第10話「ジェットコースターの亡霊」

 7月1日、午後四時三十五分。

 放課後の蝉しぐれが耳にまとわりつく中、一翔、幸平、蘭の三人は、虹ヶ丘ランドのバックヤードへ足を踏み入れていた。

 すでにフェンスの補修と許可申請は終わっており、この日は修繕作業の中でもっとも難航している、“ジェットコースター・天翔スパイラル”の歯車部分を確認するための作業日だった。

「……やっぱ、でけぇな……」

 顔を上げた幸平が、うなり声のように呟いた。

 巨大なレールは空へ向かって螺旋を描き、複数のカーブとループを経て、バックヤード側の整備通路へと滑り降りてくる。ゴンドラ本体は倉庫内に保管されていたが、昇降部分の歯車はその場にむき出しで鎮座していた。

「前に撮った整備日誌、ここで止まってるんですよね。ちょうど“第4ギア、異音あり”の記録で」

 蘭が手元のタブレットを操作し、旧整備士が残した点検記録を確認する。

「この第4ギアって、ほらここ」

 幸平が軍手でこすりながら指差すと、油で黒ずんだ大歯車がそこにあった。直径は約1メートル。噛み合う補助ギアの一部が摩耗しており、ほんのわずかに歯先が欠けている。

「このギアがメインシャフトとつながってて、滑走の最初を支えてる。こいつにズレが出ると、加速時にガコンって段差になるはず」

「……つまり、事故につながる可能性があるってことだな」

 一翔が呟くように言った。

「ただの“遊具”じゃない。これはもう、機械だ。下手したら命に関わる」

 言い終えた直後、三人の間に妙な沈黙が流れた。

 ――ガシャン。

 突然、建物の奥から何かが落ちるような音が響いた。

「……今、なんか音したよな?」

「え、うそ……?」

「待って、何か……動いてる?」

 蘭が身をすくめた瞬間、倉庫の奥に置かれていた古びた配線ケーブルの束が、ぐしゃりと崩れた。

 それはまるで、誰かが通った後のように。

 誰も動かなかった。声も出なかった。

 背中を流れる冷たい汗だけが、確かに“何か”の気配を告げていた。




「た、ただのネズミとか……じゃないよな?」

 幸平が無理やり笑おうとしたが、声がかすれていた。

 バックヤードの空気がひんやりと肌を刺す。入り口からの風は止まっているはずなのに、奥の方だけ何かが“動いている”ような気配があった。

「ちょっと……確認してくる」

 一翔が一歩前に出る。だが蘭がすぐに袖を掴んだ。

「やめた方がいい。もし、誰か――不法侵入者だったら危険すぎる」

 そう言う蘭の目は、どこか“確信”に近い警戒を含んでいた。

「じゃあ俺が行く。力だけはあるからさ」

 幸平が前へ出たが、それを今度は一翔が止めた。

「3人ともここにいたって進まない。分担しよう。俺が通路を見てくる。幸平はこのギアを保護して。蘭はタブレットで異常が出た箇所をマークしておいて」

「でも……!」

「大丈夫、すぐ戻る。声がしたら返事してくれ。それで確認できるようにしよう」

 その瞬間、一翔の“直感”が働いていた。

 あの物音は“ただの崩落”じゃない。

 でも“お化け”なんかでもない。

 もっと――現実的な、何かがある。

 一翔は薄暗い通路を進む。

 床に広がる埃が、誰かの靴跡のように不自然に途切れていた。

(……やっぱ、誰か、ここに来てた?)

 背筋を汗がつたう。だが止まらない。

 懐中電灯で照らしたその先、薄暗いコーナーに差しかかったときだった。

 ――そこに、何かが置かれていた。

 黒い工具箱。

 そして、その上には白い紙が一枚。

 一翔はゆっくりと手を伸ばして、それをつかんだ。

 そこに書かれていたのは――震えるような筆跡で、ただ一行。

 

 『ココでは あの事故のことは 忘れられない』

 

 一翔は息を飲んだ。

(事故……?)

 ランドにあったという“過去の事故”。

 誰かが、それを“今も”気にしている。

 工具箱の蓋を開けると、中には手書きの点検表が数枚。どれも日付は十年前。最後の署名は、見覚えのない名前だった。

「笹原……? 誰だ……?」

 ふと、後ろで幸平の声がした。

「おい一翔ー! ギアのとこ、これたぶん……前にも補強されてた形跡あるぞ!」

 一翔は紙を手に握り、急いで引き返した。

 事故。点検表。残された手紙。

 そして、この“誰か”の気配。

 遊園地の復活に立ちはだかる最大の障壁は、壊れた機械じゃない。

 “そこに残った記憶”そのものかもしれない――。




 バックヤードに戻った一翔は、手にした紙と工具箱の中身を地面に広げた。

 幸平と蘭も、作業を一旦止めて覗き込む。

「……これ、点検表だよな? 十年前って、ランドが閉園に追い込まれる前か」

「署名……“笹原”……。ねえ、この名前、過去の整備士にいなかった?」

 蘭が即座に答えた。

「あった。閉園直前までメンテナンス担当してたって資料に出てきた。でも、詳細は書かれてなかった。たしか、“退職”ってだけ」

「……もしかして、その事故に関わった人かもしれない」

 一翔は紙に書かれた“ココでは事故のことは忘れられない”という一文を、もう一度読み返した。

 その言葉の意味が、ただの感傷ではないと感じた。

「これさ、逆に考えたら――」

 幸平が声を落として言う。

「その笹原さんって人、まだこの場所を気にしてるんじゃないか? もしかしたら、今でも誰にも知られず見に来てるとか」

「じゃあ、この点検表……私たちに向けて置いていった可能性も?」

「わざと見つかるように……?」

 3人の間に、また沈黙が落ちた。

 だがそれは、さっきの“恐怖”の沈黙とは違った。

 今度は、“希望”の気配があった。

「この人……まだランドを見捨ててない。なら、きっと話を聞けるかもしれない」

 一翔が口にしたその言葉に、幸平と蘭が同時にうなずいた。


 その晩。

 ランドの管理台帳を保管していた市役所倉庫を、裕介のコネで調べてもらうことになった。

 結衣はすぐに手を打ち、翌日の午後には正式な台帳の閲覧許可を取り付けた。

「笹原清人。昭和四十八年生まれ、旧・第一整備部所属。退職日は平成二十五年九月二十五日、理由・本人申告による“体調不良”。」

「その日って、ランドで“非常停止”があった日と一致してる」

 蘭が端末を操作しながら補足する。

「でも、事故としては記録されてない。ニュースもなかった。つまり、“公にされてない異常停止”だったんだ」

「この人に……会えないかな」

 一翔の目が鋭くなる。

 その視線は、ただ“作業を進める”という目的を超えていた。

「俺たちのランドを守るためにも、この人の話を、ちゃんと聞きたい」

 夜のグループチャットに、新たな目標が書き込まれた。


一翔:

『ジェットコースターの事故を知ってる元整備士、笹原さんに会いたい。誰か、つてないかな?』


 その投稿に、しばらくして1件の通知がつく。

裕介:

『知ってるかもしれない人、心当たりある。明日、確認する』


 ランドを再び走らせるには、もう一度、過去をまっすぐに見つめなければならない。

 そう、一翔は思った。




 翌日――七月二日。

 午後五時。学校の裏門を抜け、裕介は一翔たちをとある建物へ案内していた。

「この先。俺の伯父さんがやってる自転車屋。昔、笹原って名前の人と仲良かったって話してた。もしかしたら、つながってるかも」

 裏通りにある、年季の入った看板の店。「清田輪業店」と書かれたその前で、裕介は深く一呼吸した。

「……行こう」

 ギィ、とドアを開けると、奥から油のにおいがふわりと漂った。

「こんにちはー、清田さんいますか?」

「あいよ、今出るよ」

 しばらくして出てきたのは、七十代くらいの初老の男性。手にはグリースのついた軍手をしたままだ。

「ああ裕介か。珍しいな、今日は自転車の修理じゃなさそうだな?」

「はい。実は、ちょっと人を探してて……“笹原清人”って人、ご存じないですか?」

 その名前を出した瞬間、清田の手がぴたりと止まった。

 まばたきを二度、三度と繰り返し――やがて、静かに口を開く。

「……笹原か。あいつのこと、どうして知ってる?」

 一翔が一歩前に出た。

「虹ヶ丘ランドの修復をやってます。ジェットコースターの点検記録に、その名前が残ってました。できれば、直接会って話をしたいんです」

 その言葉に、清田の目が一瞬だけ鋭くなった。だがすぐに、その顔はやわらいだ。

「そうか。あいつの“残したもん”に触れたんだな」

 清田はカウンターの奥から、小さなメモ帳を取り出して住所を走り書く。

「いまは町外れの“風見が丘”に住んでる。引っ越してからは人とあまり会わんようになったが……あいつは、ランドを本当に大事に思ってた」

「ありがとうございます!」

 一翔が深々と頭を下げる。

 その背中に、清田は静かに付け加えた。

「……気をつけろよ。あいつ、自分のミスで誰かを傷つけたと信じてる。誰がなんと言おうと、それだけは変わらん。だから……」

 そこまで言って、言葉を切る。

「……あとは、お前たちの目で見てこい。若い奴らが真っ直ぐ歩いてるなら、あいつも少しは救われるかもしれん」


 そしてその夜。

 一翔は母親に「明日、朝からちょっと出かける」と伝え、道具とノートをバッグに詰めた。

 幸平も蘭も、明日の予定を空けてくれていた。

 ランドのジェットコースター――あの“止まった場所”を、もう一度走らせるために。

 誰かの後悔を、ただの過去にしないために。

 彼らは、“亡霊”に会いに行く。




 七月三日、午前九時――。

 桜峰駅からローカルバスに揺られること四十分、風見が丘の住宅街に到着した。

 町の中心からは離れ、見晴らしの良い高台にぽつぽつと住宅が並ぶ。整った町並みというより、どこか“避けるように”建てられたような場所だった。

「ここか……」

 一翔が手にしたメモを見ながら、古びた郵便受けに目を向けた。

 “笹原”の名はあった。

「……やっぱ、本物なんだな」

 隣で蘭が小さく頷いた。

 幸平が前に出て、インターホンを押す。

 ピンポーン――と静かな音が鳴り、しばらくしてガラリと玄関が開いた。

 そこにいたのは――無精ひげを生やし、作業着のままの男だった。

 顔には疲れが滲んでいるが、その目はまっすぐで、どこか鋭い。

「……なんの用だ?」

 低い声だった。

「笹原さんですか。ぼくたち、虹ヶ丘ランドの――復活プロジェクトをやっています!」

 一翔が一歩踏み出し、頭を下げた。

「ジェットコースターの整備中に、あなたの点検表と……“あの手紙”を見つけました。どうしても、お話を聞かせてほしくて……!」

 笹原の目が細くなった。

 風が静かに吹いた。長い沈黙ののち――彼はぽつりとつぶやいた。

「……話して、何か変わるのか?」

「はい」

 一翔の声に、迷いはなかった。

「誰かが“亡霊”だと思ってるものを、“安全”という形で走らせる。ぼくたちは、その証明をしたいんです」

 その瞬間――笹原の顔がわずかに揺れた。

 目の奥にあった硬さが、少しだけほどける。

「入れ」

 彼は、背を向けて家の中へ入った。


 笹原の部屋は整備工具や古い設計図、廃品で埋もれていた。

「……あのジェットコースターは、十年前、たしかに“止まった”」

 コーヒーを片手に、笹原はゆっくり語り出す。

「あれは整備不良だった。だが、事故ではなかった。センサーが誤作動を起こして、安全装置が作動しただけ……だった」

「じゃあ、命に関わるような危険は……?」

「なかった。けど、それでも俺は、怖くなった」

 笹原は自嘲気味に笑った。

「機械は完璧じゃない。なのに“人の命を預かる”なんて――その重みに耐えられなかったんだよ」

「それでも、あなたが逃げずに点検表を残してくれたから、今ぼくたちは動けています」

 そう言った一翔の声は、真っ直ぐだった。

 笹原はしばし目を閉じ、やがて棚から1冊の黒いノートを取り出した。

「これが、最後に書いた整備記録だ。“事故の原因”と“必要な対処”も全部、書いてある。必要なのは、部品交換とブレーキの圧調整だけだ」

 ノートを手渡すと、彼はふっと小さく笑った。

「俺の亡霊に、若い連中が触れるなんてな……」

 一翔はノートを受け取り、深く頭を下げた。

「……これで、ジェットコースターは走ります。あなたが最後まで点検していたこと、その記録があれば、安全を証明できます」

 笹原は立ち上がり、窓の外を見た。

「……だったら、もう一度だけ、あいつの顔を見に行くか」

 その言葉に、一翔たちは一瞬、耳を疑った。

「もしかして……?」

「ジェットコースター。あいつの軸、俺が締めた最後の一本が、まだ生きてるかどうか……自分の目で確かめたい」

 そのとき――過去の亡霊は、“味方”になった。




 七月四日――。

 朝七時、ランドの東ゲートが開く音が響いた。

 そこに現れたのは、ツナギ姿の中年男性、笹原清人。

 背筋を真っすぐに伸ばし、無言のままコースターのレールへと向かう。その背中には、十年前の時間がそのまま刻まれているようだった。

「ここだ。前に“異音”がしてたのは、この支柱のボルトだ。締め具合と、温度による金属疲労でズレが出る。肉眼じゃ見えないレベルでも、感覚でわかる」

 そう言うと、笹原は工具を構え、まるで昨日までこの場所で作業をしていたかのような手つきで、軸を締め直し始めた。

 幸平が横で、息をのむ。

「……すげぇ、音も振動も、まるで教科書通りだ。いや、それ以上だ……」

 蘭は手元で点検表を確認し、すべての項目が赤から青へと変わっていくのを見届けていた。

 そして一翔は、そっと笹原に尋ねる。

「ここの作業、最後にあなたがやったんですよね?」

「ああ。俺が“最後の一本”を締めた。それだけは間違いない。誰が何と言おうと――あのコースターは、正しく止まった」

 その言葉に、今までの不安がふっとほどけるような気がした。

 誰も知らなかった真実。

 誰も証明できなかった“無事だったこと”。

 それを、当時の整備士が今、自ら語ってくれた。

「この一言で十分です。これで、ジェットコースターは“安全だ”って言える。公式な書類じゃなくても、あなたの証言があれば説得できる」

「本当に……?」

 笹原の目に、わずかに迷いが浮かんだ。

「中学生がそんな重い言葉を背負って大丈夫か?」

「はい。だって、誰かが背負わないと、もう二度と笑顔で乗れないから」

 一翔は迷いなく言った。

 蘭が追加する。

「“安全です”って、機械だけじゃなくて、人の信頼がセットになってる。あなたがその人なら、私たちはその先を作れます」

 幸平が、ハンマーを持ってニヤリと笑った。

「……じゃ、仕上げにもう一発締めときますか、先生」

「……おい、先生って呼ぶな、気持ち悪ぃ」

 笹原がつい笑うと、3人もほっとして笑った。


 その日の夕方、ランドの倉庫裏でボルト締めの最終確認が終わる。

 部品の摩耗、レールの歪み、チェーンの張り――すべてのチェック項目に青いマーカーがついた。

 「試運転、いけるぞ」

 笹原が一言そう呟いたとき、3人の胸の奥で小さな何かが弾けた。

 達成ではない。

 これは、まだ“スタート地点”に立っただけの実感だった。


 グループチャットに一翔が投稿をする。


一翔:

『ジェットコースター、試運転できます。安全証明は“現場で整備していた人”がくれました。これからが本番です』


 それを見て、結衣が返信する。


結衣:

『安全基準、確保されたと確認しました。次は行政手続きの再提出と、安全宣言用のプレスリリース、私が準備します』


 これで、“亡霊の呪い”は完全に晴れた。

 残されたのは、走り出す“勇気”だけ。

 笹原清人はランドのゲートを出るとき、ふと振り返って言った。

「……ああ、そうだ」

 一翔が振り向くと、彼はわずかに笑って言った。

「ありがとうな。俺を……もう一度、整備士に戻してくれて」

 ジェットコースターは、もう一度走る。

 “過去”を背負って、“未来”に向けて。

 その日――虹ヶ丘ランドは、亡霊のいない、ただの“遊園地”に戻った。

(第10話 完)

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