3. 「観察の目」

鉄扉の先──そこにある“揺れる空間”を前に、悠は息を呑んだ。


ただの空気ではなかった。

目には見えない膜のようなものが、空間の端に“存在”していた。


その先には、何があるのか。

それは、もう“扉の向こう側”というより、“別の世界”だった。


(これが……ダンジョン)


全身が緊張し、心臓が強く脈打つ。

だが、恐怖だけではない。


「……行こう」


その一歩を踏み出すと、世界が反転したような感覚があった。


空間がきしむ。

空気の密度が変わり、重力の感触さえ歪んでいく。

光源がないはずなのに、ぼんやりと視界は明るい。


まるで、夢の中にいるようだった。


──そして、その瞬間。


(……!)


体の内側で、何かが“流れ込んでくる”感覚。

熱でも痛みでもない。

ただ、確かに「力のようなもの」が、自分の奥深くに染み込んでいく。


言葉も、映像もない。

それは、理屈ではなく「本能」に刻まれる何かだった。


(今、何かが……宿った?)


ふと、足元に石で組まれた道が広がっていることに気づく。

古びた回廊のような場所。左右の壁に沿って、いくつかの扉が並んでいた。


その中のひとつ──木製の扉の上には、古代語のような文字が浮かんでいた。

不思議なことに、読めないはずのそれが、心に直接意味として流れ込んでくる。


《鑑定の間》


(……ここで、確認できるのか?)


吸い寄せられるように扉を押し開くと、中には石造りの円形の部屋があった。

中央には人の背丈ほどの石碑。

その表面は滑らかに研がれており、手をかざすと微かに熱を持っていた。


悠はゆっくりと、右手をその石碑に触れた。


次の瞬間──


視界が光に包まれた。


世界が、一瞬だけ止まったような感覚。


そして、脳裏に──


【スキル確認】

スキル:「観察眼」


悠は、息を呑んだ。


(観察眼……?)


まるで、自分の感覚が一段階“拡張”されたような錯覚。

石碑から手を離しても、まだその感覚は残っている。


周囲の音、空気の揺れ、光の反射──

それら一つ一つが、妙にくっきりと“見えて”いた。


「スキルって……本当に、あるんだな」


その実感は、恐怖ではなく、どこか喜びに近かった。

まるで、自分という存在に初めて“輪郭”が与えられたような。


奥の通路に、何かがぬるりと動いた気配がした。


(……来る)


ゆっくりと姿を現したのは、透明に近い青い粘体──スライムだった。


小さく、動きも緩慢で、明らかに“弱い”存在。

だが、悠の胸は高鳴った。

初めての“戦い”が、今ここにある。


拾った鉄パイプを構え、一歩、また一歩と距離を詰める。

観察眼が、スライムの動きの“癖”を見抜く。

跳ね上がるタイミング、重心の流れ──すべてが手に取るように分かる。


そして、初撃。

重い金属音と共に、スライムは裂けるようにして崩れ、床に溶けた。


その液体が、霧のように立ち上り、悠の身体に吸い込まれていく。


(まただ……)


静かに、微かに、力が満ちていく感覚。

だが、それ以上の“変化”は感じなかった。


「……一度、戻ろう」


すぐ先に、階段が続いていたが、今日は深追いするつもりはなかった。

まずは確かめる。

この空間が、どれほど現実なのか。

そして、得た“観察眼”が、自分にとってどんな意味を持つのか。


ダンジョンの出口に足を踏み出すとき、背後から微かに空気が鳴った。


(あの奥に……何がある?)


だが今はまだ、その先を見る準備はできていない。


足元の石畳が現実に戻り、大学の裏通路へと繋がっていく。


悠の背中には、もう恐れはなかった。


──世界は変わった。

そして、自分もまた、変わり始めている。

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