その言葉は、確かに北洋の戦士の血を匂わせる口ぶりである。しかし、俺は苦笑をこらえるので精一杯だった。随分と帝国も憎まれたものである。まあ帝国などという以上は、拡大戦略を取り続けるものだ。むべなるかなというところだが、無駄に悪党呼ばわりされるというのもきまりが悪かった。
「昔はそんなことがあったかもしれないがね。私の知る限りメダイオも人並みの扱いだよ。まあ機密保持のために行動範囲は基本的に建物の中だけになるが、自由がないと生きた屍も同じと言うのでなければ生活はある程度充実しているらしいぜ」
俺が生真面目を装っていうと、メダイオはホッとした様子になった。俺は畳み掛けて言う。
「言い方はきついが、敗者は勝者に従うものだ。だが、敗者にも敗者なりの知恵と生き方があるものだろう。悲観のみを頼りにするのは懸命ではないな」
俺は慰めのつもりだったが、メダイオはどう取ったのか大笑いした。俺はそれで気恥ずかしい気分になって、毛布を投げつけた。照れを隠そうとしたのではなく、満月が天のはるか高みに至ろうとしていたからである。メダイオもそれは承知だったようで、何も言わず毛布にくるまった。そしてメダイオの毛布からは三分と待たずに寝息が聞こえてきた。
俺は深呼吸して気を落ち着けると、鳴子の術とコルドロンを点検してから浅い眠りで休息を取り始める。その瞬間に、久しく忘れていた充足感を感じた気がした。
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