第2話

 どうやら、覚悟を決めねばならぬようです。手前はゆっくりと坂を登ることにいたしました。彼女は月の光のように優しい笑顔を見せてこちらをみています。


 何とか坂を登りきり、藍色の着物を着る彼女の元に参りました。彼女が右手を手前に差し出します。手前は持っていた提燈を左手に持ち替えます。


 女子の手を取ってもよいものか。差し出された右手が、届くか届かないかのところで手を止め、引っ込めようとしたところです。彼女の手がさらに伸びてきて、強引に手前の手を取るではありませんか。


 その手は柔らかく、少し冷たくありましたが、強引さも相まって力強いものでした。


「平介様の手はとても温かいですね」


 驚いてしまい、力が入ってしまいました。その力は彼女の手に伝わってしまいます。


「痛っ」


「す、すみません」


 手前は謝りながら、手にこめてしまっていた力を抜きます。すると彼女の方から、離そうとしていた手をもう一度つなごうとしてきたのです。


「かまいません。驚かせてしまったのですね。いきなりだったのでごめんさない」


 あちらから謝ってくるではありませんか。月に照らされている彼女の顔に温かみがさしているように見えてきているのです。白い肌にわずかに見られた紅い変化。手前はそれを美しいと感じてしまうのです。


 手前はすぐに頭を振り、今の思いを振り払うことにいたしました。なぜなら、つい先ほど初めて顔を合わせ、名前を知り、手を握った相手でございます。そのようなはしたない思いを持つことなど、許されようはずがございません。


「どうかなさいましたか、平介様。わたくしの顔に何かついておりますでしょうか」


「い、いえ。決してそのようなことはございません」


 心の臓が早鐘のように、打ち鳴らされておるのがわかります。無論、それは手前のものでございます。


「そうでしたか。それならばよかったです」


 彼女はそう言いながら、柔らかい笑顔をこちらに向けてこられるのです。


「ところで、お話というのは」


「……桜が、きれいですね」


 彼女がゆっくりと顔を桜の方へと移しながら、静かに言われます。それにつられ手前も桜を見上げます。


「この着物、覚えておいでますか」


 彼女の言葉に手前は彼女の着ていた着物をゆっくりと見てみます。提燈の光に照らされた薄藍のそれは、光の当たり具合によってその見え方が変わり、濃淡がどこか哀しさとか淋しさといったものを感じさせるものに見えたのでございます。


 ただ、覚えているかと問われますと、自信がございません。いろいろな着物を取り扱っておりますし、着物をお渡しした時は忘れることはないのですが。


「申し訳ございません。着物には見覚えがございますが、どなたがお買い求めになられたのかを思い出すことができないのです」


「たくさんのお客様を相手になされているのです。それも当然というもの。お気になさらずに。この着物は父と一緒に買い求めたものでございます。平介様がいくつかの色の反物を持ってこられ、その中から平介様がわたくしに似合うものを選んでくださいました」


 着物をゆっくりと音を立てず大事そうにさわりながら、彼女は話してこられます。


「そういえばこれを買いに行った時、他に買いにこられていたご夫婦ふうふがいろいろと注文を言っていたのを覚えています」


「それはここ最近のことでございましょうか」


「そうですね。桜が咲く少し前でしたね」


 少し前にそのようなことがあったような覚えがございます。確か旦那さんがご夫婦の応対をされていましたが、大層困られていました。買った着物にご納得いただいていなかった様子だったように覚えています。


 しかし、手前もその時はお客様の対応をしており、旦那さんのところには行けませんでした。確か、その時のお客様は親子だったはず……。記憶と目の前の女子が一致します。


「ああ、あの時にこられていたお客様でしたか」


「はい。その節はお世話になりました」


 手前に頭を下げる彼女。


「そのようなことはなさらないでください。お気になさらずに」


 そういうのが精一杯です。いきなり頭を下げられるなどという経験はございません。


 静かに顔を上げる彼女。そのお顔は先ほどまでとはどこか違って見えたのです。


「……」


「……」


 手前はなんと声をかければよいのか、言葉が出てこなかったのです。


 彼女もまたこちらをじっと見てこられます。しかし、言葉はなにもございません。ただ、じっとこちらを見てこられるのです。


 と、彼女が少し見上げるように頭を動かしました。ゆっくりと桜を眺めているようにも見えます。


 手前もそれにならい、桜を見上げます。


 風がふき、提燈の中の火と桜が揺れ動きます。


「……平介様。わたくし近々婚姻をすることになっております」

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