第23話 復讐前夜
真帆が去ったあとの部屋には、まるで荒れた嵐の後のように静寂が戻った。シロウは乱れた空気を追い払うように窓を開け、新鮮な風を取り入れる。だが心の中には、真帆の言葉と狂気に満ちた視線が棘のように残っていた。
(……あいつ、簡単に引き下がるような女じゃない。必ず、また動く)
その夜は仁美がバイトから帰宅し、何も知らずに「ただいま、シロ。あれ?真帆帰ったんだ」と微笑んだ。シロウはその笑顔を見た瞬間、胸の奥に小さく疼く痛みを感じた。仁美の無垢さが愛おしいほど眩しくて、それゆえに不安が増した。
それから数日が過ぎた。仁美は普段通りに大学に通い、バイトに行き、いつものようにシロウに声をかけ、撫でてくれた。
部屋には穏やかな時間が流れ、二人だけの日常が続いた。
(すぐ仕掛けてくるものかと思っていたが……)
シロウは真帆が何かを仕掛けてくるのではないかという疑念を拭いきれず、常に耳を尖らせ、わずかな異変も見逃さないよう気を張っていた。
仁美はそんなシロウの様子に「どうしたのー?シロ?」と首をかしげていたが、シロウはもちろん答えることはできない。ただ、仁美の足元に寄り添い、喉を鳴らして安心させるしかなかった。
その日の夜も、仁美は「おやすみ」と声をかけてベッドに入り、部屋は穏やかな暗闇に包まれた。シロウは窓辺に座り、月明かりに照らされながら街の静寂を見つめていた。仁美の寝息が聞こえる。あまりにも平和で、あの狂気に満ちた真帆の存在が幻だったのではないかと錯覚しそうになる。
だが、そんな思いを打ち消すように、シロウは自分の毛を逆立て、小さく唸った。仁美の笑顔を奪わせはしない。
翌日も変わらない朝が訪れた。仁美は軽くシロウに「いってきます」と声をかけると、大学へ出かけていった。シロウはベランダに出て街を見下ろす。視線は鋭く、仁美が消えていった方向に細められた目が向けられていた。
不安を拭いきれぬまま時間が過ぎ、夕方が近づいたころ。仁美はいつもならバイトを終えて帰宅する時間になっても戻らなかった。時計の針は夜を告げようとしているのに、部屋は静まり返ったままだった。
(遅い……普段ならこの時間に帰ってくるはずだ)
その時、遠くから救急車のサイレンが夜風に乗って聞こえてきた。
胸が嫌な音を立てて脈打つ。シロウはすぐに思考を切り替え、部屋を飛び出すと隣家の塀を駆け上がり、街の方角を見渡した。救急車の赤い光が、商店街近くの路地で点滅している。
(まさか……!そんなわけ……)
シロウは風を切って屋根から屋根へと飛び移り、視線の先に見える赤色の点滅を目指した。
夜の住宅街はひっそりと静まり返っているはずなのに、遠くからは人々のざわめきが微かに聞こえた。近づくにつれ、冷たい金色の瞳が見逃すことなく現場を捉える。
商店街の裏路地には救急隊員の姿があった。慌ただしく担架を運ぶ彼らの間で、制服姿の若い女性がぐったりと倒れている。その髪は見慣れた黒髪、体格も、持っているバッグも……間違いない。
(仁美……!!)
張り裂けそうな胸の奥を押さえ込みながら、シロウは闇の中で音もなく姿勢を低くし、様子をうかがった。
周囲には救急車に駆け寄る通行人たちの影があり、警官が数人、現場を仕切っている。どうやら仁美は意識を失ったまま運び込まれようとしていた。白い顔に浮かぶ微かな血の跡が視界を刺した。
(……俺は考えが甘かったのか……!?)
だがすぐに頭を切り替える。仁美が病院に搬送されるなら、まずは彼女を追うべきだ。救急車がサイレンを上げて走り出すと同時に、シロウは屋根を蹴って駆けた。闇に溶ける白い影が、車の赤い光を追い続ける。
シロウの脚が屋根を駆けるたび、月明かりに白い毛並みがちらつく。視線は赤色灯を頼りに、救急車の行き先を寸分も逃さず捉えていた。走るたびに心臓が胸を叩き、耳鳴りが脳を揺さぶる。血の気が引くほどの焦燥感が全身を駆け巡る。
(仁美……生きていろ。お前を失うわけにはいかない……!)
救急車は主要道路を抜け、大通りを北へ向かっている。夜でも車通りのあるその道を、シロウは屋根伝いに全速で追跡した。通行人たちは気づかない。白い影が電線を飛び越え、街灯の光をすり抜け、ビルの壁を蹴って駆ける様子を。
やがて車は総合病院の正面に滑り込み、慌ただしい医師と看護師が担架を引き取った。シロウは屋根から飛び降りると、人目を避けながら病院敷地内の影に潜む。真夜中の駐車場を横切り、非常階段を駆け上がると、救急搬入口の窓から病院内を見下ろした。
担架の上には、ぐったりとした仁美。救急隊員が状況を叫び、医師が応急処置を始めている。額から流れる血が頬を伝い、シーツに赤い染みを作っていく。白く息を呑んだシロウの喉から、かすれた声が漏れた。
(仁美……俺が、俺が……!)
冷たく輝く金色の瞳が、わずかに湿り気を帯びた。だが次の瞬間、怒りに変わる。仁美に手をかけたのは誰か。
事故を装った罠か。あるいはあの女――真帆の仕業か。疑念は怒気と化し、夜風に乗ってシロウの全身を震わせた。
(なんで、俺は仁美をしっかり見張っていなかった。俺の油断が……仁美を……)
病院の外周を見回す。人気のない裏門、薄暗い非常階段、駐車場の奥。真帆が仕掛けていたなら、ここに痕跡を残しているはずだ。
あるいはまだこの病院周辺に潜んでいるかもしれない。シロウはすぐさま周辺の気配を探った。わずかな風の乱れも逃さない。息を殺して耳を澄ます。
(仁美を守れるのは、俺だけだ……!)
病院内の明かりがまぶしく瞬き、救急室から呼び声が上がった。医師の緊迫した声が耳に届く。
仁美の状態は危険なのか――だが、シロウは屋上の影から一歩も動けない。ここを離れれば、仁美に迫るかもしれない脅威を見失う。それだけは絶対に避けなければならなかった。
冷えた夜風が頬を打ち、白い猫の毛を揺らす。病院の屋上で、シロウは金色の瞳を闇に光らせた。仁美が病室に運び込まれるまでのわずかな時間が、永遠のように長く感じられた。
救急室からはスタッフたちの慌ただしい声が漏れ、モニターのアラーム音が小さく響いている。シロウは病院屋上の縁に身体を伏せ、息を殺して中を見守っていた。心臓はまるで胸を破ろうとするかのように高鳴る。
遠くでは救急車のサイレンがまた鳴り響き、別の患者が運び込まれるのか、さらに慌ただしさが増していく。
(……タイミングが出来すぎている……)
シロウの脳裏に真帆のあの狂気に満ちた黒い瞳が鮮烈に蘇る。
疑念は渦を巻き、喉元を焼くような苛立ちが込み上げてきた。鋭い爪が屋上のコンクリートを浅く抉り、乾いた音が夜に吸い込まれる。
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