第19話「笑わない男の微笑み」

 薄曇りの空に、かすかな朝焼けがにじみ始めていた。

 桜峰市の秋の空気は、すでに夏の名残を遠くに追いやり、冷たさを帯びている。

 まだ誰もいない遊園地のバックヤード。鉄骨の匂いと油のしみついた空気に包まれて、一翔は点検用の通路にしゃがみ込んでいた。

「……あのさ、ほんとに来てくれると思ってなかった」

 声をかけた相手は、無言で工具箱を置くと、古びたスパナを手に取った。

 笹原雅人。元・虹ヶ丘ランドの整備士。

 白髪混じりの短髪。日に焼けた肌に、整備服の上からも分かる筋張った腕。

 何よりも印象的なのは、初対面のときから一度も表情を崩さないその顔だった。

「まず、お前らがいじった箇所を全部言え」

 ぶっきらぼうな声だった。

 だが怒鳴るでも呆れるでもない。無駄がなく、まっすぐな口調。

 一翔は少しホッとしたように立ち上がると、メモを差し出した。

「コースターの主軸ギア周辺と、車輪のベアリング部分。それからブレーキラインの確認……あと、安全ベルトのロック機構も、幸平が再調整してる」

「順番がメチャクチャだ。最初から俺がやる」

 そう言って、笹原はスパナを手にトン、と足元を鳴らした。

 それが合図だった。

 遊具の骨格のような鉄骨の迷路を、笹原はまるで自分の庭のように登っていく。

 一翔も、やや遅れて後を追う。

 途中、鉄骨の接合部に小さなキズを見つけて、笹原がぴたりと動きを止めた。

「これ、なに使って締めた」

「トルクレンチだけど……多分、締めすぎて……」

「多分じゃない。過負荷で金属が歪んでる」

 笹原は一翔にその場でレンチを渡した。

「お前が直せ」

「えっ、でも……」

「やったのはお前だ。責任を取るのも、お前だ」

 一翔は一瞬、息をのんだ。

 だがすぐにうなずくと、慎重にレンチを回し始める。

 笹原は黙ってそれを見ていた。

 何も言わず、ただその手元に視線を注いでいた。

 数分後。

「悪くない」

 それは、この日初めて聞いた彼の「評価」だった。

 作業はそのまま無言で続いていく。

 あまりに静かで、工具が金属を叩く音だけが、早朝の空気を震わせていた。

 幸平と蘭が後から合流したのは、午前七時を少し回ったころだった。

 ふたりは作業中の一翔に手を振ったが、すぐに笹原の存在に気づき、背筋を正すように整備帽をとった。

「おはようございます。点検、よろしくお願いします」

 幸平の声に、笹原はうなずくだけだった。

 それでも、口元がほんのわずか動いたように見えた。

(……いま、ちょっと笑った?)

 蘭が小声でつぶやくと、幸平は「さすがに気のせいじゃね?」と笑った。

 だが一翔は、そのわずかな変化を見逃さなかった。

 笹原の視線が、確かに柔らかくなっていた。

 ただの無表情じゃない。心のどこかに、なにかが灯ったような、そんな……温度。




 それからの作業は、まるで時間が溶けるようだった。

 誰も余計なことは言わず、必要なことだけを口にし、手と足だけが黙々と動く。

 コースターの架台に貼られた識別番号を一つずつ確認しながら、笹原はそれぞれの部品にスパナやドライバーを当てては、小さくうなずき、あるいは首を振る。

「……ここも交換したのか」

 笹原がつぶやいたのは、頂上直前の傾斜ポイント。

 ブレーキユニットの手前にあるセンサーの配線を指していた。

「裕介が在庫から取り出して、規格表見て選んだやつです」

 その言葉に、笹原はふっと鼻で笑った。

「……あいつ、ちょっとだけマシになったな」

「え、知り合いなんですか?」

「前にこのコースターの保守で一度、説明しに来たことがある。中学生のくせに、妙に書類ばっか揃えてきてな。やたらデータに詳しかった」

 笹原の言葉に、一翔も少し笑ってうなずいた。

 裕介の他者分析ぶりは、このプロジェクトでも何度となく助けられている。

 空が白くなり始め、鳥のさえずりが少しずつ聞こえ出す。

 時間はもうすぐ午前八時。作業開始から三時間が経とうとしていた。

 すると、笹原が点検用通路の端で立ち止まり、静かに工具を下ろした。

「全部、締め直した。……もう走れる」

 その言葉に、一翔も、幸平も、蘭も思わず顔を見合わせた。

 笹原が「もう走れる」と言う。

 それは、何よりの安全確認の“証”だった。

「……ありがとうございましたっ!」

 一翔が頭を下げる。

 続いて幸平も、蘭も続くように、深く礼をした。

 だが笹原は、その三人を見て、無言のままポケットから一枚の古びた紙を取り出した。

 折り目のついたそれは、日焼けしていたが、今でも読める筆跡が残っていた。

「……これ、事故があった時の整備記録だ」

 一翔はそっとそれを受け取り、目を通す。

「このページ……」

「俺がミスった」

 静かな声だった。

 笹原は、手すりに片手をかけ、遠くの空を見ながら言った。

「点検表のチェックが一つだけ、飛ばされてた。それだけのことで、車輪の摩耗が見逃されて……」

 続きの言葉はなかった。

 だが一翔は、その言葉がどれほどの重さを持っていたかを理解した。

 笹原があれ以来、整備士を辞めたこと。

 顔を見せることもなくなったこと。

 だが――それでも、この場所に戻ってきてくれたこと。

「……誰だって、間違えることはあると思います」

 口にした瞬間、一翔自身も驚いた。

 この男に向かって、そんな言葉を言う自信が、自分にあると思っていなかったから。

「でも、俺たちは……間違いの先に進みたいんです。だから、こうして、戻ってきてくれて、ほんとに……」

 言葉が詰まりかけたときだった。

 笹原の口元が、ほんのわずか、緩んだ。

 それは、まぎれもなく――笑みだった。

 無表情だった男が、口角を上げた。

 長い年月を超え、もう一度、この遊園地と向き合ったその瞬間。

 彼は静かに、だが確かに、微笑んだ。

「……あのとき、もし誰かが、もう一回任せてくれてたらって、ずっと思ってた」

 笹原は背を向け、帰り支度を始めながら言った。

「俺じゃなくてもいい。でも……この場所がもう一度動き出すなら、少しだけ、救われる気がした」

 その背中に、一翔は言った。

「俺たち、絶対に成功させます。だから……見ててください」

 笹原は、無言でうなずいた。

 その姿は、まるで、かつての虹ヶ丘ランドが再び息を吹き返すことを予感しているかのようだった。




 笹原が姿を消したあと、静けさが遊園地に戻った。

 だがその静けさには、どこか温もりのようなものが混じっていた。

 一翔はベンチに腰かけて、さっき受け取った整備記録をもう一度広げた。

 書かれていたのは、たったひとつの点検漏れ。

 だがそれが命取りになり得ることは、整備士でなくても想像がつく。

 もし、自分たちが同じミスをしたら――。

 その怖さを、改めて突きつけられた気がした。

 だからこそ、笹原が口にした「もう走れる」は、どんな合格判定よりも重かった。

 蘭がポットから紙コップにココアを注ぎながら、ぽつりと言った。

「……ちょっとだけ、見直した」

「誰を?」と幸平が聞く。

「一翔」

「え、おれ!?」

 一翔は飛び跳ねるように驚いたが、蘭はふっと笑う。

「怖かったんでしょ。笹原さんに頼むの」

「……めっちゃ怖かったよ」

 素直にうなずいた一翔に、蘭は珍しく「うん」と返すと、それきり黙ってしまった。

 代わりに、幸平がぼそっとつぶやく。

「でもさ、あの笑い方……なんか、沁みたな」

「うん」

 三人の視線が同時に、遠くの観覧車に向けられる。

 今は止まったままの観覧車――だがそれも、あと少しで、再び回る。

 ゆっくりと、でも確かに。

 そのとき、裕介からのメッセージがグループチャットに届いた。

《電気容量の再計算、終わった。補助回路、ギリでいけそう》

 結衣もすぐに返す。

《確認済み。停電時マニュアル、印刷に入ります》

 洋輔、聖美、実希からも、順に「こちらも準備完了」の連絡が入った。

 いよいよ、すべてが動き出す。

 その第一歩に、あの男のひとことが加わった。

 ――「もう、走れる」

 その言葉が、一翔たちの背中を押してくれている気がしてならなかった。

 誰かの後悔を、誰かの勇気に変えて。

 過去の失敗を、未来への一歩に繋げて。

 虹ヶ丘ランドは、また一つ、確かな命を取り戻したのだった。

(第19話 完)

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