あの日、シャッターを切った理由を君はまだ知らない

黒宮

1 転校生

 始業式の朝。

蝉の声が、耳にまとわりつくように響いていた。


 8月の終わり。じっとりした空気に包まれながら、僕__春川透はるかわとおるは、制服のシャツを首元まできっちり留めたまま、坂道を歩いていた。

町はいつもと変わらない。コンビニの前に自転車が数台停められていて、向こうから走ってくる小学生がランドセルを揺らしている。

この街には、驚きも刺激もない。けれど、それが僕にとっての「日常」だった。


歩きながらふと、スマホを取り出してカメラを起動する。

電柱越しに見えた朝焼けの雲。すっと浮かぶような橙と藍のグラデーションが、どこか懐かしく感じた。


「…悪くない。」


僕の趣味は写真だ。

誰にも言っていないけど、いつかこの小さな町の風景を、全部ファインダーに収めて、アルバムにしたいと思っている。


だけど、それはまだ「夢」って呼ぶにはちっぽけすぎて、誰かに話すには照れくさいから、ただこっそりシャッターを切っているだけ。


そんな僕の日常に、ある日、変化が訪れた。



 ホームルームが始まってすぐのことだった。


「じゃあ、今日からこのクラスに転入してくる生徒を紹介します」


担任の佐伯先生がそう言った瞬間、教室の空気が変わった。

ざわざわと、声が小さく湧き上がる。


誰だろう、と僕も前を見た。

すると、教室のドアが静かに開いて、ひとりの少女が入ってきた。


「__綾瀬澪あやせみおです。よろしくお願いします」


その瞬間、教室が静まり返った。

まるで時が止まったみたいだった。


長い黒髪が、白い肌に映えていた。くっきりとした瞳、でもどこか影をまとっているような表情。

声はやわらかくて、でもはっきりと芯があった。


「…やば、あれ、モデルとかじゃね?」

「いや、マジでかわいい」


周りの男子たちがざわついている。女子たちも気になるのか、小声で話し合っていた。

だけど、僕はその騒ぎの中で、彼女の声だけ浮き上がって聞こえた。

はじめて聞くはずなのに、どこか知っている気がした。


(澪…?)


心の奥が一瞬、ざわついた。


「じゃあ、綾瀬さんは…春川の隣の席、空いてるな。そこに座ってくれ」


先生がそう言って、彼女が僕の隣に歩いてきた。

目が合った。

その瞳の奥に、何かを探すような光があった。


彼女は、小さく会釈した。

僕も、わずかにうなずいた。


たったそれだけなのに、心臓が少し、跳ねた。



 授業が終わって、廊下に出る。

まだ午前中なのに、教室の空気は湿気と熱気でべたついていた。


僕は水をのもうと、教室の裏手にある廊下を歩いていた。

そこで、彼女とすれ違った。


「あ…」


澪が立ち止まった。


「…さっき、隣に座ってた人、だよね?」

「うん。春川、って言います。よろしく」

「澪。…綾瀬澪、だよ」


改めて自己紹介を交わした。それだけで、どこかぎこちない空気が流れた。


「えっと、この学校、初めて?」


当たり前のことを聞いてしまって、少し後悔した。転校生なんだから、そりゃ初めてに決まってる。

けれど澪は、くすっと笑った。


「うん。今日が、最初の日。…なんか、変な感じ」

「そうだよね。最初って、誰でも緊張するし」

「…でも、隣が優しそうな人でよかった」


そう言って、彼女は歩いて行った。


何気ない一言。だけど、胸の奥が甚割と熱くなるのを感じた。


彼女の背中を、いつまでも目で追ってしまう。

まるで、その一歩一歩が、何か大きな運命を引き寄せているみたいに感じた。



「おーい、透!」


教室に戻ると、陽翔はるとが僕の肩を叩いた。


「さっきからにやにやしてたけど、なんかいいことでもあったか?」

「…いや、別に」


とっさにごまかしたけど、顔が火照っているのが自分でもわかる。


「まじかよ。あの綾瀬さん、やばいよな。転校生とは思えない美人だし、なんか神秘的って感じ?お前の隣とか、勝ち組かよ」

「いや、そんなことないって…」

「ふーん?」


陽翔がじっと僕の顔を見つめて、にやりと笑う。


「お前、気になってんじゃね?」

「は!?ち、ちが…っ」

「おー図星かよ!わっかりやす~」


からかう陽翔に反論しながら、内心ではごまかしきれない気持ちが渦巻いていた。


(…気になるのかも、しれない)


はじめて話しただけなのに、何かが引っ掛かっている。

名前の響きも、声も、どこか心の奥をくすぐるようだった。



 午後の授業は、どこか上の空だった。

先生の声が遠くで響いているように感じる。


ちら、と横を見ると、澪がノートをとっていた。

綺麗な文字。姿勢もまっすぐで、どこか凛としている。

だけどその手は、時折止まり、ペン先が空中で揺れていた。

まるで、書くべき言葉を迷っているかのように。


(…大丈夫かな)


話しかけようとして、言葉を飲み込んだ。

昼休みにクラスの女子たちがこっそり話していたのを、ふと思い出した。


「綾瀬さんって、転校前の学校でもよく保健室に行ってたらしいよ」

「体、弱いのかな?それとも…」

「なんか、家庭の事情があるって噂も…」


くだらない噂話。

でも、その中に彼女の「過去」があるような気がした。


目の前にいる澪が何を抱えているのか、僕にはまだわからない。

けれど、知りたいと思った。言葉じゃなくて、もっと静かな方法で。


それが、僕なりの「興味」の形だった。



 放課後。

僕はカメラをもって、校舎裏の中庭にいた。

この時間になると、光が斜めに差し込んで、れんがの壁に柔らかな影を落とす。


僕の好きな瞬間。


何気なくシャッターを切る。

風が通り過ぎ、木々の葉が揺れる音が耳に心地よい。


「__写真、好きなんだね」


ふいに、後ろから声がした。

驚いて振り向くと、そこには澪が立っていた。

制服のリボンをほどきかけていて、かぜで少しだけ髪が乱れている。

でも、その姿がどこか自然で、息をのんだ。


「あ、うん…趣味っていうか、まあ」


言葉に詰まる僕を見て、澪は笑った。


「なんか、似合うかも、静かなところで、風とか、光とか…ちゃんと見つけてる感じ」

「そう?」

「うん。…私も、そういうの好き」


澪はゆっくりと歩いて、僕の隣に立った。

同じ景色を、彼女も見つめている。


「__この瞬間、好きなんだ。うるさくないし、全部が優しく見えるから」


そう呟いた声が、言葉が、風に溶けていく。

まるで、彼女自身がこの時間に溶け込んでいるみたいだった。


「…天候、大変だったでしょ」


僕がそっと聞くと、澪は小さくうなずいた。


「うん。慣れるのって、簡単じゃないよね。でも…」


言いかけて、言葉を止めた。

その横顔は、何かを思い出しているようで、少しだけ寂しげだった。


「でも、なんか今日は…少しだけ、うれしかった」


風に吹かれていた澪の髪が、頬にかかる。

彼女は自分でそれを直しながら、視線を空へ向けた。


「この時間も、この空も…いつか、全部忘れちゃうのかなって思ってた、でも__」


言葉を選ぶように、彼女はゆっくりと続けた。


「忘れたくないって、思ったの。こんな風に誰かと、同じものを見られたから」


その言葉に、僕はどう返していいかわからなかった。

ただ、同じ空を見上げる。


確かに、何かが始まろうとしていた。

でもそれは、ただのクラスメイト同士の会話ではない。


もっと深く、静かに。

名前の奥にあるその人自身を、知りたいと思う感情だった。


僕は、ファインダーを覗いてから、そっと言った。


「…撮っても、いい?」


彼女は、少しだけ驚いたように目を見開いた。

でもすぐに、やわらかく笑った。


「…うん」


そうして僕は、シャッターを切った。

その一枚が、僕の心に深く刻まれるなんて、そのときはまだ、知らなかった。

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