#32 ぎこちない所作の温り

「はあ、緊張する」


 着慣れないスーツをビシッと決めた巧翔が、大きく息を吐きながら弱音をもらした。


 千堂事務所では、朝からずっと緊張感が漂っていた。先日訪れた明石縁から正式にタレント契約を結びたいとの連絡を受けた。そして今日、両親同伴で訪れるというのだ。


「茉莉子さん、今日は紀壱郎さんと豪一さんは?」

「あの二人なら、ゴルフよ」


 もう自分が社長なのだから頼れないとわかってはいる。それでも居るのと居ないのとでは精神的な余裕は大きく違う。


「しっかりするっスよ?」

 

 武琉が横から軽口を叩き、空気をほんの少しだけ和ませた。

 やがて、約束の時間になると、重い呼び鈴の音が響いた。


     * * *


 千堂事務所は周囲に比べ、異様な存在感を放っていた。

 入り口脇の大きな一枚板の看板。「千堂事務所」と達筆で彫り込まれた文字は、墨を滴らせたように濃く深く、近づく者を圧する気配を持っている。


「……芸能事務所っていうより、料亭か、旅館か……」

 

 母が思わず囁くと、父も眉をひそめる。

 

「いや…… どちらかというと、堅気の商売のものには見えんな」


 正面の扉もまた、無駄に重厚だった。分厚い木材で造られ、古い旅館の玄関を思わせる風格。取っ手に触れるだけで一瞬ためらうほどの迫力がある。

 隣で縁は、唇を結んだ。——一度来た時と同じ反応。

 けれど、もう引き返すわけにはいかない。


「ほんとに、ここで合ってるのか?」

 

 父が念を押す。


「……うん、間違いないよ。私、前に来たから」

 

 そう言って父母を見て、小さく頷いた。

 父が呼び鈴を鳴らすと、すぐに反応が返って来た。

 出迎えた巧翔が軽く頭を下げる。紺のジャケット、簡素なネクタイ。動きにまだ固さはあるが、背筋は伸び、声にも芯がある。


「ようこそお越しくださいました。お足元お気をつけください、段差がございます」


 促されるまま入ると、すぐそこが事務所になっていて、右手に並ぶ二つの事務机。電話機、コピー機、積まれた書類の山。スチール棚には演歌時代のポスターや古びたトロフィー。奥の一角に応接スペースが切り分けられていた。応接用のソファは黒い合皮。中央に据えられた低いテーブルはガラスの天板で、その上には、今では滅多に目にすることのなくなったガラスの灰皿。もちろん今は誰も吸わないし灰もないのだが、その存在だけで昭和の名残みたいな圧があった。

 父が思わず咳払いをした。

 

「……随分、個性的だな」


 母は笑みを崩さず、「素敵なお飾りね」とフォローを試みるが、バッグの持ち手を握る指に力がこもっている。

 縁と両親はソファに腰を下ろした。縁は視線を泳がせては、結局壁際の提灯で止める。父の眉間には皺、母の笑みも硬い。


 巧翔は資料をテーブルに並べ、背筋を伸ばした。

 

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。改めまして、千堂事務所社長の、貴志巧翔と申します」


 挨拶をして名刺を差し出した巧翔。

 

「それでは、まずはご説明から。こちらが契約の概要、そして活動を支援する体制になります」


 ファイルを開く手つきは丁寧で、紙の角をきちんと揃えてからテーブルに置く。続けて、活動の基本方針、安全面の配慮、学業との両立、SNS運用のポリシーまで、一つひとつ区切って説明していく。言葉は硬くないが、曖昧でもない。


    * * *


 ——空気が重たい。

 廊下から事務所を覗く茉莉子は、深く目を細めた。


 黒いソファに座る明石一家。父と母は緊張で背筋をこわばらせ、娘の縁は説明を聞きながらも、どこか所在なげに膝の上で手を組んでいる。

 

 案の定、両親の目の奥に「疑念」がにじんでいた。

 言葉では繕っているが、父は眉間に皺を寄せ、母の笑みは張り付いたまま揺れている。


 対する巧翔は、額に汗を滲ませながらも懸命だった。契約の説明、活動方針、学業との両立、安全管理…… 言葉自体は間違っていない。むしろ真面目すぎるほど丁寧だ。

 けれど、この空気を変えるには足りない。


 給湯室でお湯が沸いたのを確認すると、渋いお茶と、お茶請けに高凛堂のどら焼きを用意する。

 

「お兄さん大丈夫かなぁ」

 

 と、小声で独り言のように呟く、これまた同じように様子を見ていたちゆきを呼んだ。

  

「ちゆきちゃん、これ、巧翔くんのところに持って行ってもらえる?」


 と、お茶とお茶請けの乗ったお盆を渡して一世一代の大任務を授ける。

 

 家でもこういったお手伝いくらいはしているだろうが、それでもやや緊張した様子を浮かべたちゆきの耳元で囁く。

 

「今、巧翔くんを助けてあげられるのは、ちゆきちゃんしかいないの」

 

 目に意志と力がこもると、ちゆきは強くうなずいた。

 お盆を受け取り、そろりそろりと運んでいった。

 

     * * *


 白いお盆を持った少女がやってきて一礼する。「粗茶ですが」と、教えられた言葉をちゃんと発すると、一瞬で場の空気が和んだ。

 肩でふわりと揺れる髪、シンプルなワンピース少女に向かって縁の母親が「難しい言葉知ってるのね」と、表情を綻ばせて笑った。

 

 彼女は姿勢を正し、けれどどこかぎこちない手つきで湯呑を並べていった。指先はかすかに震え、茶の水面が小さく波打つ。

 

「熱いのでお気をつけください」


 声もたどたどしい。社交的とは言い難い。けれど、その必死さがかえって純粋に映る。


「可愛らしいお嬢さんね。お名前は?」


 思いがけない問いに、ちゆきは一瞬動きを止め、胸の前でトレイを抱え直した。

「……美園、ちゆき…… です」


 その声を待っていたかのように、巧翔が口を開いた。

 

「彼女は、この事務所で唯一の所属アイドルなんです。ここはもともと演歌歌手の事務所でしたが、彼女のために方向転換しまして…… アイドル事務所として再出発したばかりなんですよ」


「そう…… あなた、アイドルだったのね」

 

 母が優しく笑う。その笑みは先ほどまでの不安をすっかり洗い流していた。


 ちゆきは頬を赤く染め、俯いた。

 

「はい。わたし…… どうしても、アイドルになりたかったから……」


 そう言うと、「ごゆっくりどうぞ」と、またたどたどしい言葉を残し、一礼して恥ずかしそうに裏へと戻っていった。


 事務所から戻ってきたちゆきを、茉莉子は影で待ち構えていた。

 

「よくやったわ、ちゆきちゃん。あの場を救ったのはあなたよ」

 

 彼女はきょとんと目を瞬かせ、耳まで赤くして首を振る。


「……ほんと、いい仕事したよね」

 

 武琉だった。パーカーのフードを目深にかぶり、どこからともなく現れるこの少年は、いつも肝心なところだけ嗅ぎつけている。


「いつからいたの?」

 

 茉莉子は呆れ混じりに問いかける。

 

「何いってるんですか。最初からいましたよ」

 

 まるで当然だと言わんばかりの口調。


「事務所の人間じゃないのに、ずいぶん頻繁に来るわね」

「唐沢さんに頼まれている以上、力になるのが僕の役目ですから」

「でも本音は、あの歌姫ちゃんが気になってるからでしょう?」


 茉莉子が目を細めると、武琉は俯き、無言で視線を逸らした。

 返事をしないことこそが、何よりの答えだった。

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