第15話 嘘
「……入るなと、言ってあったはずだ」
その声は低く、ひどく静かだった。 怒鳴るでも、責めたてるでもない。
けれど、どこまでも深く沈んでいくような、重たく乾いた声音に、さくらの背筋は凍りついた。
「紅、猩……?」
喉が、ひりつくほどに乾いている。
かすれるように名を呼んだ声は、弱々しく虚空へと消えていった。
鏡越しに見える紅猩とは目が合わない。
けれどその存在だけは、鏡の奥に確実に存在していた。
ようやく、さくらはおそるおそる身体を反転させる。
紅猩は、開いた襖の向こう、仄暗い廊下の影の中に立っていた。肩の一線すら揺らさず、彫像のように微動だにしない。
それはまるで、言葉を紡ぐより先に、すべてがもう遅いとでも言われているような、そんな空気だった。
「……ごめんなさい」
やっとの思いで吐き出した謝罪の声に、紅猩は短く言った。
「なぜ入った」
声には何の抑揚もなかった。
それがかえって、息苦しいほどの圧となってさくらにのしかかる。
「……え……?」
「何が目的だ」
間髪なく投げかけられるその問いはまっすぐで、ひどく冷ややかだった。
「それは……その、襖が、開いていて……だから……」
言い訳めいた言葉が口からこぼれる。
必死に取り繕うように紡いだ言葉は、どこか頼りなく、薄っぺらかった。
本当は、生駒の姿を見かけて気になって追いかけただけなのに、それを口にすれば紅猩は生駒を疑ってしまうかもしれないと思うと、言い出すことができなかった。
何より、さくら自身も生駒がどうしてあの部屋に入ったのか、まだ何もわかっていなかった。
理由も、事情も、なにもわからないまま、ただ小さな疑問とほんの少しの好奇心にひっぱられて足を踏み入れてしまっただけだった。
だからこそ、何ひとつ説明できない。
それが、答えの曖昧さにそのまま出ていた。
紅猩は一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。
軋む床板の音が静寂に刺さり、いやに大きく響いた。
紅猩の目が、さくらの方を向く。しかしそれは目の前のさくらではなく、遥か彼方の、見えない何かを見据えているように感じられた。
「お前だけか」
「……え?」
「ここにいたのは、お前だけか」
「……うん……私だけ……」
口にした瞬間、さくらの胸の奥がきゅっと痛んだ。
ほんの一瞬、迷いがあったのは自分でもわかっていた。
でも、それを口にしてしまった今、もう後戻りはできなかった。
紅猩は何も言わずにさくらの元へと歩み寄る。
しゃがんだままのさくらは、動くことも、目をそらすこともできず、ただその気配を全身で受け止めるしかなかった。
紅猩が目の前まで来る。
何の言葉もなく、その手をそっと伸ばした。
さくらの手から、鏡がするりと引き抜かれる。
「……そうか」
その呟きは、目の前の紅猩から発せられたものとは思えないほど、遠く感じられた。
しばしの沈黙が流れたのち、紅猩は鏡をそっと元の台座に戻す。
そして、さくらを一瞥することもなく、背を向けて言った。
「出ていけ」
その言葉は、冷たくも鋭くもなかった。
ただ、静かに突き放すように、終わりを告げる声に、さくらは返事をすることができなかった。
喉の奥が強く締めつけられて、言葉が出ない。
それでも、何か言わなければと躊躇いながらも、足は勝手に後ずさっていた。
そして、ひとつ呼吸を置いて、襖の外へと足を踏み出す。
振り返るつもりはなかった。
けれど、胸の奥に残るわずかなざわめきが、足を止めさせた。
そして気づけば、もう振り返っていた。
部屋の中央、鏡の中に映った紅猩の姿が目に入る。
長く流れる赤い髪がその顔を半ば覆っていたが──その隙間から、ほんの一瞬だけ、見えてしまった気がした。
沈黙よりも静かな、哀しみの表情が。
襖をぴしゃりと閉められたあとも、その表情だけが、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
*
さくらは、振り払うように踵を返し、廊下を駆け出していた。
廊下を踏みしめる音が、どこか他人のもののように耳に響く。
さくらは足を止めることもできずに、ただ生駒の姿を求めて廊下を進む。
背後に残してきた紅猩の沈黙と、あの鏡に映った表情が忘れられない。
何かに触れてしまったという思いが、胸を塞ぐ。きっと、触れるべきではなかった何かに。
それでも、さくらは廊下を進んだ。
もう引き返せないことは明らかで、ならばせめて、胸の奥に渦巻くこの不信と違和感の正体を確かめずにはいられない。
ようやく廊下の先に、生駒の背中が見えた。 庭先の縁側で、箒を手に掃除をしていた。
けれど、さくらに気づくと、動作を止め、いつもの穏やかな笑顔で顔を上げた。
「お戻りですか、お嬢様。そろそろお食事の時間に致しますか?」
その言葉に、さくらの胸がちくりと痛む。
何も知らないふうな、他人行儀な口ぶりが、いっそうさくらの疑念を煽った。
「待って、生駒。話があるの」
「お話ですか?なんでしょう」
さくらは一歩、彼女に近づいた。
心臓の鼓動が、耳の奥で自分に問いかけるように鳴っている。
「さっき、あの奥の間にいたよね」
生駒は一瞬、表情を止めた。
それはほんのわずか、まばたき一つ分の沈黙だったかもしれない。けれど、さくらの目は、その目が泳いだのを見逃さなかった。
生駒は答えず、縁側の方へと視線を滑らせる。
握った箒の柄に目を落とし、言葉を選ぶように、わずかに口元を引き結んだ。
「……何のことでしょう。私はずっと、こちらで掃除をしておりましたが……」
「どうして、そんなこと……嘘、つくの?」
思わず声が尖った。
普段なら口にしないような強い言葉が、胸の奥からあふれ出す。
返す言葉を探すように、生駒の視線が宙をさまよい、何かを飲み込むように、あるいは平静を装うかのように、喉元がわずかに動いた。
「……確かに、奥の間の前は通りました。でも……でも、それだけです」
俯いたままの声は、淡々としているのに、どこかぎこちない。 まるで整えた言葉の陰に、本音を隠すようだった。
「そんなこと、訊いてるんじゃないの……っ!」
さくらの声が震える。
「私は、何を隠してるのかを訊いてるの」
「……」
「私に、言えないことでもあるの……?」
生駒は、その問いに答えようとはしなかった。 ただ、箒を持つ手をぎゅっと握りしめて、首を少しだけ垂れる。
「なんで私にも何も教えてくれないの?
……私、生駒のことずっと……信じてたのに……!」
その声は怒りでも問い詰めでもなかった。
ただ、ひび割れた心からこぼれ落ちるような、静かな悲鳴だった。
その声音に、生駒は一度だけ顔を上げかけたが、結局、視線を落とす。
「……本当に、なんでもないんです」
その声はかすかに震え、風にかき消されそうなほど小さかった。
「そうやって、教えてくれないんだね……」
さくらのそれは、もはや問いではなかった。
何も変わらないと知っていて、それでも呟かずにはいられなかった言葉。
さくらは泣きそうな顔を必死に隠しながら、くるりと踵を返す。
そして、生駒の前から、静かにその場を去っていった。
生駒だけがぽつんと取り残された縁側には、ただ冷たく重い沈黙だけがじわじわと降り積もる。
肩がかすかに震えるのは、冷たい風のせいか、それともその胸の内が揺れているからか。
「私は、お嬢様がお幸せでいられればそれで良くて……っ!
でもそのためには……」
声にならない言葉が喉の奥に絡まる。
何かを押し殺すように、そして絞り出すように、小さく呟いた。
「そのためには、これが……最善なのだと」
生駒はまるで自分に言い聞かせるように、ただ静かに目を閉じた。
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