爪痕の主

手帳溶解

  その時知ったのは、恐怖が一つではないという事だった。未知や膨大に対して人の抱く理性の恐怖と、生物としてこれから自らの身に起こる惨劇と顛末を察知する本能の恐怖。そしてどちらも甲乙つけ難く悍ましい精神の号哭であることに変わりはないのだと。


 私たちは周辺の原住民によって信仰されている名前の無い樹海に足を踏み入れ、そして残酷な運命というものに追いつめられていた。樹海に漂う正体不明の胞子と毒虫が私たち四人の全身を蝕み、既に隊の半数は万全に動けなくなっていた。動けなくなっていた半数というのは学者と隊長で、学者の方は満足に喋ることすら許されなかった。辛うじて動く手でノートを手繰り寄せ、震えるペンがそこに記したのはたった一単語の「おいていけ」だった。隊長は麻酔を打ったかのように体が鈍いと言い、それから段々と滑舌が怪しくなってくると私たちへ「息が苦しい」と頻りに訴えるようになった。しかし隊長が自らの装備の殆どを私と副隊長へ授け、学者の傍から離れなくなったことを鑑みるに、どうやら学者と同じ意見に至ったのだろう。私と副隊長は心苦しくもどうすることもできず、ただ安全な洞窟の入り口に寝かせた二人に背を向けて、樹海からの脱出を目指した。


 しかし、あわよくば助けを呼べるかもしれないと一抹の希望を抱き、道を急いでしまったことが大きな失敗だった。ある地点から木々につけていた目印を見失い、更にはそれまで辿ってきた自らの足跡すらも失われてしまったのだ。ついに私たちはあてもなく森の中を彷徨うことにまでなってしまった。全幅の信頼のおけない古めかしい紙切れに記された乱雑な地図を睨みながら、副隊長は進むべき方向に悩んでくるくるとその場で回っていた。私は周辺の樹木を念入りに調べ、我々に安心を与えてくれる人為的な傷跡を探し求めたが、しかしそれは徒労に終わった。古来より人の目印として役に立っていた天上の光球は、この森に影を落とし、鬱蒼とした闇を満たしている深緑の天井によって隠されていたため、我々は位置も時間も奪われてしまっていた。或いは、昼夜関係なく虫のけたたましい鳴き声に溢れ、地面から噴き出す理屈の分からないぼんやりとした輝きによって常にある程度の視界が保障されているこの森は、初めから時間という概念を必要としていないのかもしれない。故に私たちの進む道なき道に変化が訪れることは無く、自らを客観視する為に要される基準となり得るものも存在しない。今歩いているこの道が、一直線に森の外へ向かっているのかすら分からなかった。不安と恐怖、焦燥感を紛らわすための副隊長との会話も次第に途切れ、やがて私の耳には立ち並ぶ巨木の下を満たし続ける虫共の騒々しさばかりが流れ込んでいた。


 恐らく、確信は持てないが私たちの会話が途切れてから大体一、二時間が経った頃、ようやく副隊長が口を開き、久方ぶりの会話を始めた。

「おい、これはなんだ。この道は、」

そう言いながら副隊長の示した地面には、巨大で重量のあるものを引き摺ったような跡が残っており、それが我々の進んでいた直線を横切る形で遠くへ続いていた。縦に横たわった小柄な人間の足から頭までを潰せるほど太いそれは、まるで大蛇が這った道のように思えた。そして恐ろしいことに、それは出来てからまだそこまで時間が経っていないようだった。私は妙に怖くなり、これが人の作ったものであると信じたくなった。

「私たちよりも後に入った人間の仕業でしょうか」

副隊長は私の言葉を聞いて暫く腕を組んで悩んだそぶりを見せた後、巨大な跡の続く先を指さして言った。

「行ってみるか」

「正気ですか?」

「正気だとも、少なくともこの変化の起こらない森をがむしゃらに進み続けるよりはマシだろう」

短い会話を交わしたのち、やはり私も他に選択肢は無いと判断し、我々は進んでいた方向から直角に向きを変えて右へ続く地面の削れた道を進んだ。目印に気を掛けて常に自らの正気を疑いながら道を進んでいた時よりは遥かに歩きやすく、漠然とした恐怖や不安と共に歩いていた時とは異なり、私の傍には好奇心が寄り添った。その道を進みながら、私は副隊長とこの跡の持ち主について討論を交わしたが、案の定なにか革新的な事実に気付くことは無く、人の操縦する機械か、或いは大蛇によるものだろうなどという胡乱な結論となった。いつまでも続く道と、変化の無い景色に退屈を感じ始めた頃、私たちはついにその道の端にたどり着いた。それは人一人分が入れそうな洞窟だった。大きく口を開いた深淵へ続く洞穴からは冷たく湿った風が吹き出でて、私たちを拒絶するように暗闇の向こうで風が鳴いた。私たちは一瞬その穴から吐き出される悍ましい音と生気を奪わんとする冷えた突風に躊躇ったが、しかし漠然とした恐怖が明確な好奇心に勝ることはなく、私たちは何の会話を交わすこともなく洞窟へ足を踏み入れた。

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