第9話:揺れる心、信じるということ

 あの日以来、陽だまりベーカリーの空気は、まるで薄氷が張った湖面のように、静かで、そして脆いものに変わってしまった。

 エリーゼはアッシュを避けるようになった。

 仕事の手伝いは続けているものの、必要最低限の言葉しか交わさず、彼の視線を感じると、怯えた小動物のようにさっと顔を背けてしまう。彼女の瞳に浮かぶのは、もはや警戒心だけではなかった。不信と、そして、かすかな恐怖の色。

 その視線は、アッシュの心をナイフのようにえぐった。


 (いつか話さねばならない時が来ると思っていた。だが、それが今だというのか…?)

 工房で一人、パン生地を捏ねながらアッシュは自問する。

 自分の過去を――魔王軍の四天王として、数えきれないほどの命を奪ってきた罪を、彼女に打ち明けるべきなのか。だが、それを聞いて、彼女はどう思うだろう。ただでさえ人間不信に陥っている心が、完全に壊れてしまうのではないか。

 打ち明けるも地獄、黙っているも地獄。

 答えの出ない問いが、彼の思考を鈍らせる。パン作りに込めるべき心が、迷いと苦悩で曇っていく。


「アルフレッドさん、今日のパン、なんだか少し硬いわね」

 常連客の一人に、そう指摘された。

「…すまない。少し、考え事をしていたようだ」

 アッシュは力なく笑って謝罪する。心が乱れれば、パンの味も正直に乱れる。パン職人として、これほど恥ずかしいことはなかった。


 一方、エリーゼもまた、混乱の渦中にいた。

 彼女の脳裏には、アッシュがチンピラたちをいとも容易く打ちのめした光景と、その時に放たれた禍々しい魔力の奔流が、何度も繰り返し再生されていた。

 (あの力は、人を傷つけるためのもの…)

 そう思うと、彼への恐怖が込み上げてくる。勇者パーティーで見てきた、力を持つ者の傲慢ごうまんさや非情さが、アッシュの姿と重なって見えた。

 だが、同時に、彼女の心には別の記憶も鮮明に残っていた。

 雨の夜に差し出された、温かいパン。自分が落ち込んでいる時に焼いてくれた、花の形をしたパン。悪夢にうなされた夜に与えられた、優しい甘さのパン。

 (あのパンの温かさは、嘘じゃなかったはず…)

 彼が見せてきた、不器用で、しかし、嘘偽りのない優しさ。それが、ただの気まぐれや、自分を利用するための演技だったとは、どうしても思えなかった。

 信じたい。でも、怖い。

 二つの感情がせめぎ合い、彼女の心をかき乱していた。


 そんな気まずい空気が数日続いたある日の午後。

 店の常連である老婆、マーサの孫が、泣きそうな顔でパン屋に駆け込んできた。

「アルフレッドさん! おばあちゃんが、倒れたんだ!」

 アッシュはすぐさま「本日は閉店します」の札を掛け、エリーゼを伴ってマーサの家へと急いだ。

 マーサはベッドの上で、苦しそうに咳き込んでいた。高熱があり、呼吸も浅い。この時期に流行る、たちの悪い風邪のようだった。

「エリーゼ、水を汲んできてくれ。それと、清潔なタオルを」

「…はい!」

 アッシュの的確な指示に、エリーゼは迷うことなく動いた。

 アッシュは持参した薬箱から乾燥させた薬草を数種類取り出すと、手際よく乳鉢にゅうばちですり潰し始めた。その知識と手際は、専門の薬師くすしさながらだった。

 エリーゼは、彼の指示通りにタオルでマーサの汗を拭い、水を飲ませてやる。アッシュは調合した薬を白湯さゆに溶かし、マーサにゆっくりと飲ませた。

 二人は、言葉を交わすことなく、ただ黙々と、献身的にマーサを看病した。

 どれくらい時間が経っただろうか。薬が効いてきたのか、マーサの呼吸が少しずつ穏やかになり、安らかな寝息を立て始めた。


「…峠は越したようだ」

 アッシュが安堵のため息をついた。

 エリーゼも、緊張の糸が切れたようにその場に座り込む。

 その時、いつの間にか目を覚ましていたマーサが、しわがれた声で言った。

「…アルフレッド…すまないねぇ、あんたたちも…」

「気にするな、マーサさん。良くなってよかった」

 マーサは、優しい目でアッシュとエリーゼを交互に見た。

「アルフレッドさんは昔、何か辛いことがあったのかもしれないね。時々、ひどく遠くを見るような目をするから…」

 アッシュは何も言わず、ただ黙って聞いている。

「でも、今は本当に優しい人だよ。あの人のパンは、心を温かくしてくれる。…あんたも、そう思うだろ?」

 最後の言葉は、エリーゼに向けられていた。

 エリーゼは、はっと顔を上げた。

 そうだ。自分はずっと、彼のパンに救われてきたではないか。

 あの禍々しい力を見ただけで、彼が与えてくれた温かいものを、全て忘れてしまっていいのか。

 信じるべきは、一瞬の恐怖か。それとも、これまで受け取ってきた、確かな優しさか。

 答えは、もう出ていた。


 その夜、パン屋に戻った後。

 エリーゼは、工房で一人、後片付けをしているアッシュの前に立った。

 アッシュは驚いて顔を上げる。エリーゼは、彼の目を真っ直ぐに見つめていた。

「……」

 アッシュは、彼女が何かを言おうとしているのを悟り、黙って手を止めた。

 エリーゼは、深呼吸を一つすると、震える声で、しかし、はっきりと告げた。


「あなたの過去に、何があっても」

「今のあなたを…信じたい」

「あなたの作るパンを、信じたいから」


 その言葉は、アッシュの心の最も深い場所に、静かに、しかし、力強く響いた。

 彼は驚きに目を見開いた。そして、心の底から込み上げてくる安堵と、感謝の念に、胸が熱くなるのを感じた。

 自分が何者であるかも問わず、ただ「今の自分」を信じると、この少女は言ってくれた。

 それだけで、十分だった。

 それだけで、彼は救われた気がした。

 二人の間にあった薄氷は、その瞬間、音もなく溶けて消えた。

 代わりに、以前よりもずっと確かな、温かい光が差し込んできたようだった。

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