第16話 聖夜を君と.2

 数時間後、ホールはアンコールの演奏を終え、いつまでも鳴り響くだろう万雷の拍手に包まれていた。


 目に見えないことが不思議なくらいの音圧と、色とりどりの照明が織りなす舞台に、聖名は想像以上の感動を覚え、はしゃぎ出しそうになるのをぐっとこらえ、拍手を送り続けていた。


「終わったね」


 開演中、手拍子も拍手も一切しなかった静海が淡白に告げ、立ち上がった。


 美しい瞳が、『外に出よう』と促しているのが分かる。


 聖名はもう少しだけこの非日常の余韻に浸っていたいとも思っていたが、開演前と同じような目に合うのはごめんだと考え直し、静海と共に席を立つ。


「静海」


「なに?」


「あんまり楽しくなかった?」


「え、楽しかったよ?なんでそう思うの?」


「だって、拍手もしないし、すぐに席を立っちゃうから…」


「でも、演奏は終わっていたし…。それに、拍手しなくちゃいけないってのも聞いてないし…別にいいかなって」


「なるほど、興味がないわけじゃなかったんだね」


「もちろん。私はお父さんが、思っていたよりすごいことをしているっていうのが分かって、嬉しかったかな」


 ほんの少しだけ、静海は誇らしげに頬を緩める。そして、耳を澄まさなければ聞こえないくらいの声量で、「いくら写真でも、『音』だけは切り取れないからね」と感慨深そうに言った。


 とても静海らしい物言いだと、聖名も不思議と口元が綻ぶ。


 その後、口々に感想を言い合うオーディエンスらの間を抜けて外に出た二人は、清冽な冬の空気と、目の前に広がった光景に言葉を失うこととなった。


 石畳一面が真っ白い雪で覆われている。そのうえ、夜の虚空は荒れ狂う吹雪に飲み込まれてしまいそうだった。


「雪だ…」さすがの静海もこれには驚愕を浮かべている。


「あ、あはは…とっても吹雪いてるね。天気予報じゃ晴れ間が広がるって言ってたのに…んぅ、電車、動いてるかなぁ?」


 電車が止まっていたらどうやって帰ろうか不安に思いつつ、聖名は携帯を取り出し、運行状況を確認する。その一方で、静海は耽溺した顔で白い世界を見つめていた。


 ネットに上がっている情報を見るに、今はなんとか動いているようだ。しかし、この吹雪だ。いつ止まってもおかしくないだろう。早いうちに電車に乗らなくてはならない。


「静海…あれ?」


 突如、隣に立っていたはずの静海が消えた。


 黙ってどこに行ったのだろうか、と辺りを探すと、思わぬところに彼女の姿はあった。


 コンサートホールの表広場。クリスマスの電飾が白に塗り潰されそうになっている真下に、静海はいた。


 当然、白の暴乱に飲まれかけている彼女の頭や肩には、雪が降り積もり始めている。しかし、静海はそんなことお構いなしで一眼レフを構え、シャッターを切り続けていた。


 周囲の人の何人かが、静海のことを話すのが聞こえる。


 カメラがよっぽど好きなんだろうねとか、綺麗な人だとか、男なのか女なのかとか、絶対に変わってるよねとか…。


 聞いていて、胸の奥がじんじんするものがあった。


 カメラ好きだし、綺麗な人だ。だけど…。


(男の人でも、女の人でも、どっちだっていいじゃん…!それに、静海が変わった人だからって、何か悪いことでもあるの…?)


 本当は、今こうして静海のことをとやかく言う人間を睨みつけてやりたかったし、『私の友だちが何か迷惑かけましたか?』と言ってやりたくもあった。


 でも、当然ながら聖名にはそんな勇気はない。無論、相手に悪気はないかもしれないから、何も言わないほうが良かったのだろうが、それは関係なく、聖名にはできないことだった。


 だから聖名は、せめてと思い、深く、深く変わりつつある雪景色のなかへと飛び出した。


 吹雪のために、前を向いているのすらままならなくなるが、それでも聖名はずんずん歩いて静海のそばに立った。


 変人だろうがなんだろうが、静海のそばがいい。それで仲良く自分も変人の仲間入りだとしたら、上等である。


「静海」


「ん…?」


 静海はこちらも向かず、うわごとのように返事をした。集中している証拠だ。写真を撮っているときはだいたいこうである。周りの声はあまり聞こえない様子だ。


「良い写真は撮れそう?」


「うん」


 また、上の空で返事。普通に話しているときなら気になるが、今は気にならない。静海はカメラを持つとそうなる人だからだ。


 静海に雪が降り積もるのと同様に、自分にも雪が積もっていく。


 ややもすれば、悲惨な光景だ。しかし、自分だけが静海と同じ場所に立ち、同じものを見ていると考えれば、心は温もりで満たされた。


 そのうち、静海がふとカメラを構えるのをやめて、コンサートホールのほうを見た。何かを探しているようだったが、見つからないらしい。


 静海の顔がにわかに困惑と後悔の色に染まる。無表情な彼女にしてはとても珍しいことだった。


 それがあまりにも不憫に思えて、聖名は優しく声をかける。


「静海、どうかしたの?」


「え、わっ、いつからそこにいたの――って、聖名!雪、すごい積もってるよ」


「静海が飛び出してからすぐだよ。あと、雪はお互い様」


「あぁ、そう…屋根のあるところで待っててよかったのに」


「む、なんでそういうこと言うかな。私はね、静海。静海と一緒にいたかったの」


 悪気はないと分かっていても、ついついむくれてしまう。


 静海と出会うまでは、自分のことを温厚で聞き分けの良い人間だと自己評価していたが、最近は段々と怪しくなってきた。


 互いに誤解することがないよう、気持ちをごまかさずに伝え合う約束をした自分と静海。とはいえ、さすがに困らせるだろうかと相手の顔を窺えば、彼女はなんとも言えない顔をしていた。


 嬉しそうな、切なそうな…あるいは、悲しそうな。


「ありがとう。でも、雪、積もっちゃってるから…風邪ひくよ」


 そう言うと、静海は優しい手付きで聖名の頭に積もった雪を払う。


 視界いっぱいに雪が舞う。その銀窓の向こうに頬を赤くした静海がいて、不意に視線が重なった。


 深く、深く…底の見えない海底がある。


 光の届かない水底には、艶やかで耽美的な黒が宿っている。


「風邪ひいたら、看病に来てもらおうかな」


「え?誰に」


「誰にって、静海だよ」


 聖名は静海に対し、ちょっとだけ上目遣いになって、小首を傾げてみせた。


 あざとい仕草であると自覚したうえの行為。恥ずかしくなっては負けだ。


 さて、どうだろうと静海の反応を待つ。


 すると、彼女は事もなげに「いいよ。そのときは飛んでいく」と告げながら、聖名に向けて素早くカメラを構える。


「え、あ…」


 予想外な行動とストレートな言動に驚き硬直してしまっているうちに、パシャリ、パシャリと何度かシャッターが切られる。


「…うん、いいね」


 カメラの画面を見つめながら、珍しく嬉しそうにする静海に息が止まりそうになるも、どうにか呼吸を整え、じっとりとした目つきで聖名は言う。


「『いいね』じゃないよ。もう」


「でも、とても良い写真が撮れたよ?」


 どこをどうしたら、『でも』なんだろうか、と静海が差し出す画面を覗き込む。そこには、寒さか羞恥かで頬を染め、上目遣いになって小首を傾げる自分の姿があった。


「うわっ…やだ、なにこれ、恥ずかしい」


 かわいこぶった姿に目を覆う。すると、なぜか静海が心外そうに眉をひそめた。


「可愛いと思うけど」


「そ、そうかなぁ?」


「そうだよ。私が何にでもかんにでも、馬鹿の一つ覚えみたいに『かわいい』って言わないのは知ってるでしょ?」


 皮肉交じりではあるが嬉しい感想だ。思わず、にやけそうになる。それを抑えて静海の横顔を盗み見れば、相変わらず端正な顔立ちがそこにあった。


 この人の口から、『かわいい』なんていう褒め言葉を引き出せたのだ。嬉しく思わない女の子はいないだろう。


 調子に乗った聖名は、吹雪の最中であることも忘れ、わずかに身を寄せ意味深げに尋ねる。


「ふふ…。ねぇ、時間、止まってた?」


 相手を試すような、揺さぶろうとしているような吐息まじりの声に静海が、こちらを向いた。


 穏やかで期待に満ちた沈黙の後、彼女は言う。


「いや、全然。というか、時間は止まらないよ」




「あー…やっぱり、バス、止まってるよ」


 学校帰りに使ういつものバス停のベンチに腰掛け、携帯でバスの運行状況を確かめていた聖名は、寒さに身を縮めながら残念そうに言った。


「雪の勢いが弱まらないからね。電車も私たちが乗ったのを最後に動いてないんじゃないかな」


「うぅ…どうしようか?ここにいても寒いだけだし。風がすごいから、屋根の下にいても雪が積もりそうだよ」


 まるで他人事みたいに言う静海に尋ねれば、彼女はすっくと立ち上がり、「じゃあ、歩くしかないね」と平然とした面持ちで言った。


「え、こんなに吹雪いてるのに!?」


「うん」


「か、傘もないんだよぉ…?」


「でも、他にどうすることもできないでしょ。必要なら傘はコンビニで買えばいいし…それとも、何か良い案があるの?」


「それは…ないけど」


 誰かに迎えに来てもらうにしても、今日はクリスマスだから両親とも出かけてしまって、遅くまで帰らない。いつもなら自分もその中に交じるわけだが、静海との予定があると言って断ってしまっていた。


 父はまさか彼氏か、とショックを受けていたが、母のフォローでどうにかなった。ただし、母は訳知り顔で、「静海さんによろしくね」などとからかう始末であったが。


「じゃあ、行こう。こうしている間にも雪は積もる」


 静海はそう言うと、すたすたと先に歩き始めてしまった。


「あ、静海!待ってよ」


 静海らしいマイペースぶりに聖名が慌てて後を追えば、彼女の声を聞いた静海がしっかりと立ち止まり、振り返った。


 きちんと待ってくれる静海にお礼を告げつつ、吹き荒ぶ白の風を受け、静海にぴったりと身を寄せ、しれっと腕を組む。


「さ、寒い…早く行こう!」


「…あの、歩きづらいんだけど」


「いいから!早く!」


「え…?わ、分かった」


 二人は歩き始めのうちは絶えず言葉を交わした。


 静海の家は意外と近く、ここから15分も歩けば到着することとか(自分は30分以上かかる)、冬の空気は酷く透き通っていて綺麗だとか、オリオンの美しさとか…。


 しかし、段々と寒さのせいで互いに口数が減っていった。一応、コンビニには寄って傘を買っていたが、焼け石に水。たいして役に立たない。


 無理もないことだった。それくらい、真冬の洗礼は手厳しかった。


 静海の言ったとおり、20分も経つ頃には彼女の家へとたどり着いていた。


 コンビニがすぐそばにある、何の変哲もない二階建ての一軒家。少しだけ住宅街から離れ、竹藪に囲まれていることだけが特筆すべき点だろうか。


「私、ここだから」と静海が門の前で佇み、そう言った。


「あ、うん…」


 本音を言うと、もう少しだけ一緒にいたい。それに、この吹雪の宵を、一人だけで歩いて行くのはちょっと怖かったし、嫌気も差した。


 しかしながら、こんな時間からお邪魔させてほしいとはとてもではないが言い出すことはできない。


 相手の家族にも迷惑をかけるだろうし、と考えたところで、ふと、聖名は疑問を抱く。


(…あれ?静海って、何人家族なんだろう?お父さんがコンサートでいないから、留守番しなくちゃいけないってことは…)


 あまり自分のことを話さない静海から、家族のことを聞いたことはない。兄弟がいるのか祖父母と暮らしているのかとかも。


 そうこうして立ち止まっているうちに、静海がうわごとのように口を開く。


「…白が、積もっていく…」


 突拍子もない発言に、聖名は怪訝な感じで首を傾げる。


 静海には、たまにこういう発言があった。感覚的な表現すぎて、彼女の言わんとするところが読めない。


 もしかすると、遠回しな発言とか、言外の意図が多分に含まれた発言とかを聞いているときの静海の気持ちにも、こんな感じなのかもしれない。


「綺麗だね」


「うん」


「まぁ、死ぬほど寒いけど…」


 苦笑しながら聖名がそう言えば、静海は一度、「あのさ」と口を開いてから、「あぁ、いや、なんでもない」と尻込みして視線を逸らした。


「静海が言い淀むなんて珍しいね、どうしたの?」


 静海との時間を一秒でも長く…と思い、寒さもこらえ、言葉を紡ぐ。


 対する静海は、視線を何度か聖名と白い地面との間で往復させたかと思うと、ややあって、再び聖名のところに戻ってきて言った。


「家に来る?」


「え?家?」


「う、うん…。聖名が良いなら、だけど」


「ま、待って。それって、静海の家にお邪魔してもいいってこと?」


「そう、だけど」


 信じられず、絶句する。


 静海がどういうつもりなのか、聖名には理解しきれなかった。


 寒いし、酷い天気だから、家で暖を取っていかないか…と誘えるほど、静海は気が利かない気がするが…話すきっかけになった電車での一件を考えると、明確に誰かが困っているときは気遣える人ではあるのだ。


 それとも、もっと別の意味だろうか。


 雪降る聖夜、ホワイトクリスマスだ。


 特別な意味を期待しても、バチは当たらないのではないか?


 知りたい。


 どうしても知りたい。


 テスト範囲なんてどうでもいいもの何千倍も知りたかった。


 ぐるぐる頭の中で思考を巡らせる。静海はいつもどおり、それに口を挟むことはなかったが、少し狼狽しているようにも見えたので、単純に待っているだけではなさそうだ。


「…どうして?」


 なんとか言葉をまとめて、そう尋ねる。


「聖名が、寒いって言ったから…」


 ちょっとだけ期待外れの解答。じっと静海を見つめれば、聖名がその解答に満足していないことが伝わったらしく、静海は改めて言葉を綴った。


「それに…本当はちょっとだけ、このまま聖名を帰すのが惜しくなってる」


 次は、十分な解答だった。


 これ以上はない。


 そう考えながら、どうせまた、もっとと欲しがるのだろうと、聖名は小躍りしそうな嬉しさと愛すべき浅ましさの狭間ではにかむのだった。

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