第十五話 ともしび

猫がたどり着いたのは、

もう営業していない古い銭湯──「日の出湯」。


軒先の赤い暖簾は外され、建物には「解体予定」の張り紙。

ガラス戸には、かすかに中から漏れる灯り。


中にいたのは、ひとりの老女だった。

誰に見せるわけでもない身なりで、

白い湯桶を両手で抱え、最後の釜に火を入れていた。


「どうせ、明日には潰れるってさ。

でも、今日はまだ“ここ”にあるから」


そう言って、彼女は古びた脱衣所を振り返った。

番台の木は色あせて、釘も浮いている。

でも、掃除だけは、欠かさなかった。


猫は、脱衣所の片隅から、

そっと中を覗き込んでいた。


湯気が立ち上る。

釜から湯が満ち、タイルに反射して揺れている。


「今日は、誰も来ないって分かってるけどね……

けど、もし、あの子が迷って戻ってきたらって……

せめて最後の湯ぐらい、入れてあげたかったの」


あの子、とは誰のことだったのか。

老女は語らない。

ただ湯を見つめていた。


手には、小さな鍵──

それは、古びたロッカーのものだった。


「置いてったの、あの子。

……怒鳴っちゃったからね、あのとき。

“こんな場所、もう時代遅れだ”って言われて……

わたし、何も言えなくて、ただ“もう来るな”って……」


湯気にまぎれて、嗚咽が漏れる。

でも、それは長く続かなかった。


湯の音が、静かに打ち消していく。


「……灯(ともしび)ってさ、

誰かのためにつけるもんだと思ってたんだけど、

いつの間にか、それを“誰か”がいなくなっても続けちゃうのよ。

……バカみたいね」


タイルの隅に、ひとつだけ残った赤いスリッパ。

誰が履いたか、もう思い出せない。

けれど、そこに立っていた“誰か”の記憶だけが、消えない。


老女は、釜の火を見つめたまま、

小さな鍵を湯の中に沈めた。


「もう、閉めるよ」


その声は、まるで空気そのものがしゃべったように、静かだった。


猫は、脱衣所からそっと出ていく。

振り返ることも、声をかけることもない。


湯気が、ただひっそりと立ち上り、

釜の火が、静かに、静かに小さくなっていく。


誰にも見送られず、

誰にも知られず、


その“最後の灯”を、猫だけが──


今日もまた、見届けていた。

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