第九話 晴れた日の花影

夕暮れ、教会の鐘が鳴っていた。

拍手と笑い声が遠ざかり、白いリボンが風にちぎれて舞い落ちる。

猫は、祝福の音が消えていく方とは逆に、小さな路地へと入っていく。


その先に、古びた花屋がある。

閉店間際の店先に、ひとりの女性が佇んでいた。

淡いドレス、裾に小さな汚れ。

手に持った小さな花束が、風に揺れている。


猫は、店の奥から出てきた老店主の足元をくぐり抜けて、ゆっくりと歩く。


「……来たのかい」


店主が言う。

女性は、微かに笑ってうなずく。


「最後くらいは、ちゃんとお礼を言いたくて」


花屋の小さな奥まった作業場。

かつて、ここで彼女は何度も“花嫁の練習”をしていた。

誰にも言えない、ひとりだけの未来を思い描いて。


「アイツ、幸せそうだったよ」

店主が言う。

女性は、少し視線を落とす。


「ええ。とても、幸せそうでした」


数年前の夏、まだ学生だったふたりが、花を買いに来た。

そのたびに、ふざけ合いながら「結婚式にはこの花を」と話していた。


でも、今日その隣にいたのは、別の誰かだった。


「式の途中で、私に気づいたみたいだったけど……たぶん、声はかけられなかったんだと思う」


「……それでいいんだろうよ」


猫は、店の奥から出てきた青い花びらの箱のそばに座る。

その花は、彼がいつも「きみにはこれが似合う」と言って選んだものだった。


女性は、その箱に目を落とし、指先で花びらをひとつつまむ。

そして、それをそっと、自分の花束の中に添えた。


「わたし、この花が好きって、もう誰にも言わないことにしたんです」


猫は、何も言わない。

ただ、その花が彼女の言葉に呼応するように、風に揺れた。


「ありがとうございました」

女性は深く頭を下げる。

老店主は、何も言わず、ただ頷く。


そして彼女は、花を抱えて教会とは反対の道を歩いていった。


猫は、その後ろ姿をしばらく見送ったあと、店先に戻る。

夕日が差し込み、白い花びらが一枚、地面に落ちていた。


店主が拾い、胸ポケットにしまう。


「知られなくていい想いも、あるもんだな」


その言葉に、猫は小さく目を細めた。


鐘の音が、もう一度だけ遠くで鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る