#18 始まり。二つの出会い

 社長として千堂事務所を継ぎ、大物・唐沢桐生と差しで話す――そんな激動の一日から三日が過ぎた。

 短くも慌ただしい準備期間を経て、ついに迎える初出勤の日である。


 一応、二十歳を過ぎた大人としてスーツの一つや二つは持っている。社長として、そして社会人として、今日はビシッと決めて行くべきだろう。鏡の前でネクタイを締めると、自然と背筋も伸びる。

 しかしふと、街中の裏通りに立つこのビルの外観が頭をよぎる。周囲から「新しいチンピラが入り込んだ」などと思われやしないか――そんな要らぬ心配が脳裏をかすめた。

 もっとも、外見こそいかついが、ここはれっきとした芸能事務所だ。近隣の人々もそれを承知している。当たり前の事実に気づくまで二十分も悩んでしまい、苦笑いしながら家を出た。


 まだ朝の空気は少しひんやりしている。駅から事務所へ向かう道は、通勤客と開店準備をする店員が入り交じり、どこか落ち着かない。心臓の鼓動がいつもより速く感じられた。


 午前九時、事務所の重厚な扉を押し開ける。


「おはようございます」

「おはようございます。……もしかして、貴志巧翔さん?」


 出迎えたのは見知らぬ女性だった。年齢は自分より少し上、二十代後半手前。濃紺のスーツをきっちり着こなし、胸元には事務所の名札が光っている。長めの前髪の奥の瞳は落ち着きがあり、声は柔らかいのに、どこか仕事人らしい芯の強さを感じさせた。


「はい、貴志巧翔です。よろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げた瞬間、奥から紀壱郎が現れた。


「おう巧翔、来たか」

「紀壱郎さん、これからよろしくお願いします」


 紀壱郎と豪一は、アドバイザーとしてしばらく事務所に残ってくれる。その事実が、慣れない立場に立つ自分への心強い支えだった。


「あの、こちらは?」

「おお、この娘は茉莉子ちゃん。事務全般を一手に引き受けてる、優秀な人材だ。この間は外回りで不在だったんだ」

「指扇茉莉子です。よろしくお願いします」


 軽く会釈しながらも、まっすぐこちらを見てくる瞳。その視線には、年下の新社長に対する期待と不安といった様子が同居していた。名刺を受け取る指先まで、無駄な動きがない。


「茉莉子ちゃんは本当に優秀でな。事務所を畳むかもって話が出た時も、あちこちから声がかかったほどだ」

「へえ、それはすごいですね」

「いえいえ、古いご縁で呼ばれただけですよ」


 同業者の評価は意外と外れない。彼女の能力は本物なのだろう。


「でも、ちゆきちゃんがアイドルになりたいって言った時、その全てを断って残ってくれたんだ」

「そうなんですね……ありがとうございます」


 ちゆき本人に代わって礼を言えるくらいには、自分も彼女の夢を応援する側に立っている――そんな実感があった。


「巧翔、さっそくだけど、この事務所の施設を案内するぞ」

「あ、はい……施設?」


 紀壱郎に連れられ、館内を見て回る。

 地下二階は物置。湿った空気と金属棚の匂いが鼻をかすめる。

 地下一階は鏡張りのレッスン室。まだ誰もいないのに、磨かれた床は光を反射してまぶしい。ここでちゆきが歌い踊る姿を想像すると、不思議な緊張感が胸を走る。

 一階が事務所、二階はシャワー室と更衣室。タイル張りの床に、洗剤のほのかな香りが残っている。

 三階は会議や撮影にも使える多目的室。壁際には折り畳みの長机が並び、ここから何かが始まりそうな空気が漂う。

 そして四階は泊まり込み作業ができる仮眠室。簡素だが、夜遅くまでの仕事には重宝しそうだ。


 下層から順に説明を受けていると――


「紀壱郎さーん!」


 茉莉子の声が響く。二人で急いで事務所に戻ると、屈強な宅配業者が立っていた。


「どうした、茉莉子ちゃん」

「荷物が届いたんですが、かなり大きくて数も多いんです」


 横から業者に尋ねる。


「物は何ですか?」

「見たところ、マッサージチェアらしいんですが……」

「マッサージチェア?」

 

 芸能界では、時間の感覚は一般的なものとはかけ離れているし、およそホワイトとは無縁の、ブラックを究極なまでに黒くしたブラックな業界であることくらい、想像がつく。

 マッサージチェア一つで解消できるほどのものではない気もする。

 

「はい、それが四つ」

「四つ!?」


 悪戯か冗談かと送り状を覗くと、見覚えのある名前――唐沢桐生。

 そういえば別れ際、「就職祝いを送る」と言っていた。


「品物を見せてもらえますか?」

「どうぞ」


 外のトラック荷台には、大型ダンボールが四つ。高級マッサージチェアのイラストが描かれ、並ぶ様はまるで家電量販店の売り場だ。近づくと、インクの匂いと段ボール特有の乾いた手触りが伝わってくる。

 だがよく見ると、椅子のイラストは頭部全体を覆う異様な形状をしていた。簡易的な遮光カバーではない、完全密閉型だ。


 箱の側面に記された文字が目に入る。

 【Chair-type Another World Absorbing Yearn】


「これは……マッサージチェアじゃないな。VRマシンじゃないか」


 最高級フルダイブ型マシン。それを四台も。額に冷や汗が滲む。

 唐沢の笑みを思い出す。あの時の「就職祝い」の言葉が、今になって重く響いた。

 紀壱郎の指示で、荷物の少ない地下二階に搬入してもらう。梱包の角が床をかすめる鈍い音が、妙に耳に残った。


 ようやく一息つこうとした、その時――


「すみません、千堂事務所ってここで合ってますか?」


 振り返ると、黒のキャップに黒マスクを着けた痩せ型の少年が立っていた。背丈は一六〇センチほど、声からして高校生くらいだろう。立ち姿は落ち着きなく、靴先で床をこすりながらも、こちらをじっと見ている。指先は何かを握り、わずかに震えていた。


「そうだけど……君は?」


 もしかして、アイドル志望の売り込みか? 幸先のいいスタートか――と一瞬期待する。だが男の子ではトルトラには出場できない。胸の期待が音を立ててしぼんだ。


「美凪武琉(みなぎ たける)でス。あの……貴志巧翔さんという方はおられますか?」


 面識はない。帽子とマスクのせいで確信は持てないが、人見知りする奥手タイプで、そして――自分と同じくオタク気質だという確信があった。


「貴志巧翔は俺だけど?」


 とりあえず中に入ってもらい、話を聞くことにする。紀壱郎は例の組長席にどかっと腰を下ろし、茉莉子はお茶を出す。


「それで、武琉君は俺にどんな用件で?」

「あの……唐沢さんに言われて来たんでスよ」

「唐沢って、唐沢桐生?」


 自分の知る唐沢は一人だけだ。

 

「武琉君て、いくつ?」

「え? 十六ですけど」


 帽子とマスクを外した武琉は、その華奢さもあってか、より若く見えた。


「その年で唐沢さんと知り合いとは……武琉君、キミ、オタクだね」


 意外そうに目を見開く武琉。それ以上に驚いたのは茉莉子だった。


「え、どういうことですか? その根拠は?」


 純粋な好奇心に満ちた問いだった。


「今でこそスタイリッシュな人も増えたけど、オタクって潜在的に黒を好むらしいんですよ」

「へえ、そうなんだ」

「まあ、俺もそうだから、あながち間違いじゃないと思ってます」


 初めて見た時から、武琉にはどこか自分と似た雰囲気を感じていた。


「だからきっと、唐沢さんは何か武琉君の才能を高く評価している。そして、それが俺の助けになると考えている。だから彼をよこした――そう思ってます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る