天使はこの世界の境界でささやく
葉沢敬一
第1話:巨石の羽音 エピソード1「始まり」
「何でこんなところまで来てしまったんだろう」
土田有樹は車のハンドルを握りながら呟いた。四十路を目前に控え、特に目的もなく地図上の「パワースポット」と呼ばれる場所に向かうなど、自分でも滑稽だと思う。
しかし、毎日の単調な繰り返しに僅かな変化が欲しかった。二年前に起業した会社を思わぬ高値で売却し、FIREと呼ばれる経済的自立を果たした彼の日常は、暇と孤独で満ちていた。
「パワースポットだろうが何だろうが、ただの石ころだよな」
ナビの指示通り、東京から数時間かけて訪れた東北の山間にある巨石群へと車を走らせる。SNSで話題になっているらしいが、有樹が訪れた時は人の姿はなかった。
車を停め、広がる巨石群を眺める。苔むした岩肌に触れると、確かに長い年月を感じさせる。しかし期待していた「不思議な力」など感じられず、ただの観光気分だ。
「やっぱりこんなもんか」
そう言って引き返そうとした瞬間、遠くの巨石の陰に何かが見えた。白い布のようなものが風に揺れている。
好奇心からか、有樹は歩み寄った。
「おい、大丈夫か?」
それは人だった。巨石に寄りかかるように倒れている。近づくと、ぼろぼろの白い衣を纏った人物で、その周りには黒く焦げた何かが散らばっていた。
「羽……?」
思わず手に取った。確かに大きな鳥の羽のようだが、触れると指先が黒く染まる。
倒れている人物を見ると、見た目は十代後半か二十代前半くらいの若さだ。性別すら判然としない美しさで、肌は透き通るように白い。
「おい、しっかりしろ」
有樹は肩を揺さぶった。すると、ゆっくりと瞼が開き、透明感のある青い瞳が彼を見つめた。その目は、有樹の心の奥底まで見透かすような鋭さがある。
「ここは……どこ……?」
かすれた声でそう言うと、再び目を閉じようとした。
「おい、気を失うな。俺は土田有樹だ。お前は?」
問いかけに、再び目を開けた。
「ミカ……」
それだけ言うと、再び意識を失った。
有樹は困った顔で周囲を見回した。人気はなく、最寄りの病院までは車で一時間はかかる。東京まで戻るにしても数時間の道のりだ。日も傾きはじめている。
彼は決断した。「仕方ない、車に乗せるか」
ミカと名乗った人物を抱え上げると、想像以上に軽かった。しかし、その体は冷たくなく、確かに生きている。
車に乗せ、エンジンをかけた。「まずはコンビニでも寄って、何か飲ませるか……」
国道に出たところで、ふと後部座席を見ると、意識を取り戻したミカが虚ろな目で窓の外を眺めていた。
「気がついたか。どうした?怪我でもあるのか?」
ミカはゆっくりと首を振った。その仕草は妙に不自然だ。まるで人間の動作を模倣しているかのようだった。
「記憶が……ない」
「記憶喪失か?名前以外何も覚えてないのか?」
「……そう」
会話はそこで途切れた。有樹はコンビニに寄り、水とおにぎりを買った。車に戻ると、ミカは同じ姿勢で窓の外を見つめていた。
「とりあえず食べるか?」
おにぎりを差し出すと、ミカは不思議そうに見つめ、恐る恐る手に取った。そして、包装紙ごと口に運ぼうとする。
「おい、まずそれを剥がすんだ」
有樹が示すように、ミカは包装を外した。一口かじると、表情が和らいだ。
「美味しい……」
つぶやくミカに、有樹は少し安心した。「とりあえず警察に届けて……」
だが、この言葉にミカの表情が変わった。青い瞳に恐怖の色が浮かぶ。
「警察……は……だめ」
有樹は困惑した。「なぜだ?何か思い出したのか?」
ミカは首を振った。「わからない。でも……危ない」
有樹はため息をついた。警察に行かないとなると、選択肢は限られる。「じゃあ病院は?」
また首を振られた。
「わかった。じゃあ今日は俺の家に泊まるか。明日、考えよう」
有樹の家は東京の閑静な住宅街にある。起業時代に購入したマンションを、今は本拠地にしていた。都心からそれほど遠くない場所だが、不思議と静かで、近隣との付き合いもほとんどない。
家に着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
「とりあえず風呂に入るか。服も貸すよ」
有樹は適当な服を取り出した。ミカは相変わらず無表情だが、おずおずと服を受け取った。
風呂場に案内すると、ミカは扉をじっと見つめた。
「どうした?」
「これは……何をする場所?」
有樹は驚いた。「風呂だよ。体を洗う場所だ」
説明しながら、有樹はミカの様子がますます不可解に思えた。一体どこの誰なのか。本当に記憶喪失なのか、それとも何か別の事情があるのか。
「使い方を教えてくれ」
有樹は簡単に説明した後、ミカを残して部屋を出た。「着替えもそこに置いておくから」
リビングでテレビを点けながら、有樹は考えた。明日はどうするべきか。ミカの身元を調べるには警察が一番だが、それを極端に嫌がる様子が気になる。
思考に耽っていると、突然停電した。真っ暗な中、有樹が「おいおい」と呟いた瞬間、異様な光が風呂場の方向から漏れ出した。
「何だ……?」
恐る恐る風呂場に近づくと、中から青白い光が溢れていた。ドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ミカの背中から、光り輝く翼のようなものが広がっていたのだ。しかし、その片方はちぎれたように欠けていた。
有樹が息を飲んでいると、ミカが振り返った。その目には言葉にできない悲しみが浮かんでいた。
「私は……何者なんだろう」
翼は次第に薄れ、再び停電が解消された。ミカは有樹の服を着て、弱々しく立っていた。
有樹の頭の中は混乱に満ちていたが、唇からは意外な言葉が漏れた。
「とりあえず、泊まればいいさ。明日のことは明日考えよう」
有樹はソファを指さした。「俺はベッドで寝るから、お前はそこで寝ていいぞ」
ミカは黙ってソファに座った。その姿は妙に儚く、有樹の心に奇妙な感情を呼び起こした。
「俺はノンアルコールビールでも飲むけど、お前は何か飲みたいものある?」
「……何がある?」
有樹は冷蔵庫を開け、ノンアルコールビールを取り出した。昔は味が薄くて飲む気が起きなかったが、最近のは本物のビールと遜色ないくらい美味くなっていた。たまに運転する日や、翌日早く起きる必要がある夜はこれで十分だった。
「水でも麦茶でも。あと甘いものなら冷蔵庫に……」
冷蔵庫からアイスを取り出すと、ミカの瞳が初めて輝いた。アイスを差し出すと、恐る恐る手に取り、一口食べた。
そして、静かに言った。
「これは美味しい」
その夜、不思議な同居生活が始まった。有樹は自分が拾ってきたのは、単なる記憶喪失の若者ではなく、もっと別の存在なのではないかと思い始めていた。
そして、彼の日常はこの瞬間から、二度と「退屈」という言葉とは無縁のものになったのである。
明日からどんな日々が始まるのか、想像もつかなかったが、不思議と不安はなかった。
有樹はベッドに横たわり、天井を見つめた。
「なんで俺はあいつを家に連れてきたんだ……」
自問しながらも、彼は奇妙な安心感を覚えていた。
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