うんちを踏んだ日、不運な日
@Namida_demasuyo
第1話
うんち。
今しがた踏みつけて、スニーカーの裏に、ねばっこくまとわりついてきたそれは、私が現状に囚われている様子を暗示するように、進んでも、進んでも、なかなか剝がれてくれなかった。
一学期の終業式。
近所に住んでいるハナエちゃんと喧嘩をした。
ハナエちゃんが、隣町の花火大会に行くと聞いたのは、その一週間前。
お母さんに「私も行きたい」と頼み込んだものの、「お母さんはお小遣いをあげられない、ゴメン。」って。
なにがゴメンだ。
ゴメン。ゴメン。
ゴメンは、貧乏であることも、お父さんがいないことも、どっちのメンザイフにもならないのに。
うちが苦しい事も、私は知っていた。
お母さんがこっそりと、ごはんに麦を混ぜていることも。
何も知らないハナエちゃん。
かわいくて、いつもブランド物を着ていたハナエちゃん。
こぎれいなお母さんと、ダンディーなお父さん。
二人に囲まれて笑ってたハナエちゃん。
「おみやげ、買ってくるね」と言われた時、「馬鹿にしないで」なんて言っちゃった。
ビー玉みたいな目にいっぱいの涙をため込んで、ハナエちゃんは、何も言わないで走って行った。
ゴメン。ゴメン。ごめんなさい。喉元まで出かかった言葉は、口の中で苦みとして広がった。
そんな私を現実に引き戻すかのように、祭囃子の音が聞こえてくる。
聞きたくない。嫌だ。
強く耳をふさいで、ただ歩身を進める。
遠くから、キャラクターカステラのにおいがする。今流行りの「でっかよ」もカステラになったのかしら。
ハナエちゃん、今日は浴衣かな。
一方の私はヘロヘロの英字Tシャツで。みじめ、みじめ、みじめみじめみじめ。
温まったアスファルトの上を、何度も、何度も滑るように往復する足は、まるで鉛をぶら下げられたように重い。
とにかく、今は町を少しでも離れたい。遠くへ。
一歩、また一歩と、重い足を引きずって歩いていたらトンネルが見えてきた。
長い、長いトンネル。
私が知る限り、この辺りで一番長いやつだ。
生暖かい風が足の間をすり抜けて、私を呼んでいるみたいにトンネルから「ひゅ~」と音がする。
生唾を飲む。
このまま入ってみたら、私はどうなるんだろう。
トンネルに入った。
少しでもこの町から離れてみたくって。
ささやかな冒険。でも、ワクワクするんだもの。いいよね。
中の空気は若干こもっていて、じっとりと湿ったにおいがする。
この時代には珍しく、足元の明かりはない。
あるのは、もう替え時であろう蛍光灯である。
明かりがちかちかと点滅し、さながらライブハウスのような雰囲気を作っている。
「ねえ、踊ってみない?」
風がさざめいてくる。振り向く。
誰もいない。見えるのは、先ほど通ってきた道のみ。
「終わったことなんてわすれなよ、今は夏休み。休みなんだから、休むことだけ考えなよ。」
私の中の誰かが言う。
そうだよね、忘れていいよね。
周囲のじっとりとした空気を、さながら雪の女王のドレスがごとく揺らして、くるりとターンしてみる。
風を切っているときだけ、空気はさらりと軽くなって気持ちいい。地面をけって宙を舞う私は、今だけはプリンセスだ。
くるり、くるくる。
私は躍り、温かな風は私の髪を揺らす。
無観客の小さなライブは、足元で育っていた苔によって中断することになった。
ずるりと、今まで見ていた景色が反転する。
間髪も入れずに膝小僧をしたたかに打ちつけた。
スマートフォンで照らすと、傷口からは湧水のごとく深紅が漏れ出ている。
じくじくと痛む足を奮い立たせ、起き上がる。
また鉛が増えてしまった。
「はあ、不運だなあ」
ぽつりと吐いた言葉は、トンネルの中に反響し、こだまを作った。
蝉の声、後から入ってきた子供の黄色い笑い声、ときどき私のため息。
夏休みが織りなす、奇妙なシンフォニーが演奏されはじめた。
もう走る元気はない。
ずる、ずる。
引きずった足のパーカッションも加わり、何と豪華な演目なんだろう!なんだか楽しくなってきた。
その勢いのままに笑ってみる。うじうじしていた自分がばからしくて。
不運だ。でも、それだけ。
不運でも、不運なりに楽しめばいいよ。そうじゃん、そうだった。
今だって、トンネルに入らなかったら、響きの楽しさに気付けなかった。
今日一日は、きっと無駄じゃない。
そう考えたら、心についた鉛が、段々と軽くなってきた。
コーラスに入っていたため息は、だんだんと弾んでいく。
ズルズルと音を立てていた足は、ドラムのようにリズムを刻むようになった。
すたたん。たたん。ふんふんふん。
ぐちゃぐちゃだった演目は、夏のように明るいフィナーレを迎えた。
目の前の光が大きくなってきて、出口が近づいてきた。
大団円に葉っぱが風に乗せて拍手を送ってきている。
心なしか、日が傾いてきているようで、トンネルの中も暗くなってきた。
先程打った部分も、かさぶたのおかげか痛みが引いている。
やっぱり、なんだかんだ言って、時間が解決してくれるのかな。
ハナエちゃんも、もう怒っていないんじゃないかな。
根拠のない自身が体の中に湧き出てくる。
うんち。
スニーカーの裏に染みついたそれは、いつ剥がれるのかな。
とにかく、歩き続けなければその時は来ない。
ハナエちゃんだって、私がうじうじなやんでいても、本人が何を思っているかなんてわからないじゃないか。
とりあえず、もう少しだけ歩いてみよう。
そんな思いを込めて、橙色になってきている光の中へ向かって、また一歩、今度は足を高く上げて踏み出した。
夕方の涼しげな風が優しく、その背中を撫でていった。
うんちを踏んだ日、不運な日 @Namida_demasuyo
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