海が眠るところで

huwahuwawataame

第1話:始まりと、続いていく時間

窓の外は曇り空。


けれど、この部屋の中は、どこまでも静かで温かかった。


柔らかな光が差し込む中、セレスタイトの指は、何も言わず、ただひたすらにアンジェリカの髪をすくっていた。


手ぐしで、とても丁寧に――まるで、それだけが彼にとって祈りのようだった。


指先が髪の流れにそって、ゆっくりと通っていく。


絡まりを見つければ、無理に引くことなく、そっとほどく。


何度も、何度も、静かに。


「……戻ってきてくれて、ありがとう」


アンジェリカの声は、小さな吐息のようだった。


うつむいたまま、彼女は目を閉じていた。


まるでその言葉を、自分自身にも言い聞かせるように。


「何度戻っても、これだけは忘れないようにしている」


セレスタイトは答えた。


声は低く、どこか掠れていたが、確かに優しさを含んでいた。


その“これ”が何を指すのか、アンジェリカは知っていた。


だからこそ、そっと微笑んで、こう言った。


「……忘れてもいいよ。戻ってきたってだけで、嬉しいから」


彼の手が一瞬止まった。


けれど、次の瞬間、また静かに髪をすくい始める。


少しだけ顔を伏せて、彼は小さくつぶやいた。


「……忘れたくねえんだよ。お前の髪の手触りだけは」


その言葉は、空気よりも静かだった。


けれど、確かに心に届いた。


アンジェリカは目を閉じたまま、そっと頷いた。


何も言わなかったが、その表情は、どこまでも穏やかで、どこまでも嬉しそうだった。


部屋の中には、手ぐしの音だけが、そっと続いていた。


指先に伝わる髪のぬくもりとは裏腹に、彼の心は、遠い冬の午後へと引き戻されていた。


――あれは、雪は降っていなかったが、吐く息が白くなるほどの寒い日だった。


日差しはあるのに、冷たい風が街角を吹き抜けていく。


人通りの少ない路地の奥で、軍服の男が小さな影に向かって問いかけていた。


「この金額で良いんだな?」


男の手には、くしゃくしゃになった紙幣が数枚。


それを、破れた上着を羽織った10歳ほどの少年に差し出す。


少年は、その金に手を伸ばそうとしていた。


「じゃあ、行こうか」


軍服の男が立ち上がり、少年の手首を掴もうとした――そのときだった。


「……何をしている」


低く、凛とした声が冷えた空気を裂いた。


軍服の男がびくりと肩を揺らし、振り返る。


そこに立っていたのは、ひとりの軍人。


顔を上げた少年の視界に、天井に届きそうなほどの背を持つ男が立っていた。


その顔は整いすぎていて、どこか現実のものに見えなかった。


「エヴァレット・ヴァレン大佐……」


軍服の男があからさまに狼狽し、視線を泳がせながら、口元を引きつらせた。


「これは……いや、その……慈善のようなもので……」


「その金はしまえ」


エヴァレットは一歩、ゆっくりと前に出て、少年と男の間に割って入った。


「今日のことは、見なかったことにする」


そう告げると、軍服の男は何も言えぬまま、冷たい風の中へと消えていった。


エヴァレットはそのまま、足元の少年に視線を落とす。


少年はじっとこちらを見返していた。


怯えても、戸惑ってもいない。


ただ、どこか遠くを見るような目をしていた。


「……あの金を受け取ったら、何をされるか、わかってるのか?」


その問いかけに、少年は面倒くさそうに答える。


「……口にあれを入れて、変な声出されて、終わったら金もらえる。そういうやつ」


まるで掃除の手順でも語るかのような、淡々とした口ぶりだった。


エヴァレットはしばし無言になり、ふっと顔をそらした。


そのまま額を押さえて、ほんのわずかにため息を漏らす。


「……まったく、君は」


小さく呟いてから、視線を戻す。


「……いいか、覚えておけ。初めては、好きな人じゃないとダメだ」


その声は、呆れ半分、真剣半分。


諭すというより、“常識を教える大人”としての最低限の務めだった。


少年は目を伏せる。


「誰も傷つかないで金が手に入る。それでいいだろう」


それを聞いて、エヴァレットはもう一度ため息をついた。


あえて深く追及せず、視線を落としたまま、ぼそりと言う。


「……腹、減ってるんだろう」


少年が黙っていると、続けるように言葉を重ねた。


「老人に飯くらい、奢らせてくれ。金なんかいらない」


エヴァレットは笑って、言った。


少年は彼を見上げる。


見上げて、見上げて、まだ届かないくらいの高さ。


整った顔に皺ひとつなく、背筋もぴんと伸びていて、どこからどう見ても“若い軍人”だった。


「……ジジイって言うには、若すぎるだろ。顔が整いすぎてて気持ち悪いくらいだ」


「はは。そうか?」


エヴァレットは口元にだけ笑みを浮かべてから、少し肩をすくめる。


「まあ、そう見えて当然だ。見た目は、まだ二十代前半だからな。」


少年は目を細める。


「ってことは、中身はジジイなんだな」


「そういうことになる」


「……お前、アメリウム、飲んだんだろ。本当に赤ん坊からやり直せるのか?」


エヴァレットは、その問いにすぐには答えなかった。


少年の目をまっすぐに見つめ、少しのあいだ、その幼すぎる瞳の奥を確かめるように黙っていた。


やがて、ぽつりと。


「……ああ。本当に、赤ん坊からやり直せる」


その声音には、どこか遠くを見つめるような陰があった。


「生まれ変わった体に、同じ記憶を入れたまま、またこの世界に戻ってくる。……それがアメリウムの力だ」


エヴァレットの声が消えたあと、しばらくの沈黙があった。


風の音だけが、路地の奥を通り過ぎていく。


「……そりゃ、すげえな」


一拍おいてから、少しだけ口角を上げて、皮肉っぽく言い放つ。


「でも――そんなもん飲んでまで、この世界でずっと生きたいって思うやつ、だいぶ変わってるな」


エヴァレットは、ふっと息を吐いた。


そして、穏やかに――けれどどこか遠い声で、こう言った。


「……そうだな。私は変わり者なんだ」


その口調は、まるで自嘲とも肯定ともつかない、長い歳月を受け入れた人間だけが持つ静けさだった。


セレスタイトが目を細める。


「……他にやることなかったのかよ。死んでも戻って、また戦うとか、正気の沙汰じゃねえ」


エヴァレットは、しばらく黙って空を見上げた。


曇り空の向こう、届かない陽の光の中に、何かを探すように。


やがて、ぽつりと語り出す。


「……戦い続けなければ、他の誰かが戦うことになる。


それは確かに、アメリウムを選んだ理由のひとつだ」


「でも、それだけじゃない」


そう言って、エヴァレットは少しだけ目を伏せた。


まぶたの裏に、何か懐かしいものを浮かべるように。


「私はね……もう一度、“あの人”に会いたかったんだ」


セレスタイトがわずかに目を見開く。


「……誰だ、それ」


エヴァレットは微笑んだ。


けれど、その笑みには、わずかな寂しさが混じっていた。


「恋人でも、家族でもない。名前も知らない。……けれど、私の命を助けて、そして死んだ人だ」


「……それだけ?」


「ああ。それだけだ」


「だから生き返って、ずっと戦ってるのか? ただ、その人に会うために?」


「“ただ”ではない。命を救われた人間にとって、それは永遠に借りになる」


「……だからって、自分の命を擦り減らしてまで?」


エヴァレットは静かに頷いた。


「そうでもしなければ、私は自分を許せなかったんだよ」


セレスタイトは黙った。


「……やっぱ変わってんな、お前」


ふたりの間に、また風が吹いた。

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