ちいさな賢者の大冒険
獬豸
第1話:嵐の予兆
夜の帳が降りる頃、その屋敷は一層深い静寂に包まれる。蔦が絡みつく石壁は月明かりをぼんやりと反射し、まるで眠りについた巨人のようだ。人里離れた、忘れ去られたような場所に佇むその古びた館で、彼女はひっそりと時を重ねていた。
リリーは、小さな身体を揺椅子に預けていた。薄暗い書斎には、天井まで届く本棚が幾重にも連なり、埃を被った書物が無数の瞳のように彼女を見つめている。膝の上には、開かれたままの分厚い羊皮紙の古書。ぱらぱらとページをめくる指先は、まるで夜風に揺れる木の葉のように繊細だ。だが、その瞳の奥には、数千年もの時を刻んできたかのような、深く澄んだ知性が宿っている。
彼女の正式な年齢を知る者は、この世にはもう誰もいない。見た目はせいぜい七つか八つ。色素の薄い柔らかな髪は、夜の闇に溶け込みそうなほど静かな色をしていた。誰かが彼女を「幼女」と呼ぶたびに、リリーは内心で小さくため息をつく。幼女、か。確かに、この姿はそうとしか見えないだろう。しかし、彼女の記憶の中には、遠い太古の文明の興亡も、忘れ去られた魔法の法則も、はっきりと刻まれているのだ。彼女は、ただの幼子ではない。この世の理を深く識る、千年の賢者であった。
今夜、リリーは古い星図を調べていた。この屋敷の地下に眠る「時の歪み」が、最近になって妙な揺らぎを見せ始めたからだ。それは、過去から、あるいは未来から、何かを呼び込む兆候かもしれない。あるいは、ただの気のせいか。しかし、長きにわたる経験が、リリーに確かな予感を告げていた。世界の均衡が、今、微かに傾き始めている。
ゴン、と鈍い音がした。
屋敷の玄関扉を叩く音だ。こんな夜更けに、訪れる者などいるはずがない。リリーは小さく首を傾げた。普段であれば、自らを隠匿し、世俗との関わりを避ける彼女にとって、それは歓迎すべきことではなかった。彼女は平和を愛し、静寂を何よりも尊ぶ。だが、胸の奥で、微かな好奇心がさざ波のように広がる。
「さて、どなたかしらね」
独りごちて、リリーはそっと椅子を降りた。床に届くかどうかの長いローブを引きずるようにして、暗い廊下へと足を踏み出す。その足音は、屋敷の静寂の中に吸い込まれるように、ほとんど聞こえない。玄関ホールは、書斎にも増して深い闇に沈んでいた。窓は厚いベルベットのカーテンに閉ざされ、昼間の光さえも通さない。古木の床が小さく軋む音だけが、彼女の存在をかろうじて示している。
再び、ゴン、ゴン、と鈍い音が響く。先ほどよりも明らかに、間隔が短く、そして焦燥感が滲んでいる。扉の向こうにいる者は、相当に苛立っているか、あるいは切羽詰まっているかのどちらかだろう。
リリーは、指先で顎を撫でた。千年の昔、彼女が生きていた時代には、こんな風に無遠慮に他所の扉を叩く者も少なかった。いや、そもそも、この屋敷の存在を知る者自体が稀だったのだ。彼女が知る限り、最後にこの扉が開かれたのは、二百年以上前のこと。一人の旅の吟遊詩人が、嵐を避けて一夜の宿を求めた時だった。その吟遊詩人は、翌朝には去り、二度と戻らなかった。
扉の向こうの人物が、ついに怒鳴り始めた。低い、けれどよく響く男の声だ。
「おい、誰かいるんだろう!? 開けろ、さもないと…さもないと、どうなるか、わかってるな!?」
脅し文句としては、あまりにも陳腐だ。リリーは内心で小さく吹き出した。だが、こんな夜更けに、しかも人里離れたこの場所までわざわざ来て、ここまで高圧的な態度を取る。ただの道に迷った者ではなさそうだ。もしかしたら、この屋敷の秘密に、あるいは「時の歪み」に関わる何かを知る者かもしれない。
リリーは、小さな手のひらをそっと扉に触れさせた。ひんやりとした古木の感触が伝わる。この扉は、ただの木ではない。特殊な結界が張られ、普通の人間には開くことすらできないはずだ。もちろん、彼女が「賢者」としてその力を解放すれば、いとも容易く開くことはできる。問題は、開くべきか否か、だ。
「……ま、いいわ」
独りごちて、リリーは諦めたように肩をすくめた。好奇心というものは、時に賢者すらも惑わす。それに、この屋敷に踏み入ろうとするほどの輩だ。ただ門前払いにしておいては、後々厄介になる可能性もある。彼女の平和が脅かされる前に、事態の収拾を図るのが賢明だろう。
彼女は、扉に手を触れたまま、小さく呪文を唱えた。それは、音にもならない、古の言葉の響き。リリーの指先から、淡い光が扉の木目に沿って走る。結界が、ゆっくりと解けていく。
カチャリ、と古びた閂が外れる音がした。
次の瞬間、扉が勢いよく内側に開かれた。
そこに立っていたのは、二人の男だった。一人は大柄で、熊のような体躯。粗末な革鎧を身につけ、顔には無精髭が生えている。もう一人は、痩せぎすで、どことなく神経質そうな印象だ。顔色は悪く、顔には傷跡がいくつか見えた。二人とも、手には錆びた剣を携え、その切っ先を遠慮なくリリーへと向けていた。
「てめぇ…なんだ、ガキか」
大柄な男が、剣を下げるどころか、さらに切っ先を押し出す。その表情には、苛立ちと、僅かな失望が混じっていた。彼らはてっきり、この屋敷の主が、何か価値あるものを隠し持っているとでも思っていたのだろう。こんな幼い子供が出てくるとは、予想外だったようだ。
リリーは、その剣の切っ先をちらりと見やった。錆び付いてはいるものの、刃はそれなりに研がれている。ただの追剥ぎか、あるいは落ちぶれた傭兵崩れか。どちらにせよ、賢者である彼女にとっては、取るに足らない存在に過ぎない。しかし、彼らが何を求めているのか、それを知ることに、わずかながら興味が湧いた。
「こんな夜更けに、何用かしら?」
リリーは、感情のこもらない、平坦な声で尋ねた。剣を突きつけられているにも関わらず、その顔には一切の動揺が見られない。むしろ、どこか退屈しているような、そんな表情だった。
痩せぎすの男が、不気味な笑みを浮かべた。その顔の傷跡が、ひきつるように動く。
「ガキとはいえ、こんな屋敷に一人でいるたぁ、随分と度胸があるじゃねぇか。まぁ、運が悪かったな。俺たちはな、ちょっと探し物をしてるんだ。この屋敷にあるはずの、とあるモンをな」
「探し物?」
リリーは首を傾げた。この屋敷には、数えきれないほどの古道具や書物、そして彼女自身の秘密しか存在しない。彼らが何を「探し物」と呼んでいるのか、皆目見当がつかなかった。彼女の知識の範疇では、この屋敷にそうした盗賊が喉から手が出るほど欲しがるような、特定の財宝の類は存在しないはずだった。
「おかしなこと言うわね。この屋敷にあるのは、埃と、それから…」
彼女が言葉を続けようとした瞬間、大柄な男が痺れを切らしたように叫んだ。
「だまれ! いいか、ガキ。とっとと俺たちの探し物を教えろ。この屋敷のどこにあるか、吐け! さもなきゃ、痛い目見ることになるぞ!」
その言葉とともに、男が剣を振り上げる。銀色の切っ先が、わずかに空気を切り裂く音を立てた。その動きは粗雑だが、力任せに振り下ろされれば、幼い彼女の身体ではひとたまりもないだろう。
リリーは、ゆっくりと、しかし確実に、彼の剣の動きを目で追っていた。その視線は、まるで世界中の時間の流れを止めてしまうかのように、静かだった。彼女の脳裏には、彼が剣を振り下ろす軌道、そこから生じる風圧、そしてその後の彼の重心の動きまで、すべてが完璧に描かれていた。彼らの意図は、ただ脅すこと。しかし、賢者は無駄な争いを好まない。
彼らが何を探しているのかは知らないが、このままでは不毛な会話が続くだけだ。それに、無駄な暴力を振るわれるのもごめんだ。
リリーは、小さくため息をついた。
「やれやれ。力ずくで解決しようとするのは、いつの時代も変わらないのね」
彼女は、右手をゆっくりと上げた。その手のひらは、まるで鳥の羽のように小さく、華奢だった。しかし、その掌から放たれる微かな光は、暗闇に慣れた男たちの目を、一瞬だけ眩ませるには十分だった。その光は、神秘的でありながらも、決して攻撃的な輝きではなかった。むしろ、見る者の心を穏やかにするような、そんな不思議な色合いを帯びていた。
「な、なんだ…!?」
大柄な男が、思わず目を細めた。その隙を、リリーは見逃さない。彼女はただ、静かに、そして毅然とした声で言い放った。
「あなたたちの探し物が何であれ、この屋敷にはないわ。ただ、」
リリーの声が、ホールに響き渡る。その声は、普段の平坦なトーンとは異なり、どこか遠い昔の賢者の厳かさを帯びていた。まるで、屋敷の壁が、彼女の言葉に耳を傾けているかのようだ。
「あなたたちには、ここから出て行ってもらうわ」
彼女がそう言い放った瞬間、ホール全体が、微かに、しかし確かに震えた。床に落ちていた枯れた木の葉が、ふわりと宙に舞い上がる。書斎の奥からは、古書が棚から滑り落ちるような音が聞こえてきた。それは、決して物理的な力によるものではなく、屋敷に満ちる魔力が、彼女の意志に応えて起動した証だった。
男たちは、何が起こったのか理解できずに、ただ立ち尽くしていた。大柄な男は、剣を構えたまま固まり、痩せぎすの男は恐怖に目を見開いている。彼らの顔は、さっきまでの傲慢な表情は消え失せ、純粋な恐怖に歪んでいた。
そして、彼らの足元から、淡い緑色の光が螺旋を描くように立ち上り始めた。光はすぐに彼らの身体を包み込み、まるで繭のように彼らを締め上げていく。それは物理的な拘束ではなく、彼らの存在そのものを、屋敷の外へと押し出す力だった。
「ぐ、うわあああああああ!」
大柄な男が、苦悶の声を上げた。まるで透明な巨大な手が、彼らの身体を圧迫しているかのようだ。剣は音を立てて床に落ち、男たちはもがき始めた。
「な、なんだこれ…!?」
痩せぎすの男が、震える声で叫ぶ。彼らの悲鳴は、ホールの奥へと吸い込まれていくばかりで、誰にも届かない。
リリーは、ただ静かにそれを見ていた。彼女の表情には、怒りも、憐れみも、一切見て取れない。まるで、目の前で起こっていることが、当然の現象であるかのように。彼女の役目は、この屋敷の秩序と平和を守ること。そして、その秩序を乱す者には、容赦なく「排除」の魔法を適用する。
「ここには、あなたたちの求めるものはないわ。そして、あなたがたのような粗暴な人間が、踏み込んできて良い場所ではない」
リリーの声は、静かでありながら、ホール全体に響き渡る。まるで、屋敷そのものが彼女の言葉に呼応しているかのようだった。
そして、彼女が手のひらを下へと振り下ろした、その瞬間。
光の繭に包まれた男たちは、まるで透明な弾丸のように、玄関扉の開いた向こう側へと勢いよく吹き飛ばされた。彼らの悲鳴は、瞬く間に夜の闇に吸い込まれ、遠ざかっていく。
ドン! と、何かが遠くの森に叩きつけられるような鈍い音が響いた。もはや彼らの声は聞こえない。
リリーは、ゆっくりと手のひらを下ろした。彼女の掌からは、もう光は発せられていない。開け放たれた玄関扉の向こうには、ただ夜の闇が広がるばかりだ。
「やれやれ。静かだった屋敷も、これでは騒がしくなるばかりね」
彼女は再び小さくため息をつき、静かに扉を閉めた。ガチャン、と重い音がして、再び閂が閉まる。もちろん、彼女の魔力によって、だ。物理的な鍵をかける必要はない。彼女の意思こそが、この屋敷を護る強固な結界となるのだから。
これで、今夜はもう誰も訪れることはないだろう。彼女はそう確信していた。
リリーは、書斎へと戻る廊下を歩き始めた。再び静寂が戻った屋敷の中、彼女の小さな足音だけが、ひっそりと響く。
書斎の揺り椅子に戻ると、先ほど開いていた古書は、風でページがめくられていた。彼女は、何事もなかったかのようにそのページを元に戻し、再び星図を眺め始めた。
「しかし、あの男たち…一体何を求めていたのかしら?」
リリーは、遠い目をして、ぼんやりと天井を見上げた。彼らが「探し物」と呼んだものが何なのか、未だに検討もつかない。だが、彼らがこの屋敷に踏み込もうとした動機は、おそらく単なる強盗や追剥ぎのそれとは違うだろう。彼らの言葉の端々に、何か特定のものを探し求める、切迫した響きがあった。
「時の歪み」が揺らぎ始めていることと、何か関係があるのだろうか。
リリーの脳裏に、いくつもの仮説が浮かび上がり、そして消えていく。千年の知性は、どんな小さな手がかりも見逃さない。しかし、情報が少なすぎる。
彼女は、古書から目を離し、書斎の隅に置かれた、埃を被った地球儀に目をやった。それは、遥か昔の、まだ大陸の形が今とは違っていた頃の地球儀だ。その表面には、忘れ去られた文明の跡が、まるで傷跡のように描かれている。
「この静寂が、いつまでも続くとは思えないわね」
リリーは呟いた。彼女の長きにわたる経験が、この出来事が、これから起こるであろう大きな変化の、ほんの序章に過ぎないことを告げていた。
千年の賢者は、再びやってくるであろう「嵐」の気配を、静かに感じ取っていた。そして、その嵐が、彼女の長きにわたる隠遁生活に、どのような波紋を投げかけるのか、その答えを求めて、彼女は静かに思索を深めるのだった。
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