第9話 瀬野
◇◇◇
その日、東宮こと
(一体、私は何がしたかったんだ?)
維月が倒れたと聞いて、今度は何の策略かと警戒心露わに彼女の住まいである『照陽舎』に出向いたくせに、そこで、彼女が部屋からいなくなったことを知り、焦った。
……もしや、辛い後宮生活を呪って、命を絶つつもりなのではないか?
必死で彼女を捜索していたら、しかし、なんてことはなかった。
維月は男装して、淑景舎に通じる渡殿の下で、暢気に月草を鑑賞していたのだ。
人騒がせな……と、腹が立った。
仮にも東宮妃が、顔を晒して恥じらいもなく、一人ふらふらと後宮内を散歩しているのだ。
けれど、怒りと同時に、月草を前に、静かに微笑っている彼女に、心がざわついた。
今にも折れそうな細い手足。男装していても、隠せない艶めいた面差し。
小柄な維月の姿が頼りなく、寂しげに感じた。
(……同じなのかもしれない)
彼女も、独りぼっちなのだ。
その後、腹の探り合いと本音を入り混ぜながら、彼女と話していくうちに、想像していたことは、確信に変わった。
維月にとって、呪詛とは真実であって、身近なものなのだ。
彼女は本気で、朱音のために呪詛を解くつもりでいるらしい。
――それこそ、衆目すら意に介さない、決死の覚悟で……。
(私のことを見ているようで、見ていない)
死に対する価値観。
最初から、維月が眺めていた世界は兄の眠る幽世だった。
(あの時、私は……)
彼女を連れ戻したくなった。
後先なんて考えないくらい、発作的に……。
身内しか知らない、愛称まで教えてしまうなんて、軽率すぎたことは自覚している。
しかし、それを後悔しないどころか、邪魔が入ったことに不貞腐れている自分がいた。
不気味なくらい、舞い上がっている心根が理解できない。
はあっと、近年最長の深く重い溜息を吐く。
……そこに。
「ふふっ」
襖障子の向こう側から、不気味な女性の笑声が近づいてきた。
この空き部屋の存在を知っているのは、近従以外にその人だけだ。
人払いが徹底されていることが分かっているせいか、彼女の高笑いは長かった。
「やはり、悶えておりますね?」
すべて聞かれていたらしい。
故意なのかと疑いたくなるくらい、彼女の登場は間が悪かった。
「最悪ですね。貴方に見られていたかと思うと、とんでもない弱みを握られたみたいで、生きた心地もしません」
「ええ、そうでしょうね。これから、楽しく弱みを利用させてもらうことにしますわ」
「貴方が言うと洒落になりませんよ。……瀬野」
微かに鼻腔を擽る、落ち着いた香りと共に、衣擦れの音が響いた。
瀬野は障子の向こう側に座ったようだった。
「弱みというくらいには、ご自覚があるようで、何よりです。東宮さま」
「まったく、執拗な方だな」
最後の「東宮さま」は、わざと強調したのだ。
瀬野は、朱音が維月に放った内通者である。
朱音の乳母が彼女に歌を師事していて、その縁で朱音の母も瀬野と交流があった。
母の死後は疎遠になっていたが、今回、細い糸を手繰って彼女と連絡を繋ぎ、九曜家を探ってもらうことになったのだ。
入内の話が出て間もない頃から、瀬野には維月に接近するように頼んで、九曜家から女房として、後宮に入るよう、推し進めてきた。
今のところ、正体は九曜の誰にも気づかれておらず、彼女も維月を気に入り、信頼を勝ち得ている様子だった。
どんな者に対しても物怖じしない気の強さと、頭の賢さ。
大変優秀な人物であることは、朱音自身よく知っているが、いまだに、彼女の激しい性格には慣れなかった。
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