第十三話 約束の椅子
取り壊し予定と書かれた柵の向こうに、古い映画館があった。
閉館してからもう十数年、いつしか街からも忘れられたその建物が、今月末には跡形もなく消える。
猫は、工事用フェンスの隙間から中へ入っていく。
埃の匂いと、湿ったカビの空気。
足音ひとつない館内に、誰かの気配があった。
中央の客席。
すでにクッションはへたり、椅子の一部は崩れていた。
その中のひとつに、男がぽつんと座っていた。
男は猫に気づかない。
いや、気づいても、無視したのかもしれない。
右手には、折りたたまれた紙切れ。
左手には、誰かと来た記憶がこびりついている空の座席。
「この席で観たんだよ。最後に……」
誰に話すでもないその声が、舞台へ吸い込まれる。
「結局、待たせたままだった。
“今度一緒に観よう”って言ったのに、
その“今度”は来なかった」
猫は、ステージの端に座った。
まるで、スクリーンに映るフィルムの最初の観客のように。
男は、折りたたまれた紙を開く。
それは、古びた映画のチケットの半券だった。
色あせた日付に、ボールペンで書かれた小さな文字。
《ふたりで観るの、たのしみにしてるね》
男の顔は、微かにゆがんだ。
でも、涙は出なかった。
出せるほど、もう残っていないのかもしれない。
「……あのとき、電話一本でも入れてればな。
“仕事で遅れる”のひと言だけでも」
何年も前のことを、まるで昨日の失敗のように呟く。
でも、取り返しはつかない。
その日の夜、彼女は事故に巻き込まれた。
映画館の前で、男を待ったまま。
「この映画館がなくなれば、もうこの場所には戻れない。
……だから、最後に来た。ひとりで」
猫が立ち上がり、静かに通路を歩く。
男の足元を横切り、折れた椅子の影に消える。
男は、チケットを折りたたみ、空の座席に置いた。
「……ごめん。ほんとに。
でもさ、あのあと、俺──
ちゃんと生きてるよ。今も」
スクリーンはもう映らない。
でも、男の言葉は、誰かのためにだけ流されたエンドロールのように残る。
猫は、最後列の座席に登って、後ろからそれを見届けていた。
やがて、男はゆっくりと立ち上がる。
何も持たず、何も言わず、ただ後ろを振り返らずに出口へ向かう。
封鎖された扉が、わずかに軋んだ。
そして静かに──
猫は、古びた座席に残された半券を見つめていた。
そこには、もう誰も座ることはない。
風が舞い、埃を巻き上げ、チケットを床に揺らす。
猫は、それをそっと「置いていく」。
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