ロック・マッチ・ライカーズ!
忘旗かんばせ
第一話
仕事帰りの通り雨。土砂降りというほどではないけれど、さりとて傘が恋しくなる程度には強く。一張羅の青い羽織もすっかり濡れて暗く染まり、彼女の気分と同じ色に成り果てていた。
困った、と項垂れるほどではないが。
ついていないな、とは思う。
そんなどん底というほどでもないダウナーさを、けれど表情には出さず。いつも通りの仏頂面を、気取らず飾らず澄ますのが、六町らいかという女の在り方だった。
時代錯誤の高下駄を、水音混じりにからりからりと鳴らしながら、雨の隘路を堂々と歩き、どこぞ雨宿りできる店でもないかと視線を動かす。繁華街とはいえ、都心部ではない。時刻が零時を過ぎれば、灯りが落ちる店がほとんどだ。
さてどうしたものか、軒先を借りて止むのを待つか、いっそ走り抜けて家まで帰るか……なんて思考を二択に絞り始めた頃、明かりのついた看板を見つける。
しけた宵街にもぎらつくネオンは、けれど夜雨に濡れてその像を暈かす。さてはてなんの店だろう。ふらりと近づけば、かすかに聞こえる重低音の漏れ音。見上げる看板は――
「ライブハウス、か」
うるさいのは、嫌いだ。
趣味ではない。
趣味ではない、が。
背に腹は変えられない。
幸いにして、仕事帰りである。金ならある。そしてもとより、宵越しの銭は持たぬタチだ。うるさかろうが、酒が出るならば文句はない。それに女が付けば最高なのだが――などと思いつつも、階段を下る。音が出るからだろう、地下なのだ。
ぎ、と音を立てて重たい鉄扉の入り口を開ける。とたん、押し寄せるような音の騒ぎが全身を叩いて、六町らいかは顔を顰めた。歌は好きだが、騒音は嫌いだ。やはり私の場所ではない、なんて思いながらも、無理矢理に歩を進める。今は耳より、冷えた身体を労わりたかった。文句を言う脳みそは、アルコールで蹴りを入れて黙らせれば良いだろう。
入場料を払い、らいかは奥に進む。内装はライブハウスというより、クラブに近い。外側からはそうも見えなかったが、広さはそれなりのものだ。もちろん、街中にしては、という注釈はつくが。
室内をぐるりと見渡して、らいかは目敏くアルコールの気配を嗅ぎつけた。端の方に、小さく灯りに照らされてバーカウンターがある。
酔っているのかノっているのか、ふらふらと踊る客らの隙間を潜り抜けて、らいかはそこへ近づいていった。
バーカウンターには、伊達者気取りのつもりだろうか、下品なルーズファッションの日焼けした男が、真鍮のアクセサリを耳や鼻からじゃらじゃらとぶら下げ立っていた。
「ヒュウ、美人さん、一人?」
鬱陶しい第一声だった。無言で黙殺。男は肩をすくめる。
「ジンライム。氷はなしで」
「それじゃギムレットだろ?」
「甘いのが嫌いなんだ」
今は、冷た過ぎるのも。
言って、告げられた代金を置いた。飲み屋と比べればぼったくりと言いたくなるほど割高だが、この手の場所ではそんなものだ。
「後、タオルか何か、あるか?」
「小さいのなら」
「くれ」
ハンカチと手拭いの中間くらいの布が渡される。おそらく、濡らす前のおしぼりだろう。
「降られたか?」
「うん。予報じゃ、晴れだったんだが」
「最近はずっとそんなもんだろ? 夜には必ず降ってる」
そう言って、彼はグラスをカウンターに置いた。注がれた無色透明に、カットしたライムが添えられている。期待はしていなかったが、ライムが生なのは嬉しい誤算だった。
「つか、ネーチャン、面白い格好だな」
水気を拭くために羽織の前を開けたからか、その中身が目立った。
下駄と羽織を合わせておきながら、その内側にはTシャツとジーンズ。和洋折衷にしてもいささか不思議なセンスだ。
「いやね、これが私の戦闘服なんだ」
「なんだ、コスプレ喫茶でもやってんのか?」
「昔バイトしてたことがある。店が焼けてクビになったけど」
「どんな店で働いてたんだよ」
軽く笑って、そこで会話を打ち切る。失敗談はあまり話したくない。振り返れば、壇上にいたバンドグループが撤収を始めていた。
「ん、もう終わりか」
「まさか。まだ一時にもなってない。交代だよ」
運がいいぜ、ネーチャン、と浅黒男はニヤついて言う。
「この後はライカーズだ」
「ライカーズ?」
名前を呼ばれたかと思って、一瞬、体に力が入ったが、当然そんなはずもない。
「近頃、いちばん勢いがある連中。ガールズバンドだぜ」
なるほど、バンドの名前か。納得して、らいかはグラスを傾ける。爽やかなライムと、喉を焼くアルコール。機嫌を良くする一番の薬だ。
「しかも若くて顔もいい……って、あんたにゃ嬉しかないか」
「いや、私も顔のいい女は好きだ」
「え、マジかよそっち系?」
「悪い?」
「悪いね。この後誘おうと思った」
「タイに行け。綺麗になって帰ってきたら抱いてやる」
言って、視線を壇上に向け直す。
女は好きだ。特に、歌って踊るやつは尚更。触れて抱ければ最高だ。
「まだ出てこないのか」
「機材の準備があるからなぁ」
ま、五分もすればだね、と言われるが、期待を煽られての五分は長い。六町らいかはせっかちだ。しかも、自覚があり、それを改める気がないタイプの。
「ネーチャン、歳は?」
「気になる?」
「そりゃあもう」
仕事はいいのか、と思うが、不思議と客は寄り付かない。チラリと目だけで確認すれば、光が当たらない場所で、細々と売り買いをしている連中が見えた。なるほどここでは酒ではなく、そっちに酔う連中が主か。
「大変だな、暇で」
「別に、ラリった連中の相手するよりは暇がいいね。おまけに、あんたみたいな美人と話せるなら最高だ」
ドラッグは嫌いらしい。意外だ。人は見かけによらないな、と思い直した。
「んで、幾つよ」
「幾つに見える?」
「……んー、二十……七、八?」
「え、そんなに老けて見える?」
「いや、全然。見た目だけなら二十歳って言うぜ。けど、どう考えてもそんな小娘の風格じゃねーだろ、あんた。日頃、どんな仕事してんだ?」
「殺し屋」
「…………嘘だろ?」
「ああ嘘だ」
真顔で言ってやれば、面白いくらい露骨に『安心』の表情をして胸を撫で下ろす。存外、面白い男だった。
「本当は正義のヒーローなんだ」
「……は? 怪人退治でもしてるってか?」
「実は今日もその帰り。驚いた?」
「たまげたね」
まるで信じていないという顔で、彼は肩をすくめる。
半分は本当なのに、とは心の中でしか言わないが。
らいかはグラスに口をつけた。
「本当の本当は、女子高生をしている」
それを言うと、いよいよお手上げとばかりに男は深々と鼻息を出し切る。
「今までで一番嘘くさい」
嘘じゃない、と言おうと思って、けれど信じてもらった方が困ることに気付いた。なにせ今、彼女はアルコール入りなのだ。
「うん、嘘だ」
ははは、と笑って、グラスを干した。
同じのを、といえばそれ見たことかと苦笑が返る。
「おっと、そろそろ始まるな」
ふ、と。俄かに舞台が暗くなった。
もとより暗中だ。らいかのいる場所こそ店の近くで灯りがあるが、それ以外は全くの暗黒に包まれる。
暗闇に目が慣れ始めた頃、不意に、弦の音が響いた。
いつのまにか。喧騒はしんと静まっていた。
静寂を踊るギターソロ。か細く、けれど強く。孤独の旋律。
それは徐々に勢いを増し、やがて手繰る指の立体像さえ見えるような疾走に至る。伸び切る音の尾。次の瞬間――フラッシュ。
爆発する多重奏。ステージを閃光が照らし出す。浮かび上がる、四人の少女のシルエット。衝動にも似て深く、夜空にも似て淡く、けれど虹のように鮮やかに。心を彩るロック・サウンド。
すぅ、と息を吸う音が微かに聞こえる。口付けをするように、中央に立つ少女がその唇をマイクに近づける。来る。それはフラッシュバックのような予測。わかっていても、耐えられない。知っていて、耳を澄ました。
――歌が、響く。
「これは……」
いいな、と思う。
あるいは自分が無学であることが口惜しい、と思ったのは、彼女にとって生まれて初めての経験だった。この美しさを、果たしてなんと言い表せば良いのだろう。あるいは受験勉強に勤しむ彼女のクラスメイトたちならば、これを表す詩の一つでも詠んでみせられるのだろうか? だとするなら、ああ、それはひどく羨ましいことだった。
傷を歌う歌だった。
誰もがに響かせる歌ではない。眠れぬ夜に孤独に震え、誰かを求めて彷徨い、けれど触れ合うたびに傷が増え、擦り切れ倒れ伏した、救いを乞う誰でもない誰かへ。弔歌のように響くそれは、だからきっと、ただ一人の『あなた』にだけ向けられたそれで、だからこそ、誰もの心を揺らす。
形のない大衆や、姿のない聴客にではない。今、この曲を聴いている君、あなた、誰でもないその一人一人の心にこそ語りかけ、その奥底に隠された傷をそっとなぞり、美しく歌い上げる。響く旋律は共振。煌めく虹はオパール。傷跡にこそ宿る、七色のプリズム。
「いいだろう」
なぜだか自慢げな男の声さえ、今は余分の澱みだった。
ああ、なるほど、カウンターが無人だったのはこれ故か、と納得。
メロディはBを超えて、サビへ。滝のような転調。爆発する叫びは、けれど決して騒音などではありはせず。悲鳴にも似て歌われる『痛み』が、背骨の内側を苦しいほどに撫で上げる。
気付けば、周りのことなど気にせず聞き入っていた。らいかが意識を取り戻したのは、だから彼女たちのその演奏が終わってようやくだった。
永遠のように短い時間。三曲を歌い上げた彼女らは、けれど舞台から去ることはない。わかっているのだ。これから響く声の色を。
――アンコール! アンコール!
熱狂するような叫び声。らいかでさえ、その一員となって紛れ込むのを止められない。
期待に応える。力強い旋律。これまでのどれとも違う、痺れるようなエレキ。ライブハウスに満ちる熱をそのまま昇華させたような、業火の鼓動。
気が付けば、誰もが叫んでいた。
熱は一瞬。花火のように散り咲いて、次に羽ばたくは引き波のバラード。浮ついた心を総浚いするような悲哀の寂光が魂を捕らう。
そして、静まり返る世界に、灯火のように歌が響く。アカペラから始まったそれは、まるで夜明けの欠片を掠め取ったように、暖かく闇を照らす。晴れやかな終わりに、アンコールの声は響かない。それが無粋だと、誰もが知っているからだ。
最後の一音の名残が引いて、一拍。ボーカルの少女が深々と頭を下げる。万雷の喝采。鳴り止まぬ拍手は果たしてどれほど続いただろう? 一分か、十分か、一時間か、永遠か。ともすれば演奏の時間よりも長かったのではないかと思うほどの喝采が引き始め、それに合わせて少女たちもステージを片付ける。
「……これは確かに、幸運だった」
冷めやらぬまま、店主に言う。彼は無言でウィンクを一つ。腹の立つ仕草だが、まあいい、今ばかりは許してやろう。
まだもまばらに拍手が続く中、バーカウンターに人が訪れ始めた。なるほど、あのバンドが終われば、ここも盛りというわけだ。
体は温まった。これ以上酒を入れても明日に響くだろう。らいかはカウンターを離れようとして――引き止められる。
「あれぇ、お姉さん、一人?」
なんて音程の合わない軟派な声は、もちろん店主のものではない。寄りついた客のまばらな一つ。三人組の男が、らいかの行く道を塞ぐように立ち塞がった。締まりのない半端な童顔に、ひねた茶髪。果たして何に酔っているのか、不愉快な笑顔。見るからに、ろくでなしだ。
「引率の先生ならここじゃないぞ」
「は?」
皮肉は伝わらなかったらしい。
「ね、ね、お姉さん、一人で来るってことは、バンド好きなんでしょ?」
「別に」
雨宿りに来ただけだ。とまでは言わない。
面倒なことになった、と思う。せっかくのいい気分が台無しだ。
「実はさぁ、俺らも今日演奏すんだよね~」
「しかもトリだぜトリ」
「そうか」
それは可哀想に、とまでは言わないでやった。
今の彼女の演奏を聞いた後で、やる前から正気を手放し、女に現を抜かそうという連中の奏でる音楽もどきが、果たして観客にどう伝わるかなど、分かりきっていることだろうから。
「それまでちょっと暇なんだよね」
「それなら俺と話すか? 女に振られたって泣き言くらいなら気が済むまで聞いてやるよ。ワンドリンク制だがな」
後ろから、ぬうと顔を出した店主がいう。
「いいよ、私の揉め事だ」
「無理すんなよ正義のヒーロー。女子高生なんだろ?」
あれは冗談……ではないんだけれど。
「大丈夫。私、強いから」
「強いったって男三人相手に――」
カンッ、と。
高い音が響いた。
それが高下駄の床を叩く音だと気付いたものは、果たして幾人いただろう。
――ぐらり、と。
崩れ落ちる、人影。
彼女を囲んでいた男の一人。不躾にも腕を捕まえていた中心の男が、糸の切れた人形のように、無惨に。力を失い、床へと接吻する。
「な、おい!」
「どうした!?」
動揺する二人は彼女から視線を外す。ここが戦場だったら死んでいるぞ、なんて、言う意味もないことだが。
「どうやら、君らの頭目は酔いが回ってしまったらしい。介抱してやったらどうだ?」
無感動に言えば、視線が集まる。
「お――お前……」
「なにしやがったテメェ!」
反応は二極。怯えに後ずさる一人と、反射のように気炎を揚げるもう一人。
片方は賢い。もちろん人間としてではなく、動物としてだが。そして、もう片方はダメだった。
勢いに任せてだろう、考えなしに飛びかかって来た阿呆を冷めた目で見つめ――
カンッ、と。
音が響けば、どさりと落ちる。
「また一人、酔いが回ってしまったようだ。可哀想に。……君は飲み過ぎないよう、節度を保つんだよ」
言えば、きっと頷いているのだろう、キツツキのように何度も首を振って、最後の一人は残りの二人を引きずって逃げていった。
この程度で怯えるならば、初めから絡まなければいいのに。
「……あんたってもしかして、結構正直もの?」
「いいや、嘘吐きだ。アルコールが入ってる」
言って、彼女はその場から立ち去る。どうせなら、いい気分のまま帰りたかった。水を差されたな、と思いながら、出口の近くまでやって来て、そう言えば、と思い立つ。
結局のところ、曲に聞き入ってそれどころではなかったけれど、彼女たち――ライカーズは、美人揃いという話だった。
もう裾に引いているかもしれないが、残っていればせめて一目焼き付けよう、と振り返れば――
「――あ」
今まさに、ステージを立ち去る最後の一人。傷を歌う虹の声持つボーカル少女が、こちらを見ていた。
想像したよりも、ずっと幼い顔立ち。美しいというより可愛らしい。酒も飲めない年頃だろう。背こそそれなりだが、高くはない。百八十を超える長身のらいかからすれば、頭ひとつ低いくらいか。目立つのは、シャギーの入った、胸元までのロングヘア。紅のインナーカラーは、けれどきっと付け毛だろうな――なんて、なぜ、そう思ったのだろう。
らいかは首を傾げる。
目が合っていたのは一瞬。逃げるように、少女は舞台袖へとひっ込んだ。
首を傾げたいことは、もう一つあった。
なぜだか、こちらを見ていた少女。目が合っていたのは、錯覚ではない。その手の直感は、必ず当たる。
だからこそ、解せなかった。
どうしてあの少女はらいかを見て――ああも驚いていたのだろうか。
会得のいかない靄を抱えながらも、らいかは店を後にする。階段を上がれば、雨はもう止んでいた。
水たまりの残る夜道を下駄で鳴らして、ふと気付く。
「ああ、そうか」
あの時、私を見て驚いていたあれは、あの少女は――
「クラスメイトだ、あいつ」
思い描く、一人の面影。
いつもはメガネをかけているから、咄嗟には気が付かなかったけれど。
俯いた顔で、いつも孤独に本を読む、華奢な少女。背の高さから後ろの席に回されがちならいかからは、その猫背がよく見えた。
確か、名前は――
「
なるほど、だからライカーズ、か。
「新居昭乃ね……なかなか良い趣味してるじゃないか、あいつ」
会得がいって、らいかは上機嫌に歩き出した。
弾む下駄の音。こだまの鼻歌。
雲は晴れ、遠く夜空の尾根の裾野に、夜明けの紫が近づいていた。
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