幻想花火

まくつ

真琴ファイヤーワークス

「蜃気楼。不思議だよね。遠くのものが近くに見えて、小さなものが大きく見える」


 無邪気な笑顔でそんな風に言った君があんまり眩しいものだから、私は曖昧に首肯して目を逸らした。視界の果てに映る虚像はやけに遠くて、私にはとても抱えきれないように思えた。

 ゆらゆら揺れる逆さまの幻。それはどこか私という人間に似ているような気がして、やっぱり目を逸らしてしまう。思うに、自己嫌悪のようなものだ。私は溜息を吐いた。

 鼓動は高鳴っているというのに、気分はずっと沈んだままだ。隣にいるはずの君を、私は直視することができない。行き場を失った視線は眼下の海へと吸い寄せられていく。

 踊る水面に跳ね返った太陽の光が眩しかった。


  ◇


 全てが〝普通〟である人間など当たり前のことながら存在しないし、人間というのは誰しもちょっとした〝異常〟を抱え込んで生きていく。それこそが〝普通〟の人間である。そんな常識を加味した上でも、私はやっぱり自分のことを〝普通〟だとは思えなかった。


 まず頭が悪かった。機転が利かないし要領が悪い。注意力が散漫で、周りのことが見えていない。端的に言って、無能という言葉がよく似合っていた。

 運動のほうもからっきしだった。特に球技がいけない。一つの動作を意識したら他が疎かになってしまうのだ。仮病を使って体育を休んだ回数は、もはや覚えていない。そんな自分が嫌いで、一層自己嫌悪に陥るのを繰り返していた。

 おまけに容姿も、微妙だった。これはメイクを勉強することで人前に出られる程度まではリカバリーできるのだが、毎晩メイクを落とした自分を見るとかえって自己嫌悪が加速した。


 自分のことが、嫌いだった。何をしても平均以下。人間は生まれながらにして不平等だ。身長も性格も顔面も知能も、噂によると七割程度は遺伝子で決まってしまうらしい。連続したヌクレオチド鎖の二重螺旋構造で人生の七割が決まるなんて、滑稽にも程がある。残りの三割で逆転しようなんて気はさらさら起きなかった。


 与えられたハズレの条件を十六年と五カ月過ごした果てに訪れた今日。高二の八月三十日、時刻は午後六時。一番暑い季節の太陽は沈みかけとはいえ強い日差しを放ち、焦げた私の肌を容赦なく突き刺す。無能な日焼け止めに心の中で悪態をついた。帽子を深くかぶりなおして、手元のスマホに目を落とす。電波はひたすら弱かった。

 その時だった。


真琴まこと、お待たせ! ごめんね、待った?」


 鈴のような声が私の鼓膜を軽く揺らした。その声は風鈴みたいに不思議な響きを孕んでいて、何故だか暑さが一瞬頭の隅に追いやられる。私は静かに顔を上げた。茜空の下によく映える白いワンピースと麦わら帽子の少女が、私の方に駆けてくる。

 やがて私の目の前で止まった少女は、肩で息をしながら、傍のベンチに腰掛けた。私は鞄から水筒を取り出して彼女に差し出しながら、答える。


「大丈夫。私も今来たところだから」

「それならよかった。一年ぶり? 会えて嬉しい!」


 額に玉のような汗を浮かべる少女は、暑さを感じさせない快活な顔で笑った。そのまま私が手渡した水筒の中身を一気に呷る。その顔が眩しくて、心臓が跳ねた。

 私なんかとは違って、何の比喩でもなく幻のように可愛らしい女の子。麦わら帽子がよく似合っていて、まるで夏の花火みたいな顔で笑う、私の大切な友達。


 澪。それが彼女の名前だった。


 澪は可愛い上に優しい。性格は私よりずっと明るい。私は到底彼女に釣り合わないのに、そんな私を認めてくれる大切な人。


 だからこそ、傍で澪を見ていると息が苦しくなる。

 私は澪に、どうしようもない罪悪感を抱いていた。私は〝普通〟じゃない。私は〝異常〟なのだ。彼女を見ていると、否応なしにそのことを実感させられた。

 それは彼女の所為ではない、私自身の問題だ。それこそが私が持つ〝異常〟の一つ。それは『彼女を好きになったこと』。

 同性愛は何もおかしなことじゃない。そういう話ではないのだ。ただ、私には彼女を好きになる資格がない。絶対に好きになってはいけなかった。それだけのこと。

 それなのに、私は澪を――愛してしまった。

 私の隣で無邪気に笑う澪。その顔を見ると胸が詰まる。だけど今日は、一年ぶりの再会だ。そんな事を気にしている暇はない。罪悪感を押し殺して、私は澪に声をかけた。


「それじゃ、そろそろ行こうか」

「うん!」


 私は澪の手をとって立ち上がる。細くて白い手は仄かに温かくて、心臓は早鐘を打った。それを気取られないように、澪の手を少し強く握る。そうして私たちは歩き始めた。


  ◇


「あー、暑い」


 呪詛にも似た台詞が思わず口から零れた。八月だから当然ではあるのだけれど、流石にこれは堪える。殺意すら感じる暴虐の太陽に肌を焼かれながら、夕暮れ時の海岸線沿いを私たちは歩いていた。

 清々しいまでの快晴。深紅の夕日に照らされる海は真っ赤に燃えている。潮騒が耳をくすぐり、潮風が髪を撫でていく。夏という言葉がよく似合う、そんな天気だ。


「さすがに酷いね、これは」


 澪も耐えかねたように扇子をパタパタさせながら言った。

 泣き言を垂れながら、私たちは防波堤に沿って歩を進めていく。私たちの二つ以外に人影はない。波と風と、それから足音。それだけしか存在しない世界はやけに静かに感じる。

 けれども。隣には澪がいる。それだけで私の鼓動は強く鳴り、心をざわざわと揺らすのだった。


 他愛もない会話に花を咲かせながら歩くこと十数分。私たちはテトラポットが並ぶ海岸線に至る。夕方という時間帯も相まって、私たち以外には誰もいない。


「人が全然いないよ」

「ここは外浦だから。波が強くて危ないしゴミも多いから、海水浴客はみんな内に行くの」

「へー、なるほど。そういうものなのか」


 澪は感心したように手をポンと打った。日本海に突き出す半島上に位置するこの町を一言で表すなら、ド田舎である。腐るほどある海岸で、わざわざ泳ぎにくい場所を選ぶ物好きなどいない。


「でもさ」


 澪はそんな海を見て笑った。


「すごく綺麗だね、ここは」

「……でしょ!」


 荒い波でダイナミックに削られた断崖。所々突き出る岩と海岸に並ぶ松の樹。精緻で荘厳な自然の結晶が視界いっぱいに広がっている。

 何もない故郷だけれど、ここだけは、掛け値なしに好きだと答えられる。そんな素敵な場所。


「似てるなぁ」


 視界一杯に広がる絶景を眺めて、不意に澪はそう呟いた。


「似てるって、どういう意味?」


 私は思わず聞き返す。澪はこっちのほうを見て、笑って答えた。


「地元も海が見える場所でね。ここほどじゃないけど、綺麗なところだったの」

「へえ、そうなんだ」


 そんな話をしていると、ふと思う。私、澪のことを全然知らない。故郷も、好きなものも、嫌いなものも、何もかも。


「もっと聞かせてほしいな。澪のこと」

「もちろん!」


 澪は笑顔で話し始める。楽しいことを分かち合うために。


「真琴は蜃気楼って、見たことある?」

「ない。この辺りじゃまず見られないと思うけど、澪の地元だと見えるの?」

「うん。季節によるけど、見えるときはすごく綺麗に」


 蜃気楼。英語だとミラージュ。大気の気温差で光が屈折して虚像が見える——みたいな現象。私はこの程度しか知らない。


「いいなぁ、それ。どこで見られるの? 行ってみたい」

「私の地元は……ごめんね、ちょっと遠いところにあるから行けないなぁ。他は全然知らない。この世界のこと、私は何も知らないからさ」


 そっか、残念。だけど不思議と、落胆はしない。分かっていたことだ。ちょっとした疑念が確信に一歩近づくだけのこと。


「いつか、必ず行くよ。今度は私から、澪の故郷に」

「——うん、待ってる!」


 呆気にとられたような顔で、けれども嬉しそうに澪は笑った。だから私は、一層強く決意した。絶対逢いに行くって。

 そんな覚悟を隠して、私は澪に問う。


「ところで、蜃気楼って、どんな感じ?」

「えっとぉ、そうだね……」


 澪はちょっと顎に手を当てて考える素振りを見せてから、口を開いた。


「ぽわぽわしてる」

「ぽわぽわ?」


 私は思わず聞き返した。


「そう。ぱわぽわ。空気が色々あって光が曲がって、遠くのものが大きく見えたり、反転したりするの。虚像が網膜に焼き付いて、ゆらゆら揺れる。それを見ていると、なんだか頭がぽわぽわする」

「へー、そういうものなんだ」


 正直、澪が言っていることは半分も理解できない。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。澪がどれだけ言葉を重ねてくれても、私とその感覚を共有することはできないだろう。


「こればっかりは実物を見ないと分からないと思うなぁ。ほら、絵画とかもネットで見るのと美術館で見るのとじゃわけが違うでしょう?」

「確かに」

「まあ、要するに不思議な感覚ってこと」


 随分と雑に澪は締め括った。

 いつの間にか夕日は沈みかけている。もうすぐ太陽は水平線に完全に隠れてしまうだろう。そうして、夜が来る。

 波の音が一層強くなった気がする。それはきっと、世界が眠りにつこうとしているから、自然の音が大きく聞こえるのだろう。逢魔時が始まろうとしていた。


「これから、どうする?」


 澪は私の顔を覗き込んで問いかけた。


「ん、これだよ」


 私はおもむろにリュックを肩から降ろして、中から平べったいものを取り出す。澪は一瞬首を傾げて、けれどもすぐにその正体を理解してポンと手を叩いた。


「なるほど、悪くないね」

「でしょ? せめて夏らしいことしなくちゃ」


 私が取り出したのは、お子様用花火セットだった。

 花火大会なんてこんな田舎じゃ滅多に見られない。まぁ、夏のキリコ祭りなんかに行けば見られるのだけれど、生憎時期が悪かった。私と澪が二人でそれを見ることは、不可能だった。


「それなりに色々持ってきたよ」


 リュックサックの中から、私は幾つもの花火を取り出した。

 手持ち花火、地面に置くタイプの筒形、そして〆の線香花火。澪はそれを見て、ぱあっと顔に笑みを咲かせた。


「わあ、すごい。こんなのまであるんだ」

「全部どんたくに売ってたよ」


 予想通り、澪はこういうのは初めてらしい。好奇心と期待が半々といった目で花火セットと見つめている。それが微笑ましくて、私もつられて笑ってしまう。


「そろそろ暗いし、始めようか」

「うん!」


 澪は満面の笑みをつくって、応じた。


  ◇


 百均ライターで家の仏壇から拝借してきた蝋燭に火をつける。蝋燭を傾けてぽたりと溶けた蝋を地面に垂らし、その上に蝋燭の底を置いて固定してやる。これで準備は完了だ。まずは定番の手持ち花火を開封して、澪に手渡す。


「先っぽの紙に火をつける感じでね」

「うん、わかった」


 緊張した面持ちで澪が花火を蝋燭にかざす。ちょっとだけ手が震えていた。

 じわっと紙に火が燃え移った。一拍置いて、勢いよく花火の先端から、花が咲くように赤色の火花が噴き出す。


「わ」


 びっくりしたような、それでいて心底楽しそうな澪の声。


「綺麗だね」


 幼い子供のように無邪気な笑顔で、澪は花火を眺めていた。その手を振ると火花が強く舞う。蛍のような、流れ星のような、夢の中にいるような美しい光景。私は思わず息を呑んだ。


「ほら、真琴もやろうよ」


 澪に促されるまま、私も花火を一本引っ張り出して、揺れる灯に近づける。パチパチッと、勢いよく火花が全方向に舞う。澪のそれとは一風変わった花火だ。


「わぁ、それも素敵」

「そうでしょ。はいどうぞ」


 澪の花火が消えて、私は二本目を手渡す。澪は笑顔で火をつけて、楽しそうにそれを眺める。ああ、花火を用意してきてよかったな。私は切にそう思った。


  ◇


「そろそろ真打登場といこうか」


 夜も更けてきた。二人だけの花火大会も中盤に差し掛かった頃、私は筒型の花火を地面に置く。


「いいね!」


 導火部にライターで火を付けて、小走りで距離をとる。次の瞬間、弾けるような音と共に、勢いよく七色の火の粉が噴き出した。先ほどまでの手持ち花火とは一線を画すその迫力に、澪は目を輝かせる。


「すごいね! とっても綺麗」

「まあ、本物の花火には及ばないけどね……」

「十分だよ。真琴と一緒に見ているだけで、私は満足」


 あっけらかんと澪は言い切った。あんまり当たり前のように言うものだから、私の心臓はどくんと跳ねた。恥ずかしいじゃん。こういうのよくないよ。だって――本気にしちゃうもの。


「どうしたの、真琴? 顔赤いけど」


 不思議そうな表情で、澪が私の顔を覗き込む。やめてよ。私、今、きっと顔真っ赤だ。街頭ひとつない暗闇に感謝した。


「別に、なんでもない。ほら、まだ花火は残ってるよ」

「そうだね!」


 それ以上の追求をやめた澪は、再び花火に手を伸ばす。今度は二本同時に火を付けた。青と緑が合わさって、すごく綺麗。


「ねえ、真琴」


 花火をじっと見つめていた澪が、振り返って私を見た。


「どうしたの?」

「私、今が最高に楽しいよ」


 七色の炎に照らされて笑う澪の顔はさながら真夏の太陽だった。眩しい。私のちっぽけで重たい悩みが、途端に恥ずかしく思えてくる。

 私だけ一方的に気にして、一人で傷ついて——馬鹿みたい。

 でも、仕方ないじゃないか。私は、澪のことを好きになってしまったのだから。これがその十字架だというのなら、受け入れるしかないじゃないか。

 そんな私の胸の内も知らずに、澪は花火に夢中になっている。心から、私と一緒にする花火を楽しんでいる。親友として。それが痛いほど分かるから、私は苦しい。


「まったく……敵わないなぁ、澪には」

「? どういうこと?」

「気にしないで。とりあえず、楽しませてもらうよ」


 私は花火を同時に五本掴み取る。一斉に火を付けると、笑っちゃうくらいの馬鹿げた勢いで極彩色の炎が噴き出す。


「ひゅう! やるね、真琴」

「盛り上げてくよ‼」


 そうだ。これでいいのだ。今だけは、余計なものを全部炎で吹き飛ばそう。痛みくらい、後からいくらでも抱えてやる。今はただ、澪とこの時間を駆け抜ける。それだけでいいのだ。


 私たちは暗闇を炎で染め上げて、本気で馬鹿騒ぎして、全力で大笑いした。退屈が、憂鬱が、寂しさが、真っ赤に燃えて輝いた。その度に私たちは、何度でも笑うのだった。











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