第24話 暁をまもる人

 現実は、残酷に進んでいく。

 腕の中で赤が溢れ、止まることを知らない。紅猩に支えられるさくらの体は、息をするのもやっとで、痛みに顔を歪める。

 生駒は必死に声をかけつつ、ぎこちなく傷を圧迫していた。


「急所は外れている……だが、長くは持たないぞ」


 紅猩はさくらの体を抱き留めながら、白く淡い光を指先から滲ませ、その力で傷を癒そうとしていた。


「お嬢様……!お嬢様!」


 生駒の呼び掛けにも、さくらは反応を示さない。


 空気は重く、沈黙の間に血の匂いが漂っていた。さくらの息は浅く、時折小さな呻きが漏れる。かろうじて息はしているものの、その意識は少しずつ離れかけているのが見て取れた。


「おい、生駒、と言ったか。お前、医術の心得はあるのか」


「……いえ、ありません」

「そうか……何とか、傷だけでも塞かればいいんだが」


 腕の中で力を失っていくさくらを支えながら、紅猩の息が荒くなる。

 胸元の傷に流れ込む光は、少しずつ傷を塞いでいるようには見えるものの、未だその生命力は失われ続けていた。

 ふと生駒の後ろを見やったその瞳に、緊迫の色が浮かぶ。


「……だが、“そっち”の方が、厄介そうだ」


 紅猩の瞳に、青白い光のような気配が一瞬揺らめく。生駒が振り返ると、固く閉ざされていた封印の門が、細く開きかけていた。


「門が……!どうして!」


「さあな。……だが侵入されれば今度こそ、間違いなく殺しにくる」

「そんな……っ!」


 生駒の顔に、絶望の色に染まる。

 闇の向こうで、乾いた笑い声がこだました。


「あーあ、可哀想なさくら。何一つ、お前が望んだものなんて、叶わないのになぁ!」


 その声にはかつての凛とした面影はなく、狂気じみた響きだけがあった。

 息をするのも躊躇われるほど、空気が重く張り詰める。


 さくらの小さな手が、苦しそうに紅猩の腕を握りしめた。その震える指先に、生駒はそっと自分の手を重ねる。


「私が……私が守ると約束いたしましたのに……!」


「いや、巻き込んだのは、俺だ」


 紅猩が汗ばむさくらの髪をそっとかきのけた。その顔は悔しそうに歪み、いつもの冷静さはどこかに消えていた。さくらを見下ろす目に、後悔と焦燥が交錯する。


「分かっていたんだ。本当は、最初から。関わるべきではないと」


 紅猩は一瞬、視線を伏せた。腕の中で震えるさくらを強く抱きしめ直し、胸元に手を当てて力を込め続ける。ようやく、その傷が塞がった。

 闇の向こうからは、まるで嘲笑うかのように、より一層高らかな笑い声が響いた。


「はは。よくわかってるじゃねぇか、化け物」


 少しずつ、封印の門が軋むように開き始めていた。金属の重たい音が、湿った闇に反響する。細い隙間から、黒く深い闇がこちらを覗き込み、不気味な風が通り抜けた。

 暗闇の奥に潜む存在が、目に見えぬ威圧を放つように、歪んだ咆哮を轟かせる。


「最初から、お前が大人しく死んでおけば良かったんだよ!

 僕は、さくらのことを愛していたのに……!」


 封印の門が、唸るように揺れ、ガツン、ガツンと断続的に音を立てる。

 どうやら蒼真が門を叩き割ろうと、狂気じみた力を加えているらしかった。猛り狂う声が、暗闇を震わせた。


「お前が!僕に!さくらを殺させたんだ!

 それって、お前がさくらを殺した、ってことだよなぁ!?」

「……どん……な……理屈、それ……」

「お嬢様っ!!」


 紅猩がさくらに流れ込む力が、かすかな効果を示した。

 微かに漏れる声とともに、さくらの瞳がわずかに光を取り戻す。


 冷たい空気が肌を這い、血の抜けた体の重さが現実を思い知らせる。

 呼吸は浅く、ひと呼吸ごとに胸がえぐられるようだった。

 それでも、その門の向こうにいる蒼真に向けて、精一杯の声を振り絞る。


「悪い、けど……まだ……生きて、る……」


 門を叩く音が止まる。薄暗闇の向こう、蒼真の声が、ひどく軽やかに響く。


「あれ?なんだ、生きてたのか。良かった!」

「微塵も、思って……ないくせに……!」


 さくらは苦々しく、かすれた声で吐き捨てた。

 視線は定まらず、朦朧としながらも、その目が紅猩と生駒をぼんやりと捉える。二人の存在が、自分を守ろうとしてくれていることだけが、薄れかけた意識の中でも確かに感じられた。


「私が……死んだら、封印、どう……なるん、だろ……。

 二人とも……じ、ゆう…なれる、かなぁ」


 声はかすれ、途切れ途切れだった。身体は重く、思うように動かせない。痺れた指先をわずかに動かし、生駒を見て小さく、かすかな笑みを浮かべた。


「……へへ。そし……たら、生駒。村……もど、れ……る」

「嫌です!お嬢様がいなければ、私が戻る意味はありません!」

「……冗談、だってば……」


 さくらはかすれた息を吐きながらも、弱々しく笑い、生駒の手に自分の手を重ねた。その温もりが、もう自分には感じ取れない。

 朦朧とする意識の中で、それでも視線は紅猩を探し当てた。


「やっぱり……わたしが、見た過去……どこか、ちがう……」


 喉の奥で咳が弾け、胸に焼けつくような痛みが走る。

 声を出すたびに命が削られていくのを感じる。それでもなお、歯を食いしばって言葉を重ねた。


「まもる……さんが……裏切った、って……けど……」

「もういい。喋るな」


 低く唸る紅猩が、その声でさくらを押しとどめようとする。

 だがさくらは、荒い呼吸の合間に、かすれた声をねじ込むように続けた。


「だめ……いましか、ないかも……しれない」


 その瞬間、背後の封印の門が轟音を立て、荒々しく叩かれる。

 金属が軋み、今にも裂けそうな重圧が、空気ごと押し潰してくる。


 さくらは紅猩の腕に縋りつき、残された力をかき集める。言葉に変えられるのは、もうほんの一握り───それでも。


「あなたは……化け物、なんかじゃ、ない。

わたし……信じ、てる……」

「……俺は……お前を信じられなかった」


 紅猩の手が止まる。爪が食い込むほど強く肩を掴まれた。

 声に滲む、壊れそうなほどの苦しみが、その手越しにぼんやりと伝わってくる。


「俺のくだらない思いで、躊躇った。

 そのせいでお前を危険に晒したのに……!」


 顔は霞んで見えない。

 震えが自分のものか、紅猩のものかも、もうさくらには分からなかった。

 それでも確かに感じる。彼が今、必死に自分を抱きとめていることだけは。


「でも……来て、くれ……た」


 さくらはかすれた息を吐きながら、小さく、かすかな笑みを零した。

 紅猩の腕を握り続けていた指先から、力がゆるやかに抜けていく。


 紅猩は迷わずその手を取る。焦点の定まらないさくらの瞳を、揺るがぬ眼差しで見据えた。


「……ひとつだけ、『約束』をして欲しい」


 指が、さくらの首元にそっと触れる。

 その首元に浮き出た、互いを結ぶ証───月落ち桜の紋を、確かめるように撫でた。

 触れるその手に、もはや迷いはなかった。


「生きろ。

生きて……今度こそ俺に、お前を信じさせてくれ」

「……ふふ……がん、ば……る」


 さくらのまぶたがゆっくりと重くなる。意識が、再びまどろみの中に沈んでいく。

 それでも紅猩は、その小さな温もりをしっかりと感じ取り、視線を逸らさずに見据えていた。


「こう、しょ…」

「暁人だ」


 はっきりと、口にした。

 そっと、さくらを抱えていた腕を下ろし、柔らかく寝かせる。

 その指先に残る余熱を最後に感じ取りながら、目の前の封印の門を見据える。門は今にも開きそうだった。


 息を整え、横たわるさくらを庇うように前に立つ。闇に沈む空間の中で、その姿は孤高に、そして確固としてあった。


「俺の、名前は暁人」


 それは、かつての親友がくれた名前。


 あの日、捨てたはずの名前。


 その名を背負い、立つ。


 門が、重々しく音を立てて全開する。

 光が闇を裂き、白い式服の男が静かに姿を現した。

 歪んだ笑みを浮かべた蒼真。その足取りは、一歩、また一歩と闇を踏み裂いていく。

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