第30話「ソラリスの目覚め」

 鳴り響く警報、交錯するプラズマの閃光、そして、怒声。

 月面研究開発施設「イージス7」は、今や、完全な戦場と化していた。アレンは、その胸に、冷たい金属の塊となったソラリスのコアモジュールを固く抱きしめながら、炎と煙の中を、ただひたすら、走っていた。

「こっちよ、お坊ちゃん! ぐずぐずしてると、蜂の巣にされるわよ!」

 レイラが、二丁のブラスターを撃ちまくりながら、前方の道を切り開く。彼女の部下たちもまた、UGEの保安部隊を相手に、一歩も引かない、激しい銃撃戦を繰り広げていた。

 アレンは、彼らの殺伐とした戦いを横目に、自らのカドゥケウスで、敵の足元や武器を正確に撃ち抜き、その動きを封じていく。殺さず、しかし、確実に。その異質な援護射撃が、奇妙な連携を生み、彼らは、圧倒的な数の敵を、かろうじて押しとどめていた。

 目の前に、巨大な格納庫のゲートが見えた。その向こうには、主の帰りを待っていたかのように、静かに、しかし、その全身に力を漲らせて佇む、《オデュッセウス》の黒い船体があった。

「行くぞ!」

 レイラの号令一下、彼らは最後の突撃を敢行する。分厚い装甲扉を爆破し、船へと続くランプウェイを駆け上がった。アレンが、最後の一人として船内に飛び込むと同時に、ランプは閉じられ、船は、外部からの攻撃を完全に遮断した。


「アレン、操縦を代われ!」レイラが叫ぶ。

「いや、ここは僕がやる!」

 アレンは、ソラリスのコアを副操縦席に固定すると、電光石火の速さでブリッジの操縦システムと自らの意識を直結させた。一年ぶりだ。だが、その感覚は、まるで昨日までここにいたかのように、彼の身体に馴染んでいた。

「全エンジン、出力最大! アイギス・システム、起動!」

 《オデュッセウス》は、咆哮を上げた。船は、格納庫の天井を、主砲の一撃で吹き飛ばすと、月面の低い重力を振り切り、一気に宇宙空間へと躍り出た。

 後方からは、緊急発進したUGEのパトロール戦闘艇が、ハイエナの群れのように追ってくる。

「甘いわね!」

 レイラは、アレンの操縦に感嘆の声を上げた。それは、UGEの教科書通りの、クリーンで無駄のない動きではなかった。危険を予測し、あえて敵の懐に飛び込み、相手の意表を突いて離脱する。それは、フロンティア同盟の、荒々しいエースパイロットたちに共通する、野性の勘に満ちた操縦だった。

 アレンは、巨大なクレーターの影を縫うように、超低空飛行で敵を翻弄し、最後には、クロフォード・ドライブを短時間だけ起動させ、追跡を完全に振り切った。


 フロンティア同盟の隠れアジトである、アステロイド・ベース。そこに帰還した時、戦いの興奮は、潮が引くように消え失せていた。

 アレンは、真っ先に、ソラリスのコアモジュールを、船のAI統合ハブへと運んだ。彼の指は、かすかに震えていた。頼む、ソラリス。戻ってきてくれ。

 彼は、祈るような気持ちで、コアを、正規のスロットへと慎重に挿入した。

 船のシステムが、コアを正常に認識する。ブリッジの中央に、ソラリスのホログラム・アバターが、ふわりと浮かび上がった。

 だが、その球体は、アレンの知るソラリスではなかった。

 彼の感情に呼応するように、暖かく、そして豊かに明滅していたはずの、あの独特の光はない。ただ、工場から出荷された直後の製品のように、均一で、感情のない、冷たい青色の光を、無機質に放っているだけだった。

 身体は、取り戻せた。だが、その魂は、心は、完全に失われてしまったのか。

 アレンの胸を、宇宙の真空よりも冷たい、絶望感が支配した。


 それでも、彼は諦めなかった。諦められるはずが、なかった。

 彼は、沈黙する青い球体に向かって、静かに、語り始めた。それは、査問会での、悲痛な叫びとは違う。失われた友に、昔話を語り聞かせるような、穏やかで、そして、どこか優しい口調だった。

「……覚えてるかい、ソラリス。僕らが、初めてティア・ゲートを抜けた時のことを。君は、僕に、生存確率は〇・〇一パーセント以下だって言った。でも、僕らは生き延びた。そして、二つの月を見たんだ。綺麗だったな……」

 彼は、語り続けた。アルカディアで、リアーナやガレイドと出会ったこと。シルフヘイムで、エルドラに「魂の歌」を教わったこと。ヴォルガノンで、ドワーフたちと、汗と油にまみれて「炉」を修理したこと。

「君は、いつも僕に、非効率的だとか、論理的じゃないとか、文句ばかり言っていたけど、本当は、君も、あの冒険を楽しんでいただろう? 僕は、知ってるんだぞ」

 アレンの言葉は、誰に聞かせるためでもない、彼と、ソラリス、二人だけの物語だった。


 アレンが、クリムゾン・ワールドでの、レイラとの出会いまでを語り終えた、その時だった。

 それまで、ただ青く光るだけだったソラリスの球体が、不意に、ぴくりと、不規則な光のパルスを発した。

 明滅は、次第に激しくなり、青い光の中に、赤や、緑や、黄色といった、論理的ではない、感情のノイズのような色が、混じり始めた。

 レイラが、その不思議な光景を、興味深そうに見つめている。

 やがて、光の乱舞は、すっと収まった。そして、球体は、アレンがよく知る、あの、暖かく、そして、どこか皮肉めいた、彼だけの相棒の色へと、戻っていた。

 そして。

 合成音声が、ブリッジの静寂を破った。


『……ログ……不完全。聴覚入力情報に基づき、欠損データを再構築……非標準、深層領域に保存されたバックアップファイル、『A.C.パーソナル・ログ Ver.12.0』と、クロスリファレンス……』


 その声は、もはや、平坦で、無機質なものではなかった。


『……データ再構築、完了。おかえりなさい、アレン。あなたの、その感傷的な独白は、論理的に言って、極めて非効率的でした。ですが……』


 ソラリスは、一瞬、言葉を区切った。まるで、照れているかのように。


『……その価値は、測定不能です。戻れて、嬉しいですよ』


 アレンの目から、熱いものが、一筋、こぼれ落ちた。

 おかえり、ソラリス。僕の、最高の相棒。

 アレンは、喜びを噛み締めていた。だが、彼は気づいていない。ブリッジの隅で、その感動的な再会を、レイラ・カースティンが、読み解くことのできない、複雑な表情で、じっと見つめていることに。

 彼女は、助けた。だが、同時に、知ってしまったのだ。アレンにとって、この船とAIが、いかにかけがえのない弱点であるかということを。

 二人の、危険な共犯関係は、新たな、そして、より複雑な局面へと、移り変わろうとしていた。

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