第45話「虚無との対話」

 ティア・ゲートの向こう側は、アレンが知るいかなる宇宙とも異なっていた。

 そこは、混沌そのものが形を持った世界だった。

 次元連結点(ディメンショナル・ネクサス)。物理法則がその意味を失う、宇宙の墓場。

 《オデュッセウス》の船窓の外には、星々が生まれ、そして瞬く間に死んでいく光景が、まるで早送りの映像のように流れていく。空間はありえない角度で折れ曲がり、時間は伸び縮みを繰り返し、船の計器類は狂ったように意味のない数値を表示し続けていた。

 時折、死んだ宇宙の残骸が、巨大な亡霊のように船のすぐ側を通り過ぎていく。そこには、かつて生命が、文明が、そしてアレンたちのものと変わらぬ、誰かの日常があったのかもしれない。

『警告。船体にかかる次元応力が危険数値を突破。このままでは、我々の存在そのものが、この時空の歪みに解きほぐされてしまいます』

 ソラリスの声が悲鳴のように響く。

「耐えろ、ソラリス!」アレンは操縦桿を握りしめ、叫んだ。「僕らがここで終わるわけにはいかない!」

 彼は、祖父が遺し、レイラが命がけで届けてくれた「鍵」――エーテル物理学の最終理論を、船のナビゲーションシステムに直結させていた。混沌としたこの宇宙の嵐の中を、ただ一つの確かな羅針盤として。

 友の尊い犠牲によって開かれた、この道を。進むのだ。


どれほどの時間が過ぎたのか、もはや誰にも分からなかった。

 やがて、船を翻弄していた狂気の嵐が、嘘のようにぴたりと止んだ。

 彼らは、ついにたどり着いたのだ。次元連結点の、その中心へと。

 そこは、意外なほどに静かで、そして穏やかな空間だった。全ての混沌が収束した、絶対的な無。真空のさらにその先の、真の虚無。

 そして、その虚無の中心に、それは静かに鎮座していた。

 ヴォイドのコア。

 それは、怪物でも、機械でもなかった。アレンの目の前にあったのは、あまりにも巨大な黒い水晶でできた、神経細胞(ニューロン)のような有機的な構造体だった。その無数に枝分かれした水晶のシナプスの内部を、かすかな、そしてどこまでも哀しげな紫色の光が、ゆっくりと明滅を繰り返している。

 それは、まるで宇宙そのものの、巨大な、そして傷ついた脳のようだった。


《オデュッセウス》がそのコアに近づいた、その時だった。

 声が聞こえた。

 それは音波ではない。思考そのものが津波のように、アレンと、そしてソラリスの意識の中へと直接流れ込んできたのだ。

 それは、一つの宇宙の最期の記憶だった。

 ――光が消えていく。最後の恒星がその命の輝きを失い、永遠の、そして絶対的な闇と寒さが、宇宙の全てを支配していく。

 ――我々は消えるのか。我々の文明も、歴史も、愛も、悲しみも、全てがただ無に帰すのか。

 ――嫌だ。消えたくない。怖い。怖い。怖い。

 ――一つの意識となるのだ。我ら、全ての最後の民の魂を一つに束ね、この死にゆく宇宙の壁を破壊し、外へ……! 他の、まだ温かい宇宙へと逃れるのだ!

 彼らは侵略者ではなかった。

 彼らは、自らの宇宙の避けられない「死」から逃れるために、全てを捨て一つになった哀れな難民だったのだ。そして、その消滅へのあまりにも巨大な恐怖が、彼らの魂を歪ませ、変質させ、他の宇宙の「秩序」をただ自らの「混沌」で塗りつぶすことしかできない、悲しき怪物へと変えてしまった。


アレンは、そのあまりにも哀しい魂の絶叫に、ただ打ちのめされていた。

『……ターゲット、補足』

 ソラリスの声がアレンを我に返らせた。

『エーテル・キャノン、充填完了。いつでも発射可能です。このコアを破壊することが、全ての脅威を排除する最も確実な論理的帰結です』

 そうだ。引き金を引けばいい。

 そうすれば全てが終わる。ガレイドの、レイラの、そしてマイルズ局長の仇を討つことができる。彼らの犠牲に報いることができる。

 アレンの指が、ゆっくりと発射トリガーへと伸びていく。

 だが、その指は途中でぴたりと止まった。

 彼の脳裏に、ヴォイドのあの最後の記憶が蘇る。消えたくない、と泣き叫ぶ無数の魂の声。

 アレンは、その声の中に、自分自身を、そして自分たちの宇宙の未来の姿を見ていた。

 友たちの犠牲は、復讐のために捧げられたものではない。憎しみの連鎖を断ち切り、その先の希望の未来を掴むために捧げられたはずだ。

 アレンは、ゆっくりとトリガーからその手を下ろした。


「……違うよ、ソラリス」

 彼は静かに、そして力強く言った。

「僕らは彼らを破壊するためにここへ来たんじゃない」


アレンは目を閉じ、意識を集中させた。そして、自らのケイローン・バンドを通じて、兵器としてではない、純粋なコミュニケーションのためのエーテルの波を、ヴォイドのコアへと発信した。

 それは言葉ではない。思考そのものだ。攻撃の意志ではない。共感の意志表示だ。


――聞こえるか。

 ――君たちの歌が、聞こえる。

 ――それは、哀しみの歌だ。喪失の歌だ。そして、恐怖の歌だ。

 ――僕のいた宇宙も、恐怖を知っている。僕らも、かつて互いを憎み、殺し合い、自らを滅ぼしかけた。僕らも君たちと同じなんだ。


アレンの、そのあまりにも無謀な「対話」の試み。

 それに、ヴォイドのコアが反応した。

 それまで混沌とした「ノイズ」を周囲に撒き散らしていたその活動が、初めて一瞬だけぴたりと止んだのだ。

 コアの中心で明滅していた哀しげな紫色の光が、わずかにその色合いを変えた。

 それは、恐怖でも怒りでもない。

 驚き? 戸惑い? あるいは……。

 アレンは外交官として、そのキャリアの最後の、そして最大の交渉のテーブルに着いた。相手は、宇宙そのものを喰らう絶対的な敵。

 果たして、混沌との対話は成立するのか。恐怖に支配された魂に、希望の光は届くのか。

 二つの宇宙の全ての運命は、今、この前代未聞の一人の青年による対話の試みに委ねられた。

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