田舎暮らしのダンジョン配信者~元社畜おっさん、田舎でのんびり旅館経営したいだけなのに、勝手に最強認定されて世界に見つかってしまった~
みんと
第一章 奥谷旅館再建 編
第1話 朝起きると、実家の庭にダンジョンが生えていた件について。
魂のすり減る音がする。
終電間際の電車は、同じように魂をすり減らした人間たちを詰め込んだまま、無機質なレールの上を滑っていく。
吊り革を握る指先はとうに感覚を失い、俺はただ、ガラス窓に映る自分の覇気のない顔をぼんやりと眺めていた。
アパートの最寄り駅で吐き出され、夜の闇に溶けたアスファルトを踏みしめる。自分の足音だけがやけに大きく響く、深夜の住宅街。
鍵を開けてドアを開けると、いつも迎えてくれるはずの生活の匂いが、綺麗に消え去っていることに気づいた。
「ただいま……」
絞り出した声は、しんと静まり返った部屋に吸い込まれて消える。
彼女も残業か。そう思うには、部屋はあまりにも「無音」すぎた。
ネクタイを緩めるのも忘れ、リビングへと足を踏み入れる。違和感の正体はすぐにわかった。
二人で選んだはずのラグの上には、彼女がいつも脱ぎ散らかしているルームウェアも、読みかけの雑誌もない。まるでモデルルームのように、不自然なほど整然としている。
「絵麻!?」
嫌な予感が、冷たい鉄の爪となって心臓を鷲掴みにする。
玄関のシューズクロークに、彼女の靴は一足も残っていなかった。洗面所の棚から、彼女の化粧水や歯ブラシが消えていた。そして、寝室のウォークインクローゼットを開けた瞬間、予感は絶望的な確信へと変わった。
自分の服だけが並ぶその空間は、まるで口をあんぐりと開けた巨大な獣のようで、彼女がここにいたという事実そのものを、喰らい尽くしてしまったかのようだった。
ふらふらとリビングに戻ると、ダイニングテーブルの上に、白い封筒がぽつんと置かれているのが見えた。
その傍らには、銀色の合鍵が、冷たい光を放っている。
震える指で封筒を手に取った。上質な紙の、なめらかな感触がやけに腹立たしい。
中にあったのは、たった一枚の便箋。そこには、彼女の綺麗な筆跡で、こう書かれていた。
『さようなら。今までありがとう。私、他に好きな人ができました。』
脳が、理解を拒絶する。
どうして。なぜ。何かの冗談だろう?
「そういうことは、ちゃんと結婚してからね……」。そう言ってはにかみ、俺に手しか握らせなかった彼女の潔癖さは、いったい何だったというんだ。
その言葉を信じて、俺は来る日も来る日も、身を粉にして働いてきたというのに。
その結果が、これ……?
ブブッ、と。
静寂を冒涜するように、スラックスのポケットでスマホが短く震えた。
取り出した画面に表示された忌々しい名前に、眉をひそめる。
職場の後輩――沢辺。俺の企画を横取りし、俺のミスだったと上役に吹聴して、まんまと俺のポストに座った男だ。
無視を決め込もうとした指が、ロック画面に表示されたメッセージのプレビューを捉えて、凍り付いた。
『奥谷さん、お疲れ様ですw 彼女さん、俺がもらっちゃいました』
頭が真っ白になる。
指が勝手に、その通知をタップしていた。
トーク画面に表示されたのは、一枚の写真。
見覚えのある高級ホテルのロゴが入ったバスローブをこれ見よがしに羽織った後輩。そして、その後輩の逞しい腕の中で、俺が見たこともないような、とろけるような顔で微笑んでいる元カノの姿がそこにはあった。
ああ、そうか。
パズルのピースが、音を立ててはまっていく。
俺が出世街道から外れたと打ち明けた夜、彼女の瞳からふっと光が消えた、あの瞬間。
俺は恋人じゃなかった。ただの、将来有望なATM。値札のついた、ただの物体だった。
仕事も、恋人も、未来も、俺が積み上げてきたと思っていた砂の城は、一人の男が起こした波に、いとも容易くさらわれていった。
膝から、力が抜ける。
どっと身体が重くなり、フローリングの冷たさが、惨めな俺の心をこれでもかと抉った。
「もう……いいか……」
誰に言うでもなく、乾いた唇から言葉がこぼれる。
もう、何もかもどうでもよかった。
衝動的にスマホを手に取り、その無機質な画面の光の中で、『退職代行サービス』と検索する。幸い、というか皮肉なことに、結婚のためにと貯めていた貯金だけは、まだ俺の手元にあった。
もう後戻りはできない、という破滅的な快感を覚えながら、申し込みボタンをタップする。
これでいい。これで、全て終わりだ。
空っぽになった心で天井の木目を眺めていると、再びスマホが鳴った。
今度は、電話の着信。ディスプレイに表示された『母さん』という二文字が、なぜか滲んで見えた。
「……もしもし?」
『あら、俊? よかった、やっと出たわ。あのね、ちょっと相談があるんやけど……』
電話口から聞こえる母の声は、記憶にあるよりもずっと細く、弱々しかった。
父が亡くなってから、女手一つで田舎の古びた旅館を切り盛りしている母。その声色だけで、もう限界なのだと痛いほど伝わってきた。
『……帰ってきて、旅館を継いでくれんかしら』
その言葉は、濁流に呑まれた俺の目の前に差し出された、唯一の藁だった。
東京に、もう未練など一片もない。
「わかった。……帰るわ、母さん」
俺は、ほとんど即答していた。
*
それから数日後。
俺は、実家の最寄り駅のホームに降り立った。
むわりと肌にまとわりつく生暖かい風。濃い緑と土の匂い。遠くで響く軽トラックのエンジン音。
五感に流れ込んでくる全てが、東京とはまるで違っていた。
「俊お兄ちゃーん!」
不意に、鼓膜を心地よく揺らす、太陽のような声。
声のした方を見やると、夏用の制服を爽やかに着こなした一人の美少女が、満面の笑みでこちらに手を振っていた。
「小町……か?」
「そうやよ! もー、久しぶり! お帰りなさい!」
そう言うやいなや、笹川小町は、長い黒髪をなびかせて俺のもとへ駆け寄り、その勢いのまま胸に飛び込んできた。
甘いシャンプーの香りと、忘れていた人の温もり。
昔は俺の後ろをちょこちょことついて回っていた、鼻垂れのガキ。それが今や、目をみはるほど大人びて、眩しいくらいの女子高生になっていた。
「うわっ、お、おい! もうお前は女子高生なんやから、急に抱きつくな!」
「えー、照れてるん? 俊お兄ちゃん、かーわいー!」
腕の中で、小町は悪戯っぽく笑う。その屈託のなさに、絶望で凍り付いていた心が、少しだけ解かされていくのを感じた。
小町と一緒に、実家である旅館『おくや荘』へ向かう。
再会した母さんは思った以上に小さくなっており、旅館は想像以上に、時の流れに取り残されていた。ギシギシと鳴る床、柱に残る無数の傷、そして少しカビの混じった古い畳の匂いが、その歴史と窮状を物語っている。
縁側で麦茶を飲みながら東京での出来事をかいつまんで話すと、小町は自分のことのように眉を吊り上げて怒ってくれた。
「最低やよ、そいつら! 絶対に許せんわ! ……ねえ、俊お兄ちゃん!」
小町は、ぱんっ、と威勢よく膝を叩いた。
「じゃあ、私この旅館でバイトするわ! 看板娘になって、お客さん、いっぱい呼んであげる!」
その力強い宣言に、思わず苦笑がもれる。だが、その真っ直ぐな瞳は、何よりもありがたかった。
こうして俺は、看板娘を雇い、寂れた旅館の主として、第二の人生をスタートさせたのだった。
翌朝。
慣れない布団の感触で目を覚ます。障子窓の外からは、鳥の声に混じって、何か奇妙な音が断続的に聞こえてきていた。
ジジ……ジジジ……。
テレビの砂嵐のようでもあり、空間そのものが軋んでいるようでもある、生理的な嫌悪感を誘う音。
なんだ?
眠い目をこすりながら障子を開け、旅館の裏手にある、手入れのされていない庭に目をやる。
そして、俺は息を呑んだ。
昨日まで、そこには何もなかったはずだ。
苔むした庭石と、伸び放題の雑草。それだけだったはずの空間が、ぐにゃりと歪んでいる。
歪みの中心は、光すら吸い込むような絶対的な闇。まるで、星のない夜空が地面に落ちてきたかのような、禍々しい洞窟が、そこに口を開けていた。
「……は?」
ニュースで、ネットで、毎日のように目にする、現実感のない情報。
世界中に突如として現れ、富と名声、そして死を人々に与えるという、あの。
「なんよ、あれ……」
なんで、うちの庭に?
「……ダンジョン……?」
拝啓、天国の父さんへ。
朝起きると、実家の庭にダンジョンが生えていた件について。
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