ファンタジー・オブ・ライフ

灯守 透

ファンタジー・オブ・ライフ

僕はこの部屋から出ちゃいけない。

お母さんがそう言ったから。たぶん、出てはいけないんだと思う。

最初のころは、臭いがつらかった。

カビと汗と、何かが腐ったようなにおい。息を止めて布団にもぐって、何度も吐きそうになった。でも今は平気。

人は、どんなことにも慣れるらしい。

夜になると、お母さんがごはんをくれる。

ラーメンの残ったスープとか、湿ったポテトチップスのかけらとか。それでも、僕はそれが楽しみだった。

ほんとは前みたいに、お母さんとお父さんと三人で、熱々のコロッケを食べたい。

でも、お父さんの話をすると、お母さんは怒って、僕を叩くから、もうしない。

前に一度だけ、お父さんはどこに行ったの?って聞いたことがある。

その瞬間、お母さんの手が飛んできて、僕の頬を打った。

「お前のせいで、他の家族作って出ていったんだよ」

口の中に血が広がって、止まらなくて、怖くて泣いた。

思い出すのは、あの日のお父さんの目だ。

僕を見ているようで、まるで知らないものを見るみたいにして怒鳴った。

「誰の子なんだ、ふざけるな」

それきり、お父さんは帰ってこなかった。

――お父さんがいなくなってから、お母さんは変わっちゃった。

本当は学校に行きたい。

よっちゃんと、りくと、ゆうやと、またサッカーしたい。

休み時間にポケモンの話をして、ゲラゲラ笑いたい。

……みんな、僕のこと、まだ覚えてくれてるかな。


お母さんが帰ってこなくなって、三度目の夜。

腕の中で眠ったまま、ゴンが動かなくなって、五度目の夜。

ぬいぐるみのくたびれた耳を指でなぞりながら、僕はぼんやりと窓の外を見ていた。

夜空にぽっかり浮かんだ丸い月。

あれは、あのとき見た月だ――

お父さんとお母さんと三人で、水族館に行った帰り、車の窓から見上げた、まんまるの月。

ふと瞬きをすると、目の前に誰かが立っていた。

真っ白な長い髭を蓄えた、知らないおじいちゃん。

でも、なぜか怖くなかった。

おじいちゃんは優しく微笑んで、こう言った。

「お母さんはね、悪い魔女の魔法にかけられてしまったんだよ。

お父さんも、その魔女に連れ去られてしまった。

でも、大丈夫。君を嫌いになったわけじゃないんだ」

胸の奥で、何かがほどけた。

あの言葉――「産まれてこなければ良かったのに」――

あれも魔女のせいだったんだ。

本当は、僕のせいじゃなかったんだ。

おじいちゃんは僕の手を取って、静かに立ち上がらせた。

すると部屋の扉が、いつのまにか無くなっていた。

気がつくと、僕たちは森の中に立っていた。

灰色だった僕の世界が、緑と星明かりで染まっていく。

「さあ、行きなさい」

おじいちゃんが僕の背中を押した。

「君は、どんな魔法だって使える大魔法使いの卵さ。

悪い魔女を倒せたら、きっとまた三人でコロッケを食べられる。

あの日みたいに、笑いながら――」

瞬きをすると、おじいちゃんの姿はもうなかった。

振り返っても、あの狭い部屋も、窓も、どこにもなかった。


僕は、森の一本道を、空が明るくなるまで歩き続けた。

草の匂いと、かすかな風の音が耳を撫でる。

不思議なことに、まったく疲れは感じなかった。

――魔法のおかげ、かな。

やがて、森が途切れ、大きな門が現れた。

高さは家の屋根よりもずっと高くて、重たそうな鉄でできていた。

その前に、大人の男の人が二人、腕を組んで立っていた。

「ここは、お前みたいなガキが来る場所じゃない!」

ひとりが怒鳴るように言った。

声がびりびりと空気を震わせ、思わず体がびくっとなる。

「おい、子どもにそんな言い方すんなよ」

もう一人が呆れたように言って、僕の頭をくしゃっと撫でてくれた。

それから門を軽く押すと、ゆっくりと音を立てて開いた。

その向こうには、見たこともない世界が広がっていた。

石畳の道に、カラフルな屋根の家々。

顔が猫の人が歩いていたり、空をすいすいと飛んでいる人がいたり――

まるで、昔テレビで見たファンタジーアニメの中にいるみたいだった。

夢中で街を歩いていると、不意に背後から声がした。

「……ケイタ君?」

その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。

驚いて振り返ると、そこには懐かしい顔があった。

「ヒカルお兄ちゃん……?」

僕の声がかすれる。

「やっぱりそうだ! 久しぶりだね、ケイタ君。こんなところでどうしたの? ひとり?」

ヒカルお兄ちゃんは、昔よく近所で遊んでくれたお兄さんだ。

優しくて、よく笑う人だったけど、大きな病気で遠くの病院に行ったと、ある日から姿を見なくなっていた。

「うん……。お母さんが、悪い魔女に魔法をかけられて悪い人に変わっちゃったの。

それに、お父さんも魔女に連れていかれちゃった。

だから僕が、魔女を倒しに来たんだ」

そう話すと、ヒカルお兄ちゃんはゆっくりうなずいた。

「そうか。じゃあ、その悪い魔女を倒す旅――僕にも手伝わせてよ」

「でも……ヒカルお兄ちゃん、病気は治ったの? ずっと入院してたんでしょ?」

「もう大丈夫。元気いっぱいさ」

ヒカルお兄ちゃんは、にこっと笑った。

そして僕の手をそっと取って、言った。

「さあ、行こう。ケイタ君」

そうして僕たちは、にぎやかなファンタジーの街を歩きはじめた。


ヒカルお兄ちゃんと並んで、僕はしばらく街を歩いた。

石畳を踏みしめるたびに、不思議な香りや見たことのない風景が流れていく。

空では、小さな龍みたいな生き物が飛んでいた。

やがて、ある一軒のお店の前でヒカルお兄ちゃんが立ち止まった。

外観は、まるで丸太を転がして作ったみたいに丸っこくて、窓から中を覗くとガラクタの山がうず高く積まれている。

一言でいえば――変なお店だった。

ギィ、と音を立ててドアを開けると、奥からガサガサと音がした。

「また来たのかい」

しゃがれた声がして、棚の陰から現れたのは、カエルみたいな顔をしたおばちゃんだった。

大きな丸い目に、ぬめりのある緑色の肌。けれど、どこか優しい雰囲気があった。

「うん。この子のお母さんに魔法をかけた魔女を倒しに行きたくてさ。……あるだろ?」

ヒカルお兄ちゃんは、真剣な目で言った。

「あるよ」

カエルのおばちゃんはうなずくと、後ろの棚をごそごそと探し始めた。

やがて、埃をかぶった布をめくり、その下から水晶玉のようなものを取り出してきた。

「これを使いな。……くれぐれも、気をつけるんだよ」

ヒカルお兄ちゃんはそれを受け取ると、僕の手をぎゅっと握った。

「さあ、ケイタ君。行こう。魔女を倒しに」

そう言って、水晶にそっと触れた。

瞬間、まばゆい光が僕らを包んだ。

――その時、店のドアが思い切り開かれ、ドタバタと誰かが飛び込んできた。

「俺も行くぜ!」

声と同時に、その誰かは光の中に突っ込んできた。

眩しさの中で意識が揺れて、ふと気がつくと、僕たちは別の場所に立っていた。

さっきとあまり変わらない、けれど空気の色が少し違う街の中。

「いってて……もう、なんだよ急に!」

ヒカルお兄ちゃんが地面に倒れ込んでいて、その上には何かが乗っかっていた。

「すまねぇ、慌ててたもんでよ」

そう言って立ち上がったのは――犬の顔をした人だった。

けれど、その目の奥にあるあたたかい光と、身体からふわっと漂う懐かしい匂いに、僕は思わず声を上げていた。

「……ゴン?」

犬の顔の人は目を丸くして、それから笑った。

「お、ケイタ! この姿でもわかるのか!」

そう言うと、ゴンは僕をひょいっと抱き上げ、昔みたいに顔をぺろぺろと舐めてきた。

「ちょっ、やめてよ〜!」

僕が笑いながら顔を隠すと、ヒカルお兄ちゃんも立ち上がってにこにこしていた。

「ゴンか、久しぶりだな! 君もこっちに来てたんだな」

「ああ、ヒカル! 公園で遊んだ時以来だな。俺も魔女退治、協力するぜ!」

こうして、僕たちは三人になった。

ヒカルお兄ちゃん、ゴン、そして僕。


「で、まずは何をすればいいんだ?」

ゴンが首をかしげながら聞いてくる。犬の顔のくせに、そういう時だけ妙に真面目な顔をするから可笑しかった。

「そうだね……まずはギルドに行ってみようか。依頼を受けて、お金を稼がないと旅もできないしね」

ヒカルお兄ちゃんが、いつもの優しい笑顔で言う。僕は小さく頷いた。

ギルドっていうのは、この街中の困りごとが集まる場所らしい。それを解決すると、お金がもらえて、旅の資金になる。そうやって、僕たちは魔女の城を目指すことに決めた。

ギルドの中は、人でごった返していた。

酔っぱらった豚さんが鼻を鳴らしながらビールを飲んでいて、

羽をばさばさいわせたカラスさんが葉巻をふかしていた。

受付には、まるで絵本から出てきたみたいな綺麗なお姉さんがいて、みんなその人に夢中だった。

「どの依頼にするか、ケイタ君が決めるといいよ」

ヒカルお兄ちゃんが、壁いっぱいに貼られた紙の束を指さした。

「うーん……これがいい」

僕が指差したのは、金色の枠に囲まれた一枚だった。

『勇者の剣を抜け』――そう書かれていた。

受付で依頼の手続きを終えると、僕たちは剣が祀られている場所へ向かった。

広場には人が集まっていて、順番に一本の剣を引き抜こうとしていた。

「この剣は、遠い昔に女神様が刺したんだってさ。いつか現れる“本物の勇者”が抜くときまで、ここで待ち続けてるらしい」

ヒカルお兄ちゃんが、剣のほうを見つめながら静かに言った。

やがて、僕たちの順番がやってきた。

「さあ、行っておいで、ケイタ君」

「がんばれよ、ケイタ!」

ふたりが、背中を押してくれた。けれど――

「……違うんだ。僕じゃなくて、この剣はふたりに持っててほしいんだ」

僕は声をふるわせながら言った。

「僕は勇者なんかじゃない。でも、僕にとっての勇者は……ヒカルお兄ちゃんと、ゴンなんだ。だから」

「……そういうことなら!」

ゴンが立ち上がり、ずんずんと剣のもとへ歩いていった。

「おい、待てって!」

ヒカルお兄ちゃんが慌てて止めようとするけれど、ゴンはもう剣の柄をがっしり掴んでいた。

「ぬぬぬぬぬっ……!」

白い毛が赤く染まりそうなくらい力を込めたけれど――

「……くぅ〜ん……ダメだ〜!」

ぺたんとその場にへたり込むゴン。

「じゃあ、次は僕の番かな」

ヒカルお兄ちゃんが一歩前へ出ると、静かに剣に手を添えた。

その瞬間――

ゴォォン、と音を立てて、剣が抜けた。

広場中に歓声が湧いた。

「勇者だ! 勇者様が現れたぞー!」

人々が口々に叫び、鐘が鳴らされた。

ヒカルお兄ちゃんは剣をおさめると、僕の前に膝をついた。

そして、まっすぐな目で僕を見て、こう言った。

「僕が、ケイタ君の勇者になろう。

暗い道をまっすぐ照らす、光のような存在になりたいんだ」

――そうして僕たちは、正式に“勇者のパーティ”になった。

報酬は驚くほどの額だった。

僕たちは装備をそろえた。

ゴンには大きな斧を、僕には魔法の杖を。

そして、三人分の防具も買った。

夜、僕たちは屋台のラーメン屋に立ち寄った。

湯気の立つどんぶりに、熱々の麺。

本当に久しぶりに食べた、“ちゃんとしたラーメン”。

「うまっ!」

「スープがしみるぜ〜」

「……あったかいね」

三人で顔を見合わせて笑った。


僕たちは依頼をこなしながら、街から街へと少しずつ旅を進めていった。

「ヒカルお兄ちゃん、雨だよ!」

僕がそう言うと、ヒカルお兄ちゃんが空を仰いで振り返った。

「そうだね、ケイタ。そろそろ雨宿りしようか」

「任せて!」

僕は魔法で大きな木の枝を組み合わせ、頭上に葉っぱの屋根を作った。

「ほんと便利だなぁ、魔法ってのは!」

ゴンが感心したように屋根を見上げて言う。

「そろそろ暗くなりそうだし、晩ごはんを探してくるよ。今日はこの辺で野宿だね」

そう言って、ヒカルお兄ちゃんは森の奥へと歩いていった。

「俺も手伝うぜ。ケイタはここで待っててくれ!」

ゴンがそう言って後を追いかけていく。

雨の音だけが残った。

僕は一人、木の屋根の下でしとしとと降る雨を眺めていた。

気がつくと、目の前にひとりの女の人が立っていた。

「……あの、濡れちゃうよ? こっち来なよ」

僕が声をかけると、彼女はゆっくりと頷いて、僕の隣に腰を下ろした。

白いローブを羽織った、綺麗な人だった。

「何してたの?」

僕が尋ねると、彼女は遠くを見つめたまま、ぽつりと答えた。

「人を探してたの」

「へえ……。僕はね、お母さんとお父さんを助けるために旅をしてるんだ」

「お母さんとお父さんは、どんな人?」

「優しいよ。お母さんは、寝る前に僕が怖いって言うと、隣で本を読んでくれるの。お父さんは、休みの日に公園で一緒に遊んでくれるんだ」

「……優しいご両親なのね」

「うん。だから、助けなきゃって思ってるんだ。あのふたりを、優しかったころのままに戻したい」

そのとき、彼女は静かにこう言った。

「……あなたのせいじゃないの?」

僕は、思わず彼女のほうを振り返った。

そこにいたのは、さっきまでとまったく違う姿だった。

白いローブは黒く染まり、綺麗だった顔は、まるで悪夢のように恐ろしく歪んでいた。

「あなたが産まれてこなければ、二人はずっと優しいままだったのよ。あなたみたいな汚れた子がいたから、二人は壊れてしまった。全部、あなたのせい――そう、あなたのせいで」

言葉が、刃物のように僕の胸を裂いた。

視界が真っ暗になった。

その瞬間――

「おらぁあああああああ!!」

ゴンの叫び声が、雨音を切り裂いた。

斧を振りかざしながら突進してくる。

その後ろには、ヒカルお兄ちゃんも続いていた。

黒いローブの女は、獣のように叫び声をあげて、霧のように姿を消した。

ヒカルお兄ちゃんが駆け寄ってきて、僕を強く、強く抱きしめてくれた。

腕の中はあたたかくて、安心の匂いがした。

「大丈夫。あれは魔女だ。何も聞かなくていい。君は、僕の声だけを信じていればいい。

心のないものの言葉なんて、意味を持たないから」

ヒカルお兄ちゃんは、それだけを言って、僕をぎゅっと抱きしめ続けた。

「……魔女が姿を現したってことは――」

ゴンが、真剣な顔で空を見上げながら言った。

「魔女の城が、近づいてきてるってことだな」


ある日、魔女の影響で活気を失った、寂れた街のギルドで――

僕は一枚の奇妙な依頼書を見つけた。

「卵を育ててほしいです」

幼い子供の字で書かれた、色鉛筆のような丸い文字。

壁に並ぶ「盗賊討伐」や「竜の鱗回収」といった物々しい依頼の中で、それはあまりにも場違いで、目を引いた。

「ケイタ。この依頼、受けてみようか」

ヒカルお兄ちゃんが僕の肩越しにのぞき込み、依頼書をそっと剥がした。

――そして、僕たちは依頼主の家を訪ねた。

家の扉を開けたのは、やつれた顔の女の人だった。目の下には濃い影があり、声には疲労と苛立ちが混ざっていた。

「……なんの用ですか?」

ヒカルお兄ちゃんが依頼書を差し出す。

「あの子ったら……! あんな卵、捨てなさいって言ったのに……!」

女の人は苛立ったように顔を歪めた。

「駄目です。僕らはもうこの依頼を受けました。卵を捨てられたら困ります」

ヒカルお兄ちゃんが落ち着いた声で返す。

女の人は大きく息を吐いて言った。

「うちは……魔女が放った猛獣に畑を荒らされて、野菜も全部ダメになって。それに、父親だって……。もう働き手がいないの。こんな状況で卵なんて……育てられるわけないのよ。それなのに、あの子ったら……森で拾ってきた卵を、宝物みたいに抱えて……」

声が震えていた。

怒りと悲しみと、いろんな感情が混ざって、女の人の表情を曇らせていた。

ゴンが黙って僕の肩に手を置いた。その手は、思ったよりもあたたかかった。

「……猛獣の件は、俺とこの犬が片付けましょう」

ヒカルお兄ちゃんが真っ直ぐ女の人を見て、はっきりと告げた。

「犬ってなんだよ。もっとこう……呼び方ってもんがあるだろが」

ゴンが少しむくれながら口を尖らせる。

「野菜と卵のことは、ケイタがなんとかしますよ。僕たちは三人で旅してますから、得意分野ってのがあるんです」

女の人は戸惑いながら、かぶりを振った。

「そんな……でも、あなたたちに報酬なんて……大金なんて、用意できないわよ」

「道すがら、聞きました。あなたの家の野菜で作ったシチューは、このあたりで一番美味しいって」

ヒカルお兄ちゃんはふわりと笑った。

「そんなもので、どうして……?」

「目の前で困っている人がいたら、見て見ぬふりなんてできない性格なんです。

それに、後悔っていうのは、一生引っかかるから」

それを聞いて、僕とゴンは思わず顔を見合わせて、吹き出した。

「まったく、相変わらずカッコつけるよなぁ……」

ゴンが肩をすくめる。

「……じゃあ、任せたよ」

ヒカルお兄ちゃんとゴンが僕の肩を軽く叩いて、振り返らずに森へ向かって歩き出した。

ふたりの背中が、雨上がりの光の中で、少しだけ大きく見えた。


「畑を、見せてください」

僕がそう言うと、女の人は少し驚いた顔で僕を庭に案内してくれた。

そこには、土が荒れ、枯れた野菜が無惨に転がる畑があった。空気には猛獣の気配が残っていて、とても作物が育ちそうな場所には思えなかった。

僕は、そっと目を閉じた。

――どうか、荒らされる前の畑に戻りますように。

心からそう願いながら、魔法をかけた。

すると、畑にふわりと光が降りた。

途端に風が吹き抜け、汚れた土がほぐれ、枯れた野菜の代わりに新しい芽が顔を出し始めた。

「……こんな魔法、見たことない……ほんとに、畑が……元通りに……」

女の人は、土の香りに包まれながら涙をこぼした。

「僕、心から願ったことなら、世界のルールを壊さない限り、だいたい魔法でできます。

でも、誰かを傷つける魔法は、使えたことがなくて」

僕がそう言うと、彼女は微笑んだ。

「優しい子なのね」

そう言って、家の奥へと僕を案内してくれた。

その部屋の扉を開けると、毛布にくるまり、卵をぎゅっと抱きしめたままの女の子がいた。僕と同じくらいの年に見えた。

「メイ、挨拶しなさい」

お母さんが言ったが、女の子は顔をそむけた。

「……私じゃ駄目みたいね」

お母さんが苦笑する。

「少し、ふたりだけで話してもいいですか?」

僕がそう言うと、お母さんは静かにうなずいて部屋を出て行った。

「……依頼書、読んできてくれたの?」

女の子――メイが、布団の中から僕を見た。

「うん」

「卵、育ててくれるの?」

「うん」

「……捨てたりしない?」

「しないよ」

僕はゆっくりと頷いてから、手をかざして魔法を使った。

“人の心をあたためる”魔法。

「……なんか、あったかい」

メイが不思議そうな顔で、魔法の光に包まれた手を見つめた。

「ちょっと前の街で、ゴンと一緒に本を読んだんだ。

それでわかったんだけど、その卵、龍の卵だよ」

「龍……?」

「うん。龍ってね、親が子育てをしない生き物だから、数がすごく少ないんだって。

そして、その卵を拾った人の心で、良い龍になるか、悪い龍になるかが決まるんだよ。

だから、心をあたためる魔法をかけたんだ」

「……良い龍になるといいね!」

メイがパッと笑ったその瞬間――

卵が、光り始めた。

「えっ、ちょっと……!」

慌てて僕たちは卵を外に運び出した。強い光に包まれ、思わず手を離すと、卵の殻が空に溶けるように砕けた。

光が消えたとき、そこには家よりも大きな、青い鱗をもつ美しい龍が立っていた。

『育ててくれてありがとう。お礼に、私の背に乗せてあげよう』

その龍は、やさしい声でそう言った。

――そして、僕たちは龍の背に乗って、空を旅した。

広がる森、川のきらめき、遠くの水平線、鳥たちよりも高く飛びながら、僕らはたくさん話をした。

「昔ね、僕も犬を育てたんだ」

「犬?」

「うん。お母さんとお父さんが、小さいうちに命の大切さを知りなさいって、迎えてくれたんだ。

名前はゴン。すごく可愛かったんだよ」

「私もね……卵を拾ったとき、可哀想って思ったの。けど、お母さんに言われたの。

“責任を取れないなら、拾っちゃいけない”って」

「僕のお父さんとお母さんも、同じことを言ってた。

命を預かるってことは、責任を背負うってことなんだって。

気持ちだけじゃ、育てられないって」

『私は、あなたに育ててもらってよかった。

おかげで、こんなにきれいな龍になれた』

龍はそう言うと、僕たちを家に送り届け、再び礼を言って、夕焼けの空に溶けていった。

その後、ヒカルお兄ちゃんとゴンも、猛獣退治を終えて帰ってきた。

「この子が、ゴン……?」

メイはゴンを見て、目をまるくした。

「……話と違う!」

でもすぐに、ふたりは笑い合っていた。

気がつけば、ゴンとメイは並んで畑を眺めていた。

その夜、五人で食べたシチューは――

あたたかくて、少しだけ、昔の味がした。

ヒカルお兄ちゃんは「これこそ最高の報酬だ」と笑い、

僕は、ふと――

お父さんとお母さんと食べた、あの食卓の風景を思い出していた。


それから、僕たちは旅を続けた。

数えきれない街を通り、困っている人たちを助け、たくさんの「ありがとう」と「さよなら」を重ねた。

そして今、ついに――

魔女の城の前にたどり着いた。

「やっとか。……長かったな。けど、楽しかったぜ」

ゴンが、少し寂しそうに笑った。

「うん。楽しかった」

ヒカルお兄ちゃんが僕の肩に手を置く。

「行こう、ケイタ。お父さんとお母さんを、迎えに行こう」

僕はこくりと頷いた。

城の中は静かだった。

足音だけが、石の廊下に響いた。

幾つもの扉をくぐり、試練を越えて、たどり着いた一番奥の部屋。

そこに、魔女はいた。

黒いローブをまとい、冷たい美しさを纏ったその人は、微笑んで言った。

「会いたかったわ、ケイタ」

次の瞬間――

魔女が手を伸ばしたとたん、濃い闇が僕らを包んだ。

視界が閉ざされ、世界が歪む。

気づけば、僕は、あの部屋にいた。

カーテンは閉め切られ、空気は淀み、床にはカップ麺の空き容器が転がっている。

ぬいぐるみのゴンが僕の腕の中にいる。顔を心配そうに舐めてくる。

――「あいつさえ、産まれてこなければ……!」

壁の向こうから、お母さんの怒鳴り声が響いた。

その声が、魔女の声と重なって聞こえる。

「お前のせいで、二人は壊れたのよ」

「全部、お前が産まれてきたせい――」

でも、違う。僕は、知ってる。

運動会に来てくれたお父さん。

「さすが俺の子だな」と言って、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれた。大きな、暖かい手だった。

お母さんの誕生日に、一緒に作ったハンバーグ。

「大好きよ」と言って、僕のおでこにキスをしてくれた、あの人の優しい声。

三人で手をつないで歩いたショッピングモール。

せーの、って僕を持ち上げてくれた。

あのときの笑い声。あのときの幸せ。

これは全部、本当にあった。

全部、僕の宝物だ。

僕は、ゴンの頭を撫でながら、月を見上げた。

窓の外には、あの日と同じ丸い月が、夜空に浮かんでいた。

――「ケイタ! ケイタ!!」

遠くで、ヒカルお兄ちゃんの声がする。

「しっかりしろ! お前なら大丈夫だ!」

そうだ。

僕はここに、絶望するために来たんじゃない。

優しい二人を、取り戻すために来たんだ。

「返してよ!!」

僕が叫ぶと、胸の奥から強い光があふれた。

黒い闇が、音を立てて砕けていく。

そして気づいたとき、僕はまた、魔女の前に立っていた。

隣には――

ヒカルお兄ちゃん。

そして、ゴンがいた。


「ありがとう、ケイタ。君が闇を祓ってくれたおかげで、自由になれたよ」

ヒカルお兄ちゃんが、優しい目で僕を見て微笑んだ。

「おらあっ!」

ゴンが魔女の足に噛みついて、動きを封じた。

「放しなさい、この汚らわしい犬め!」

魔女は醜く叫ぶ。

「心を捨てた者に、肉体などいらない」

ヒカルお兄ちゃんの声は、冬の空気のように冷たく静かだった。

彼は一歩踏み込み、剣を真っ直ぐに突き立てた。

魔女の悲鳴が響いた。

黒いローブが風にほどけるように砕け散り、やがて塵と光になって消えていった。

沈黙のあと――

奥にあった大きな扉が、静かに開いた。

その先には、やわらかな光が満ちていた。

光の中を、お父さんとお母さんが手をつなぎながら歩いている。

「……行っておいで」

ヒカルお兄ちゃんが、そっと背中を押してくれた。

「二人は?」

僕が振り返ると、ヒカルお兄ちゃんは少し寂しそうな笑みを浮かべて言った。

「僕らはここまでだ。……僕は、君の光になれたかな?」

「大丈夫だケイタ! 俺たちも、きっとあの光の先で待ってる」

ゴンがそう言って、いつものように僕の背中を叩いた。

「だから、振り向くな。まっすぐ、行ってこい!」

僕は、二人の顔をしっかりと見つめて言った。

「本当にありがとう。……ヒカルお兄ちゃん、ゴン。大好きだよ」

「僕も、大好きだ」

「俺もだ、ケイタ!」

二人は笑って、手を振ってくれた。

僕は涙を拭いて、光の中へ走った。


――


「……くさ」

女が呟く声が、重たい音とともに響いた。

扉の鍵が開き、腐臭が混じった空気が廊下へと流れ出す。

女は顔をしかめながら、奥の部屋の扉を開けた。

中には、ゴミに埋もれたまま、動かない子どもと、白く汚れた犬の亡骸があった。

「……チッ」

女は軽く舌打ちし、無言で扉を閉めた。

部屋はまた、暗闇に沈んだ。

カーテンの隙間から、夜の月だけが、静かにその中を照らしていた。


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