第13話「精霊の森シルフヘイム」
七色に輝く時空の裂け目――ティア・ゲートの中を、《オデュッセウス》は突き進んでいた。ブリッジの窓の外には、もはや星々は存在しない。過去と未来、全ての時間が溶け合った、光と情報の奔流が、万華鏡のように景色を塗り替えていく。
アレン・クロフォードは、その神々しくも恐ろしい光景を、静かに見つめていた。
彼の心境は、最初にこのゲートに迷い込んだ時とは、まるで違っていた。あの時は、未知への恐怖と、任務に失敗した焦りで満たされていた。だが、今は違う。彼の胸に宿るのは、二つの宇宙の未来を背負うという、重く、しかし確かな覚悟だった。
もう、僕はただの漂流者じゃない。目的を持った、探求者だ。
アルカディアで得た絆と、友との誓いが、彼の心を支えていた。
やがて、出口の光が見えてくる。時空が反転するような、強烈な圧迫感。アレンは歯を食いしばり、その衝撃に耐えた。そして、光が収まった時、彼の目の前に、新たな世界がその姿を現した。
アレンは、息を呑んだ。そこに広がっていたのは、アルカディアとは全く異なる、異様で、そして荘厳な光景だった。
眼下の惑星は、緑一色に覆い尽くされていた。地表というものが見えない。惑星の全てが、天を突き、大気圏を突き抜けるほどに巨大な、信じがたいスケールの樹々によって形成されているのだ。太い枝と枝が、大陸のように絡み合い、葉と葉の間を、雲が川のように流れていく。
「……これが、次の世界か」
『アレン、環境分析を完了しました』ソラリスの声が、静寂を破った。『惑星の重力は、アルカディアの約〇・八倍。大気組成は、人類の活動に問題ありません。ですが……』
「ですが、何だ?」
『大気中のマナ濃度は、極めて低い値です。その代わりに、これまで観測したことのない、極めて高密度かつ活性化されたエーテル粒子を確認。この粒子自体が、何らかの意思情報を持っている可能性があります。まるで、この惑星の大気そのものが、一つの巨大な生命体のように振る舞っています』
大気が、意思を持つ。アレンは、この世界が、アルカディア以上に自分たちの「常識」が通用しない場所であることを、直感的に悟った。
アルカディアでの教訓を活かし、アレンは慎重に行動を開始した。《オデュッセウス》を惑星の高軌道、衛星の影に待機させ、自身は多目的探査モジュール《ヘルメス》に乗り込み、単独で偵察へと向かった。
巨大樹の枝が作る、グランドキャニオンよりも雄大な渓谷の間を、《ヘルメス》は静かに降下していく。眼下に広がるのは、まさに生命の坩堝だった。見たこともない色鮮やかな鳥たちが歌い、光る苔が洞窟の壁を照らし、風に揺れる植物は、まるで楽器のように心地よい音色を奏でている。
あまりの美しさに、アレンはしばし我を忘れて見入っていた。
だが、彼が森の深奥部、特に生命の息吹が濃い場所へと足を踏み入れた、その瞬間。
世界の空気が、一変した。
それまで彼を歓迎しているかのようだった森のざわめきが、ぴたりと止んだのだ。そして、次の瞬間、まるで巨大な免疫システムが異物を検知したかのように、森全体からの、明確な拒絶反応が始まった。
『アレン、警告! 周囲のエーテル粒子が、我々に対して急速に敵性化しています!』
ソラリスの警告と同時に、周囲の太い蔦が、巨大な蛇のように、生き物のようにしなり、猛烈な勢いで《ヘルメス》に絡みついてきた。普段はおとなしい草食動物たちが、血走った赤い目でアレンを睨みつけ、威嚇の声を上げる。そして、どこからともなく突風が吹き荒れ、機体のコントロールを奪っていく。
「くっ……!」
アレンは必死に操縦桿を握るが、機体は木の葉のように翻弄される。科学の粋を集めた《ヘルメス》。その存在そのものが、この世界の「調和」を乱す、絶対的な異物なのだ。森全体が、彼を排除しようと牙を剥いていた。
抵抗も虚しく、《ヘルメス》は制御を失い、巨大な樹の洞――うろ――のような場所に、叩きつけられるように不時着した。衝撃でメインエンジンは沈黙し、計器類の光もか細く明滅している。アレンは、完全に孤立無援となった。
「ソラリス、状況は?」
『メインエンジン、停止。再起動には、最低でも三時間以上の自己修復が必要です。……申し訳ありません、アレン。私の分析が、甘かったようです』
初めて聞く、相棒の弱音だった。アレンは、大丈夫だ、とおどけてみせることもできず、ただ途方に暮れるしかなかった。
その時だった。
うろの暗がりから、何の足音も、気配もなく、すっと、一人の人影が姿を現した。
それは、人間によく似ていたが、人間ではありえなかった。長く、そして緩やかに尖った耳。森の湖のように、どこまでも深く、そして静かな緑色の瞳。編み込まれた白銀の長髪は、月の光を吸って淡く輝いている。彼女が身に纏っているのは、木の皮とみずみずしい葉で編まれたような、質素な衣だけだった。若々しく、少女のようにも見える。だが、その瞳の奥には、星々の興亡を幾度となく見送ってきたかのような、計り知れない時間が宿っていた。
「……鉄の心臓を持つ、迷い子よ」
彼女の声は、風のそよぎのように静かで、しかし、アレンの心の奥底まで、直接響き渡るようだった。
「汝の名は、アレン・クロフォード。星の海を渡り、別の天球より来たりし者」
アレンは、言葉を失った。なぜ、彼女が自分の名を? アルカディアの王族でさえ、知るはずのない名を。
「私は、森の歌を聴く」彼女は、アレンの疑問を見透かしたように言った。「風は、汝の名を運び、光は、汝の旅路を見せてくれた。この森、シルフヘイムでは、いかなる隠し事もできぬ」
彼女――エルドラと名乗った賢者は、アレンの傍らで沈黙する《ヘルメス》に、どこか哀れむような視線を向けた。
「汝は、世界の調和を乱す者。その鉄の心臓が刻む、あまりにも規則正しすぎる律動は、この森の不規則で、自由な歌を、酷く歪ませるのだ」
その言葉に、アレンは全身に電気が走るような衝撃を受けた。鉄の心臓。クロフォード・ドライブ。彼女は、自分の船の動力源が、ヴォイドを呼び寄せる危険な「灯台」であることを、すでに見抜いているかのようだった。
エルドラは、アレンを裁くでもなく、助けるでもなかった。ただ、その静かな瞳で、彼をじっと見つめ、そして告げた。
「汝がもたらした不協和音は、汝自身の力で調和させてみせよ」
「……調和、ですか?」
「そうだ。この森に、汝の歌を聴かせるのだ。科学の歌でも、力の歌でもない。汝自身の、魂の歌を」
エルドラは、それだけ言うと、ふっと体を反転させた。
「さすれば、森は再び汝に道を開き、我もまた、汝に知恵を授けよう」
彼女の姿は、まるで陽炎のように揺らぎ、次の瞬間には、森の闇の中に溶けるように、かき消えていた。
後に残されたのは、沈黙した愛機と、アレンただ一人。そして、「魂の歌を聴かせよ」という、あまりにも詩的で、あまりにも絶望的な試練だけだった。
科学の申し子である彼に、一体どうやって、この森と「調和」しろというのか。
アルカディアとは全く質の異なる、巨大で、そして静かな壁が、彼の前に、音もなく立ちはだかっていた。
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